二年前(後編)
とっさに水の中に伏せる――頭上を矢がかすめるのを感じた。
そういえば、あれだけたくさんいた妖精がひとりもいなくなっている。水中でココと目があった。ココはティアの頬に両手をそえると、小さくうなずく。
風を使って湖面から飛び出すと、ポシェットも服も靴もそのままに、ティアは必死で走った。先を飛ぶココのきらめきを追いかける。
ばか、わたしのばか――弓を持ってこなかった。だって、今日は狩猟日じゃない。精石を取りにきただけ。弓が必要になるなんて思いもしなかった!
全力で走っているせいで肺は悲鳴をあげているが、白角鹿の最期を思い出すと、それ以上に胸を突き刺す痛みを感じた。
――どうして? 狩猟の日じゃないのにどうして? 人間は狩猟日を守らないの?
そう心で叫んで、ふと思った......足を止める。
「待って、ココ......待って!」
「なに? 危険だよ、ティア。早く逃げなきゃ!」
「わたしが逃げたら、白角鹿はどうなるの?」
ティアの問いに、ココは悲し気な顔で口をつぐんだ。
「しかたないよ。もうあの子は森に還ったの」
「だって、あの人たち角を切ろうとしてた! 白角鹿の角を......」
「密猟者はよく来てるよ。エルフが気づいてるのはその一部だけなの。ねえティア、お願い、逃げないと。アタシについて来て......」
ティアは返事をせず、きびすを返した。
白角鹿の角は森へ帰すべきもの。そうすればあの鹿がまた生を受ける時に、森に帰ってくる道しるべになる。それを切り取って持ち去るなんて、どうしても見過ごせない......。
「ティア!」
ココの声をふりきって霧の泉に戻ろうとして、ティアは胸に衝撃を受けてよろめいた。次いで首にも「ドッ」という衝撃と同時になにかが当たり、足がもつれ、そのまま後ろへ倒れ込む。
なにも聞こえない。ココが目の前でなにかを叫んでいるが、なんだろう。
視界の端に赤い風切り羽が見えた。目を動かすと、風切り羽の下に細い木製の棒がついている。手で触ってはじめて、ティアは自分の首に矢が刺さっていることに気づいた。
頭を動かすと、赤い羽はもうひとつ見えた。体のどこかにもう一本刺さっている......痛みなのかなんなのか、よくわからない鼓動のような感覚が、全身をどくどくと駆け巡っていた。
「............」
ココの名前を呼ぼうと口を開けたが、声にならなかった。かわりに口からあたたかいものが流れ出ていく。開いた口からは出ていくばかりで、呼吸もできなかった。
わたし、ここで死ぬの? おじさまの言いつけを守らずに、掟を破ったから? あのかわいそうな白角鹿みたいに?
もうココの姿もよく見えなかった。視界にきらめきがあるのだけはわかる。
死にたくない。死にたくないよ。わたし、まだココと離れたくない......死にたくない......ココとずっと一緒にいたいよ......。
ティアの目が覚めた時、森はすでに夜だった。
あちこちから無数の虫の声が聞こえてくる。夜のとばりが落ちた森にふさわしい、美しい音だ。
しばらくは頭がぼんやりとしていたが、次第に記憶がはっきりとしてきた。
がばりと勢いよく体を起こす。首をさわる......ない、矢が刺さってない。胸にもなにも刺さっていないが、肌着は血まみれで穴も開いている。両手も乾いた血にまみれて、てのひらも腕も赤黒くなっていた。
頭を巡らすと、ティアのすぐ脇に赤い風切り羽の矢が二本落ちていて、その間にココがくたりと横たわっていた。
「ココ!」
あわてて拾い上げるが、ココは目を閉じたまま動かない。
どうして、どういうこと? 妖精は眠ったりしないのに、なぜ目を閉じているの?
「ココ、起きて......ねえ、ココ!」
何度も叫んで揺すると、ココは「ンー」と身じろぎをした。ティアは息をするのも忘れて凝視する。
赤黒いてのひらの上で、ココは伸びをするように両手を伸ばし、ぱちりと目を開いた。宝石のような美しい瞳が、じっとティアをとらえている。
「良かった、起きたのね......どうしたの? いったいなにがあったの?」
ティアが聞くと、ココはきょとんとして何度も瞬きをした。不思議そうにきょろきょろとあたりを見ている。
「ここ、どこ?」
「え?」
ココはティアのてのひらから舞い上がると、夜の森の中で幻想的にきらめきながら、ふわふわと飛んでみせた。
「わぁ、すっごい気持ちがいいね、ここ! どういう場所なの?」
無邪気にそう言うココに、ティアは言葉を失った。
「......な、なに言ってるの? 大妖精の森よ。わからなくなっちゃったの?」
「ダイヨウセイノモリ?」
うーんと首をかしげると、ココは不思議そうにティアを見た。
「よくわかんないけど、アタシ、ここが大好きかも!」
ココは森をひとしきり見渡すと、キャーッと歓声をあげながらくるくると飛びまわった。そして、呆然とするティアのもとに戻ってくると、満面の笑みでふたたびくるりと回転する。
「アタシね、風の妖精のル・ココ! ねえ、あなたはだぁれ?」
月明かりを浴びてきらめきながら、ティアに向かってそう言った。
「......やめて......」
ティアの視界から金色が消えたとき、体は小刻みに震えていた。
両頬から首までつたっていく冷たさが不快だったが、体が動かないので拭うこともできない。
レイは眉根を寄せてじっとティアを見ていたが、小さく息を吐いて目をそらすと、ゲイリンへと向き直った。
「ねえ、もう満足した? これはずしてあげなよ。泣いちゃったじゃん」
ココを掴んだままのゲイリンは、レイの声など聞こえていないようだった。
「蘇生......信じられん。この妖精が?」
「ねえ、聞いてるー?」
「これまでさまざまな妖精を試したが、蘇生などという理に反した行動は見たことがない。仮にそんなことができるとすれば、それは......まさか......」
ゲイリンは言葉を止めると、あの燃えるような瞳でココを見つめた。瞬きもせず、まるで睨みつけるかのように凝視する。そして、突然ティアを見た。その鋭い眼光の奥に、わずかな驚愕が浮かんでいる。
「お前は......選ばれたんだな?」
ティアは木の根に自由を奪われ、床に倒れたまま、鬼気迫る形相のゲイリンを見返した。彼がなにを考え、このような行動に出ているのか理解できないが、ひとつだけはっきりとわかったことがある。
ゲイリンは妄執に取りつかれている。この表情を見ればわかる。いったいこれは誰なのか。タラサたちの中で一番まともだと感じていた男は、どこにいってしまったのか?
「わたしは選ばれなかった......だが、お前が選ばれたんだな? あの森で――大妖精シルフに」
口をはさもうとするレイを押しのけると、ゲイリンは空いた右手でティアの首をわしづかみにした。
「ぐ......」
「礼を言おう、セレスティア。お前のおかげでついに手に入った。森にいた200年間、ずっと見つけられなかったものが」
ゲイリンに宿った熱は、その両眼を飛び出し、いまや体全体を覆っているかのようだった。手の力がどんどんと強くなる。息ができない。
「大妖精シルフを持つにふさわしいのはこのわたしだ。お前のような小娘ではない。しばらく眠っていろ」
彼の口が「レーテ」と唱えると、ティアの意識は暗転した。