剥落する日常、魔術という名の常識
2036年5月29日 午前10時03分
「夢――ではないかね?」
翌朝、天乃が目を覚ましたことで、藪と名乗る壮年の医師による問診が天乃の個室のベッドで開始された。眩しい朝の光が窓ガラスを突き抜け、消毒液が匂う白い個室のベッドを白々と照らし出している。
天乃が昨夜に推察したとおり、そこは浅木大学付属総合病院の一室であった。
天乃が記憶喪失であると正式に判明し、その原因について医師が言及しようとした際、ふと天乃は昨晩の出来事について口にした。
それに対する藪の反応が、先ほどの言葉である。
「君の話には客観的な結果が一切残ってないのだよ。窓が割れた音を聞いた者も、君の首筋の傷跡も何も残っていない」
そう云って首を振る藪の指摘はどこまでも正論であった。
それだけに、天乃も昨夜のことは夢だと思い始めていた。
「いや、君の云っていることが本当だとすれば、痕跡がないことにも理由が付くがね。そして、その少女は間違いなく魔術師なんだろうね」
(ん?)
ベッドに腰掛けたまま疑問を抱く天乃を置き去りにしたまま、藪はパイプ椅子に浅く腰掛け、カルテから視線を外さぬまま淡々と告げた。狭い個室の空間に、彼の事務的な声だけが冷たく反響する。
「音を消す魔術。窓ガラスを再生する魔術。人体の傷を再生する魔術。変身魔術。それと、おそらく飛行なり浮遊なり、跳躍か――身体強化かな? それらのいずれかの魔術を使えることになる。ここは、五階だからね」
(んん?)
今や天乃は混乱の極致にあった。この藪という医師がいったい何を云っているのか、ここが五階であるという事実以外、その一切が理解の範疇を超えていたからである。
「だが、そのように高度な魔術を多彩に扱う魔術師は現時点ではまだ確認されていない。演算領域の壁に阻まれるだろうからね。まだ、君の見た光景が夢や幻覚だという方がしっくりくる」
「あのっ!」
堪え切れなくなった天乃が焦ったように大きな声を上げる。
「何かね?」
「魔術って......何かの冗談ですか? そんなもの、あるわけないじゃないですか」
今度は藪が困惑の表情を見せる番であった。
数秒の沈黙が流れた後、藪は思い出したかのように言葉を発した。
「――なるほど、記憶操作に加えて常識改変まで行われているのか。どおりで妙な反応だと思ったよ」
「と、云いますと?」
「君は、現在、記憶喪失――正確には逆行性の全健忘、全生活史健忘だが、その原因が何かは知っているかね?」
「いいえ」
天乃は藪の言葉に首を横に振る。
「記憶障害の原因は主に心因性・外傷性などが知られているが、君の場合、魔術による外傷によらない直接の記憶操作だと既に判明している。とはいえ、記憶操作自体は珍しい魔術ではない。過去の魔術師たちは記憶操作を使用することで魔術の神秘を保っていたという話だしね」
そう云って藪は手元のカルテから目線を外し、天乃を正面から見据える。
「ただ、全ての記憶を消した上、常識改変まで伴うとなるとこれは尋常ではない。まさか、魔術が存在するという常識を改変するとは。――それに一体何の意味があるというのだ」
藪は難しい顔で、改めて天乃に向き合うかのように椅子に座り直す。
「いいかね。魔術というのは実在する現象だ。そして、それは広く世間に認知されている常識の部類なのだよ。魔術師には個人ごとに演算領域というものが存在し、まぁ、簡単に云えば浅く広く多彩な魔術を扱うか、深く狭く一芸を極めるかという選択を強いられている。向き不向きも当然ある。その点で君の云った少女は深く広くやりすぎなのだよ。だからこそ、ありえないという話をしたというわけだ。わかるかね?」
「えぇ、だいたいはわかりました」
天乃は藪の説明に首肯しながら、話の先を促した。
「君、本当に今の話を受け入れたのかね?」
「え? はい。魔術と呼ばれるものが実在するという前提で物事を理解し直しましたので。その上で、今の説明には特に疑問は覚えませんでしたけど」
そのような天乃の反応に対し、藪は訝しむように首を捻る。あたかも、その反応は予想を遥かに上回るというかのようであった。
「まぁ、では話を続けよう。この魔術という技術は万人に拓かれたものではない。かくいう私も扱える代物ではない。扱えるのはせいぜい地球人口でいうところの七パーセントといったところだろう。意外と多い、と感じるか少ないと感じるかは個人の主観によるものだろうがね」
そう云って藪は言葉を区切ると、病室のカーテンを開き、天乃に外を見るように促す。
「ところがだ。この魔術特区――浅木に限ってはそうではない。人口の約九割以上が何らかの形で魔術に関与しており、五割五分以上が魔術を扱える、そういう特殊な場所なのだ。未成年――つまり、十八歳未満に限るなら、魔術使用者は九割九分以上といったところだろうな」
藪はそう述べて|天乃の反応を確認するかのように言葉を区切る。対する天乃は、その言葉を受けても特に疑問を抱いた様子はない。
「あぁー、というのも、この浅木では、魔術を扱う才能を持った未成年者を集め、まずはその制御法などを教え込む教育機関とその関連の研究施設との集合体という側面を持っているのだ。痛ましいことに、この制御法を会得する前に自分の魔力を暴走させて亡くなる新生児もいるくらいだからね」
「では、その、オレも? 魔術を使えるはずだと?」
「いや、その意味では君はこの特区では少数派だ。君に魔術の才能はない」
天乃は自分にも魔術の才能があるのかと一瞬期待したが、藪はあっさりとそれを否定した。
「ん? あれ? オレ、未成年ですよね?」
「そうだね。データ上、現在十五歳。今年で十六歳だ。ただ、君はそうだな。なんというか。『三親等以内に魔術遣いがいる魔術の才のない者』に該当するのだよ。そういった者についても今年度から第三高は募集していてね。主に遺伝と魔術の関連性についての研究に協力してもらっている――ということになっている」
そこで、なぜか藪は語尾を曖昧にぼかした。
まるで、「表向きは」という単語が省略されたかのような違和感を受けたが、天乃は沈黙することで先を促すことにする。
「だから、そういった協力者に対する今回のような魔術に関する事件・事故は避けなければならず――というのが建前でね。今回の件は大変な不祥事になるわけなのだよ。自衛手段の乏しい未成年の非魔術遣いに魔術行使による攻撃など、大問題だ」
その言葉を聞き、天乃は自分が途方もなく大きな事件の当事者であるかのような錯覚を覚えた。
いや、錯覚ではないのかもしれない。
実際、その話を前提とすれば、紛れもなくこれは大事件だ。
「ただね、そのような事件・事故を防止するための『措置』は当然、用意してある。君にこんなことを聞いても仕方ないと思うが、君の守護霊は今どこにある?」
守護霊という聞き慣れない単語と、詰問するような藪の口調に、天乃は再び困惑を深めた。
「君たち、魔術を扱えない者に対しては、この浅木から守護霊と呼ばれる防衛機構が貸し与えられている。そして、有事の際には君たちを保護してくれることになっている。そして、守護霊は攻撃を防ぐと同時に最寄りの警備隊が駆けつけるという仕組みになっている。もちろん、濫用すれば、処罰されるのは君たちのほうだがね」
藪は、警備隊とは浅木における警察のような存在だと補足する。
「ところが、だ。君の所持品からは守護霊が憑依している物品が発見できなかった。物理的な方法で守護霊を奪われたという可能性もある。しかし、だ。実は、守護霊は一定の条件さえそろえば、魔術的な守護だけではなく、物理的な盾としても機能するはずなのだ。当然、その際も警備隊への通報がなされる。にもかかわらず、今回はそのケースにも該当しなかった。そして、仮に物理的に守護霊が奪われたとしても、君が任意に手放したとしても、その時点で警報が発令される仕組みになっているのだ」
藪の説明を踏まえると、天乃から守護霊を奪うことは相当に困難であることが伺えた。
「そうすると、考え難いのだが、守護霊が警報を発する条件を満たす前に守護霊を無効化する手段が確立された可能性すら考慮しなければならない。その技術は、この特区における未成年者の非魔術遣いの安全を脅かすものだ。わかるかね?」
「はい、おおよそ理解できました。まとめると、今、オレがいる特区とやらにおいて魔術師ではないオレを守るはずの鉄壁の防衛システムが未知の手段によって無効化されてしまったってことでいいんですよね?」
「......理解が早くて助かる。が、君、ちょっと奇妙だね。なんというか、落ち着きすぎてはいないか?」
「そうですか? 確かに、何もわからない状況ですけど、ちゃんと説明してくれる人がいるんですから、取り乱しても意味ないじゃないですか?」
天乃のそれは奇妙というにはむしろ不気味であるくらいなのだが、そのことに本人だけは気づいていないようであった。
「まぁ、長々と説明したが、ここからが本題だ。君の記憶は魔術的な作用によって操作され、消去されているといったね。これは正確に云うと、根本からなくなっているわけではなく、上から真っ新な記憶と改変された常識といういわば、印刷されたシールが張られていて、本来の記憶と常識が隠されているような状態なのだ。つまり、その強固なシールさえ剥がせば、記憶と常識は元に戻る可能性が高い。だから、その復元を試してみようと思う。それが、守護霊を突破した方法の解明につながるかもしれないし、手っ取り早く君の傷病を回復させる手段でもあるからだ」
それは天乃にとっても望むところであったが、藪の口ぶりから察するに、特区の安全維持の方が優先順位は高そうであった。
もっとも、治療を拒否する理由はない。自身の持つ情報によって今後の安全が強化されるのであれば、協力もやぶさかではないというのが天乃の判断であった。
「わかりました。治療はお任せします」
「そうか。では形式的なものだが、こちらの書類にサインしてくれないか。印鑑はないだろうから、サインだけで構わんよ」
藪はあらかじめ用意していた書類を天乃の前へと差し出した。
「えっと、保護者の同意とかはどうなるんでしょう。未成年の同意だけではこういう大事なことは決められなかったような......」
「なに、そちらに関しては既に手配済みだ。安心するといい。なにしろ、君の『三親等以内の魔術遣い』こそが君の法律上の後見人であり、君の守護霊の使役者なのだからね。現在、君に残ったパスを辿って守護霊を捜索中のはずだ」
手際の良さと、不自然なほど情報通な藪を訝しみ、天乃は形だけの抵抗を試みたが、あっさりと退路を断たれて契約書にサインする運びとなった。
保護者欄には「百目鬼亜澄」という署名がなされており、既に押印も済まされていた。
「ありがとう。それでは、早速治療に移ろう」
「は? え? 今からですか?」
「そうだ、既に精神干渉系の魔術師を呼んである。今回の件は特異な事例でね。早期の解決が望まれる。あとは君の意識の回復を待つだけという状態にしていたのだ。では、早速手術室へ行ってもらう」
「手術!?」
「外科的なものではない。魔術的な意味での施術だ。なに、記憶はすぐに戻るだろうさ」
「心の準備的なものは――」
「移動中にお願いしますよ」
柔和な笑みを浮かべた藪に見送られ、天乃はあまりに急激な展開に翻弄されながらも、看護師に導かれて手術室へと向かっていった。
一人部屋に残った藪は、周囲を憚るようにして小さな独り言を漏らした。
「さて、午後からこの病院は見舞い客で溢れる時間帯となる。この部屋の鍵に関しては開けておいても問題あるまい。ここには誰もいないし貴重品はないのだから。彼の記憶は戻らんだろうが、退院は早くて七日後、再来週には確実に退院させよう。では、健闘を祈るよ」
藪はそう云い残し、部屋を去った。
数分後、静寂の戻った病室のベッドの暗がりから、スルスルと這い出す影があった。黒髪に赤い着物の少女――英莉である。
彼女は床の冷たさを殺すように音もなく立ち上がり、廊下から聞こえる看護師たちの慌ただしい足音と雑踏に紛れるように、素早く病室の扉へと滑り出した。
結局、彼女は密室からの脱出を諦め、扉が開く瞬間を待つためにベッドの下に潜伏していたのである。
英莉は慎重に部屋を抜け出し、病院関係者の雑踏に紛れて病院を後にした。
彼女はそのまま迷いなく足を進めていく。すべてが計画通りに推移している事実に、安堵ではなく、深い疑念を覚えながら。