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煙は相変わらず立ち込めていた。でも足元だけだ。足以外はちゃんと見える。
いつの間にか見知らぬ場所で小柄な黒いローブを着た人とテーブルを挟んで対面に座っていた。
「招待状無しでここに入ってきたのか。」
小柄はそう言った。はて、招待状とは?
あたしがポカンとしていると、その小柄のその人はあたしに向かって手を伸ばした。
テーブルの向こう。届くはずの距離ではないのは確かなのにあたしは何故かその人に頭を触られた。
驚いて身を引くと、またその人は喋り出した。
「ああ。狼の子か。」
狼?あたしが?
「まあ取り敢えず、お茶でも。」
小柄がパチンと指を鳴らすとあたしの目の前には湯呑みに入ったホットコーヒーが現れた。
え?待って急展開すぎる。どこかわからない場所、誰かわからない人。突然の手品。
湯呑みなのにお茶でない事がツッコミなのか、コーヒーなのにカップでない事がツッコミなのか。それともこの手品のような出し方がツッコミなのか......
見知らぬこの場所は簡素な会議室のような場所であった。ただ、足元だけは黒い煙が立ち込めている変な場所だ。あたしと小柄以外は誰も居ないし物も無い。テーブルを挟んで対面に座っているだけ。その所為でこの手品のように出された湯飲みのコーヒーが凄く際立つ。
「ああ、樫山さくら。君はブラックコーヒーだと苦手なんだろ。」
そして、更に目の前にはあたしがいつも買うフードスタンプ配給の大和国印の牛乳パックが現れた。
いや、突然コーヒーが現れたのも謎だし、牛乳が現れるのも謎だがそんな事より一番の謎は、
『何で、あたしの名前を。あんたは一体?』
「まーまー。説明するから。取り敢えず、茶にしようや。」
またその小柄の手が気がついたら目の前にあり、あたしの湯呑みに入ったコーヒーに牛乳を注いだ。
どう見ても、なみなみ入っていたはずのコーヒーだったのに、何故か牛乳を足しても溢れず、丁度良いミルクコーヒーの色になった。
そして、また小柄の手は元の位置にある。
今の一瞬だけ、手が伸びたのか、というかコーヒーと牛乳は魔法のように出せるのに、注ぐのは魔法が使えないのか、なんなんだこの状況。
「奇跡の状況に!乾杯!」
小柄が、自らの湯呑みを掲げると、また気がついたら小柄の湯呑みを持った手が目の前にあり、あたしの湯呑みと勝手に乾杯した。
やはり、目をこすっても、小柄はあたしより二メートルは向こうに座っている。
かといって身体のバランスからして、腕が二メートルあるようには見えない。
あたしと干渉する時だけ、距離の概念を無視しているようなイメージに近い。
「何から説明しようかね。君はあまり頭が良くなさそうだからね。」
早速喧嘩売られたと思って良いんだろうか?確かに、あまり勉強が出来るタイプではないけど。
「最初の君の質問は、何故私が君の名前を知っているかと、私の正体だね。君の名前を知っているのは、君がここに入る時に魂を抜くからね。魂のデータは私からは観測出来てしまうんだ。だから君の事は良く分かった。介護の仕事をしている事も、親友が二人いる事も。そして君が狼である事も。」
多い。情報が。
魂を抜くも良く分からないし、あたしが狼であると言い切る事も。
「私の名前は二場三命だ。元の次元では作家と思想家を生業としていた。」
小柄に名乗られた時、フタバサンメイという響きが直ぐに二場三命と漢字表記の字で分かった。田中とかよくある名前でもないのにどうしてだが、漢字まで伝わったのだ。
「次は何故ここにいるか。ここは何処なのか?これはセットで説明しよう。いや、直接書き込んだ方が分かりやすいかな。」
二場があたしに対して、軽く何かを投げるモーションをする。剛速球じゃなくて、手にあった紙屑でも投げるような動作で。そんな動作をしながら状況を説明し始めると、確かに二場は喋っている筈なのに、それが耳に入って情報を整理する対話じゃなくて、急に頭に状況が入って来る感じがした。視える時の感覚と近い。適切な手順を踏んでないのに情報が入るのだ。
この部屋は3.5次元の入り口らしい。まだ3.5次元ではない。丁度入口の0次元との狭間らしいから、他の人に観測される事の無い、あたしと二場の為だけの部屋らしい。
あたし達は普段3次元に生きていて、4次元というのを存在を知ってはいるけど知覚する事は出来ない。それが人間としての性能の限界。
人間が4次元を知覚出来る生命体に進化させる研究。嘗ての二場はその研究に携わった結果、3.5次元の世界を創った。
「この扉の向こうは、もう3.5次元の世界さ。だから今の君の身体は3次元の時の身体じゃないんだ。魂だけこっちに持ってきて、ここで作り直した身体に突っ込んでいる。でも、不備は全くもってない。ミトコンドリアから赤血球の数まで全部コピーするように作っている。」
絶対に本来のあたしだったら、わからない!って怒り出すところだったけど、不思議とそんな感情は今の所ない。ただ、この有り得ない情報が全部ストンと肚に落ちて納得してしまうのだ。
そうだよね!次元間の移動は質量があるものは出来ないから、一旦魂だけの状態にして......ってなんでこんな事が当たり前の知識として認識出来るんだろう。
ただ、まだ分からないのは......
『どうして、あたしはここに連れてこられたんですか?家に帰りたいんですけど。』
「そうだね。確かにそれは説明しないとならない。」
また二場の何かを投げる動作が始まる。
そもそも、連れてこられたではない。迷い込んだに近い。因果が強すぎた。視える体質の所為で3次元以上のモノを僅かに知覚出来てしまう。それがあの二場の生み出した憂いの黒い煙と一緒に、ここまで吸い込まれてしまった。
老人の正体は3次元の世界での二場の肉体らしい。今目の前にいる二場はそんなに老けて見えないのに......
「出してあげたい気持ちは私も山々だが、私にもそれは出来ないんだ。現に私だってここに閉じ込められてもう千年は経ってしまった。」
3次元の世界と3.5次元の世界では時間の流れ方が違うらしい。かなり極端に圧縮されていて、3次元での1分は3.5次元の世界では24時間ぐらいで流れている。
だから、3次元の二場の肉体の寿命があと僅かな老人だとしても、千年なんて大した事のない時間らしい。
ただ、全く問題がない訳じゃない。時間に至っては流れが違うから、すぐ戻れば元の世界では一瞬の時間が経ったにしか過ぎないけど、問題は直ぐに戻れなかった場合だ。
「多分私の場合は、意識の無い眠った肉体が一年ぐらい安置されているのだろう。」
元の世界に魂の入っていない肉体が残り続けてしまう事だ。
「なるべく早く帰った方が良いと言いたいけど、そういう設計じゃないから私を含めみんな困っているんだ。」
そもそも、研究の為に作られた3.5次元は、人間の魂に出来るだけ負荷をかけてデータを集めるのが本来の目的である。負荷がかかるように、嫌な事楽しい事、それこそ絶望的な事もある。
だからこの世界はそう簡単に入れないように設計した。それが、一番最初に言っていた【招待状】である。招待状は一人につき一通しか送れない上、誰にでも送られるわけではない。適合者にしか送られない。つまり感動とか大きく心が動かなくなった大人は無理。多感な時期で集中力もある若い肉体に限定される。枯れた魂だとあまりにもデータが取れないらしい。
「構造上、膨大なエネルギーも発生する。だからゴールした人の特典は一つだけ何でも願いを叶える。そのくらいのエネルギーの余裕はあるからね。」
ちゃんとゴールしたら、それなりの褒美はある。だからこの実験に参加してね。その為の招待状。
「その代わり、ちゃんと苦しい。辛い。きっとこの世界は絶望的だ。」
そんな苦しい世界で、
『ねえ?それって死んだらどうなるの?こっちの3.5次元?だっけ?こっちで死んだらさ。元々いた世界には植物状態になった肉体だけが残っているんでしょ。そこに戻るの?』
視える人だからこそ知っている。魂は大切だ。形を成す。お葬式では必ず死者はお経を聞いて、死者の世界へと向かっていく。それが3.5次元の世界に向かったのか4次元の世界に向かったのかまでは分からないけど、あたし達の住む世界じゃない所に向かうのは知っている。だからこの質問はあたしにとっては凄く重要なものだった。
対し二場は「鋭いねー」と前置きの後、
「魂は永遠に戻れないんだ。」
多分。普通に聞いたら意味が分からない言葉だけど、あたしにはこれが絶望的なのは分かった。
「【塔の上】からじゃないと戻れないんだ。」
今の二場の言う【塔の上】が【ゴール】を意味しているのは分かった。
「辿りつけたら、そのまま3次元の世界に帰れるけど、辿り着く前に裸の魂になったらエネルギー源に回収されてしまう。」
『それって地獄?』
「どうだろう。私も未知の領域だ。」
『アンタが創った世界じゃないの?』
「私一人で創ったわけじゃない。あくまで私は立案者だ。」
この世界を都合よく書き換えた奴がいる。現に二場はこの世界に千年以上囚われる羽目になった。それで二場は3.5次元の世界に特定の条件の時じゃないと干渉できなくなった。
「だから自力で辿り着ける魂をずっと待ち望んでいた。」
『それが......あたし?』
「そんなに自意識過剰なるなって。君ってそんなに凄い奴じゃないだろう。」
ただ、因果はあると思うよ。
「君達のいる世界では常識が通用するけど、こちらの世界では常識は通用しない。通用するのは【条理】のみだ。」
物事を条理で考えれば視える体質なのも
「狼なのも納得がいく。」
『狼なのも......』
子供の頃から見続けていたあの夢は一体......?
「こちらの世界は、呪いが可視化するからね。それが条理だ。君が望まずとも条理の通りに物事は起こる。」
『つまりそれは......』
聞きたかった。狼の事を。でもそれは直ぐに遮られた。
「私の口からでなくとも、近々知る事になるさ。それが条理だ。」
今までの二場の説明は全て納得して頭の中にどんどん入ってきていたのに、ここにきてよく分からなくなった。何なの?条理って。
「さあ、そろそろ時間が無い。巻きでやってもらうよ。招待状は誰に送る?」
二場がそう言うと、目の前に紙と羽根のついたペンが現われた。映画でしか見た事がない、インクを付けて書くペンだ。
一人にだけ送る事が出来る招待状。真っ先に頭に思い浮かぶのはヒカミだった。
ただ――
『ねえ。危険なんでしょ。しかも戻れない。気軽に書けるものじゃないよ。』
「そのあたりは心配しなくて良いさ。」
ちゃんと同意確認は取れるから。
君と違って、正規の手順で入って来れるから、しっかり拒否権もある。君がイレギュラーなんだよ。因果も条理も。
しかし、だからこそ君はここにやって来たのかもしれない。この世界を変える為に。
『本当に、ちゃんと説明してくれるんだよね?』
「ここで嘘ついたって仕方ないだろう。」
それは、たしかにそう。
あたしは招待状に〈田中ヒカミ〉と書いた。
書き終えた瞬間に招待状は砂の様に零れて消えた。多分これが送られたという意味の演出なんだろう。
「さあそろそろお別れの時間だね。」
二場がそう言うと、あたしの身体はドアの前に移動していた。あたしが移動したのではなく、部屋が、ドアが移動した感じだった。
足元がぐらぐらしたので、下を見ると、相変わらず黒い煙が充満していた。
ふと、下を向いているあたしに何かが首にかけられた。
普通なら絞められるとか一気に警戒するだろうけど、警戒も無く二場がネックレスをあたしの首にかけたのが分かった。
なぜネックレス?黒い鎖で大きめのペンダントトップは黒い壺のような形をしていた。
これが何かと聞こうとした瞬間、目の前の扉が開いた。
扉の先を認識せぬまま、何か吸い込まれるような圧力のようなものを感じて――
「条理が導くさ。その時に割れば良い。」