Echo 04 『 弦音の洗礼 』
俺は帰宅部だ。
正確には、そうあることを望んでいた。だが、生徒会長から「内申点に響くぞ」と何度も念を押され、結局どこかの部に所属する羽目になった。
妹の未夏は水泳部だ。
俺も誘われたが、どうにも「水」が駄目だった。
シャワーの水滴が肌を打つだけで、肺の奥がきりきりと縮む感覚がある。
以前、学校のプールで水に入った瞬間、喉の奥に冷たい鉄を押し込まれたみたいに呼吸が止まり、そのまま意識を失った。気づけば病院の白い天井を見上げていた。
「仕方ないよね、お兄ちゃんはプールに長時間入れないもんね」
未夏は残念そうに唇を尖らせながらも、俺の部活探しに付き合ってくれていた。あの「事件」以来、彼女は少しだけ大人しくなった気がする。
「スポーツはダメなの?」
「いや、出来なくはないんだがな......」
高校一年の頃、三十六キロマラソンを完走した記録が残っているらしい。記録用紙の数字だけ見れば、俺はかなり体力がある人間だ。
だが今の俺は、とにかく楽をしたかった。
それに、時折肺の奥を掻きむしるような痛みが走る。
病院でレントゲンを撮っても異常なし。だが、白黒の陰影を見つめていると、胃の腑が裏返るような悪寒が走る。
肺の最奥。
そこに蠢く、肉を引き裂くような黒い粘着質の指。それは悪魔の触手さながらに、気管支の粘膜を内側からじっとりと撫で回し、喉元へ向かって微かに脈打ちながら這い上がってくる。
逃げ場の無い肉体の檻の中で、未知の怪物が孵化を待っているかのような悍ましい感触に、全身の毛穴が総毛立った。
気味が悪かった。
医者からも「激しい運動は控えろ」と言われ、選択の武道でも柔道や剣道は避け、卓球を選んでいた。
「うーん、お兄ちゃんって音楽は?」
「......音を褒められたことならある」
俺は視線を落とし、小さく首を振った。
大勢の視線が自分一点に集まる光景を想像するだけで、肌に冷たい汗が滲む。
吹奏楽部の演奏を横目に見た時に感じた、あの光景は今でも脳裏に焼き付いている。金管楽器の音が廊下の窓ガラスを震わせ、陽射しの中で埃が揺れていた。
ああいう“青春の中心”みたいな場所に、自分が立っている姿は想像できない。
「それなら、茶道部は?」
「悪くないが、成長志向に欠けるな」
「じゃあ......弓道部は?」
その瞬間、不思議と胸の奥に小さく何かが落ちた。
弓道。
激しく走るわけでもない。数学部みたいに脳を酷使するわけでもない。静かで、張り詰めていて、どこか孤独だ。
俺はその場で入部届に「弓道部」と書き込み、顧問へ提出した。
「君が由記君か。よろしく!」
顧問の男は、柔和な笑みを浮かべて右手を差し出してきた。案内された道場は剣道場と隣り合っており、引き戸を開けた瞬間、熱気が肌にまとわりついた。
隣の剣道場から、竹刀のぶつかり合う乾いた衝突音が響く。汗と木材と、防具に染み込んだ古い革の匂い。夕陽を吸った床板が赤く光り、道場全体が呼吸しているみたいだった。
「剣道と兼任してる子がいてな。指導はその子に任せてる。君は週三日くらい顔を出せばいいよ」
レンタルの道着を渡される。厚手の布地が指にざらりと引っかかった。
着方が分からず戸惑っていると、顧問が剣道場へ向かって声を張り上げた。
「部長、いるか!」
「はい」
凛とした声だった。空気を一本、真っ直ぐ切り裂くような声。面を着けていて顔は見えない。だが、その立ち姿だけで分かった。
強い。
無駄な重心移動が一切ない。竹刀を握る手の角度、足の開き、呼吸の深さ。ただ立っているだけなのに、空気が張り詰める。
「今日から入る在原 由記君だ。弓道の指導を頼む」
「......三年の辻ノだ。よろしく」
差し出された手を握る。汗で少し湿っていた。だが驚くほど滑らかだった。剣道で鍛えた硬さと、女の肌特有の柔らかさが奇妙に同居している。
「更衣室へ来い。着替えを教える」
案内された更衣室には、洗剤の匂いと、乾き切らない布の湿気、汗の残り香が混じっていた。
「匂いはそのうち慣れる。靴を脱げ。......それから制服もだ」
女性の前で服を脱ぐ経験なんて、未夏や甘奈くらいしかない。制服のボタンを外す指先が妙にぎこちなくなる。上半身を晒した瞬間、辻ノ先輩の視線が細くなった。
「ふむ......素材は悪くない」
値踏みするような目。
肩。胸板。腹筋。視線がゆっくりと肌をなぞっていく。
そして、その目が止まった。
沈黙。
気づけば、俺の下半身が熱を持っていた。
道着へ着替える途中の中途半端な格好。密室。汗。近距離の女性。
条件が悪すぎる。
「喝ッ!!」
頭に鋭い衝撃。手刀だった。
「......精神鍛錬も必要のようだな」
「は、はぁ......いきなり手厳しい......」
「修行の一環だ。私を前にしてそんな不埒な真似、見過ごせるわけがなかろう」
辻ノ先輩は小さくため息を漏らすと、すぐに表情を張り詰めさせた。
その手は淀みなく俺の腰へ回り、道着の紐をきつく引き絞る。きゅっ、と腹部が締め付けられる。指先が脇腹を掠めるたび、妙に意識してしまう。
「力を抜け。呼吸が浅い」
耳元で低く囁かれ、俺は無意識に息を止めていたことに気づいた。道場へ戻ると、彼女は面を外した。現れた素顔は、想像以上に端正だった。
白い肌。切れ長の瞳。
汗に濡れた前髪が頬へ貼りつき、首筋を一筋の汗が流れ落ちる。その雫が鎖骨を滑る瞬間、時間が一瞬だけ止まった気がした。
「ぼーっとするな。弓を引け」
渡された弓は想像以上に重かった。指に食い込む弦の硬さ。肩甲骨が軋み、胸筋が引き裂かれそうになる。弓を引き切った瞬間、全身の筋肉が震えた。
「っ......!」
視界が白くちらつく。
それでも、矢を離した瞬間だけ、不思議と世界の音が消えた。
――パンッ。
乾いた弦音だけが、静かな道場へ真っ直ぐ響いた。
「ふむ......素質はある」
辻ノ先輩がわずかに感心したような目を向ける。
「基礎はまだまだだが、上出来だ」
褒められるのは悪い気分じゃない。
だが、同時に思う。
――これ、いつまで続くんだ......?
肩が焼けるように痛い。握力も限界だ。
「よし、そこまで」
その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。張り詰めていた筋肉が弛緩し、背骨がぎしりと鳴る。
「......なかなかハードですね」
そう漏らすと、辻ノ先輩は大きく息を吐き、夕陽に染まる道場の中で俺を見つめた。
「素質はある。鍛えれば伸びるだろう」
その言葉に、俺は少しだけ嬉しくなった。俺は少しほっとして、少しだけこの部活にやる気があるところを見せようと思った。
「明日も空いてませんか? ......少し、興味が湧いたので」
俺がそう言うと、彼女は意外そうに目を瞬かせた。
「夏の大会が近い。部活中は時間を割けん」
「あー......それじゃ仕方ないですね」
内心ほっとする。毎日これをやるのは流石にきつい。俺は残念そうに肩をすくめてみせた。
だが次の瞬間、彼女はさらりと言った。
「私の家に来るといい。みっちり叩き込んで、一人前にしてやる」
空気が止まった。俺の沈黙など意に介さず、彼女は矢を一本つがえる。
弦が張る。
呼吸が消える。
放たれた矢は風を裂き、一直線に的の中心へ突き刺さった。
――この人だけは、絶対に怒らせてはいけない。
肌が粟立つような戦慄と共に、俺は新しい「日常」の始まりを予感していた。