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Echo 03 『 滴る吐息 』


「......ねぇ」

 窓の外では、叩たたきつけるような大雨が世界を白く煙くゆらせている。ガラスを打つ雨粒あまつぶの振動しんどうが、古い家の柱を細こまかく震ふるわせていた。

 ここ最近、ある意味では由依ゆいと上手くやれていると思う。相変あいかわらず「女を口説くどくような真似まねはしないでよね」などと釘くぎを刺される日々だ。

 俺ってそんなに女たらしなのだろうか。

 学校では転入生という身分もあって、好奇心こうきしんの目に晒さらされることが多い。
「甘奈あまなと付き合ってるって本当か!?」なんて詰つめ寄られることもあるが、俺は教えられた通り「幼馴染おさななじみで、ずっと昔から付き合ってたよ」と返すしかない。

 そんな俺を見て、同級生どもは「くぅ~勝ち組かぁ......羨うらやましいなぁ」なんて零こぼす。だが、その言葉はどこか薄い膜越まくごしに聞こえていた。笑い声が耳に届くたび、自分だけが別の場所に立っているような感覚が残る。

 一匹狼の俺の周囲には、幼馴染おさななじみの甘奈あまなと由依ゆい、生徒会長の晶子しょうこ。そして......。

「ねぇってば、聞こえてるの?」

 そう、この家族の「妹」である未夏みかも、この学校に通うことになった。父親の長期不在に伴い、パパっ子の彼女が転校手続きを経てこちらへやってきたのだ。

「あぁ、悪い。考え事してた」
 ぼやきながら、俺はリビングのソファに深く腰こしを沈めた。

 今日はゴールデンウィークの真まっ只中ただなかだが、外はあいにくの土砂降どしゃぶりだ。RIMEライムで連絡を取り合っているが、甘奈あまなは家事に追われ、由依ゆいはバイトで忙しいらしい。

 二人の家庭は、聞けばひとり親だという。母を亡くし、甘奈あまなが亡き母の代わりに酒浸さけびたりの父親を甲斐甲斐かいがいしく世話しているのだと、以前由依ゆいが愚痴ぐちを言っていた。

 かつて由依ゆいが吐き捨てるように言った言葉を思い出す。

「お姉ちゃんは、酔よって泣き言を言う父親をずっと支えてるの。お姉ちゃんが疲れてぐったりしてるところなんて見たことないよ。......だから、あんたみたいな『世話の焼ける男』を見ると、お姉ちゃんが苦労する姿が重なってイライラするの」

 俺は手元のリモコンをそっと置いた。
 画面の中で大声を出す芸人の姿が歪み、由依ゆいの頑かたくなな横顔が脳裏のうりに重なった。彼女が向けてくるあの冷ややかな視線の鋭するどさが、どこか腑ふに落ちる。俺の後ろに、彼女は別の誰かを重ねていたのだろう。

 俺はリビングの机にあるリモコンを弄いじり、特に見るわけでもない番組をザッピングする。

 湿気を吸った畳たたみと古い木材の匂におい。雨に冷ひやされた空気が、裸足はだしの足裏あしうらからじわりと体温を奪うばっていく。テレビの中では芸人が大げさに笑っていたが、その甲高かんだかい声だけが妙みょうに空間から浮いていた。

 傍目はためから見れば、ただ暇ひまを持て余あましている高校生にしか見えないだろう。未夏みかは何度もあくびを噛かみころし、ソファに寝そべったまま爪先つまさきでクッションをトントンと不規則ふきそくに叩たたいていた。

「はぁ~あ、何か楽しいことないかなぁ」

 都会の喧騒けんそうを知る彼女の目に、窓の外の静寂せいじゃくはどう映うつっているのだろうか。学校の授業こそDX化されているが、生活の根幹こんかんまではデジタルに染まりきっていない。

 窓の向こうには、霧きりに煙くゆる深い森が広がっている。重く濡ぬれたシダレヤナギの枝が、風に揺れるたびに水滴すいてきを落としていた。空は低く、世界全体が湿しめった布で覆おおわれているみたいだった。

 この辺りでは「精霊せいれい」デバイスも電波状況が悪く、応答速度が目に見えて落ちる。結局、調べ物や勉強以外では、自分の手足で動いたほうが早いような環境だ。

 未夏みかの友達の話では、都会では「精霊せいれい」なしでは決済けっさいも手続きもできない「完全依存社会」らしい。脱獄だつごくプログラムを組んで「精霊せいれい」を強制オフにし、不法な仕事に手を染めて退学になった生徒もいるという。

 そんな歪ゆがんだ「最先端」の噂を聞くたび、俺は深く息を吐き出し、窓の外の静かな景色けしきを眺めては小さく胸をなでおろした。

「そういえば未夏みか、GWゴールデンウィークの課題は?」

「あれ? もう終わったよ」
 腕のデバイスでネットサーフィンをしていた未夏みかが、画面越がめんごしにこっちを覗のぞき込こんできた。

「嘘うそつけ、まだ休みが始まったばかりだぞ」

 未夏みかは片方の口角こうかくを上げてにやりと笑い、また視線をデバイスに戻した。

「......一体、どんな裏技ウラワザを使ったんだ?」

 一応聞いてみると、彼女は「当ててみてよ」と小悪魔的こあくまてきな笑えみを浮うかべるだけで教えてくれない。

「先生を買収ばいしゅうでもしたのか?」

「まさかぁ」
 クスクスと笑う妹。デバイスの監視かんしがある以上、不正は即座に検知されるはずだ。

「それとも、この『精霊せいれい』自体にすべてを任せたのか?」

 彼女は椅子いすの背せもたれに体重を預あずけ、ぷいっと顔を横に背そむけた。

 離はなれ離ばなれに暮らしていた俺たちは、実質的じっしつてきには初対面しょたいめんに近い。それでも、こうして雨音あまおとを聞きながら過ごす時間は、お互いの呼吸の音さえ気にならず、ただ背中に伝わる毛布もうふの温ぬくもりを静かに受け入れていた。

 だが思考を巡めぐらせるうちに、俺は一つ、致命的ちめいてきな違和感いわかんを見落としていたことに気が付いた。
「......そういえば、GWゴールデンウィークの直前に転校手続きをしたんだったな」

 俺の言葉に、未夏みかはネットサーフィンをしていた視線を、微かすかにこちらへ流した。

「転校前の学校でGWゴールデンウィークの宿題を事前にやって提出したから、今手元にないって言ったんだよね」
 彼女は平然へいぜんと言い放った。

 DX化の隙間すきまを突き、管轄かんかつの違いを利用して「免除めんじょ」を勝ち取るその手腕しゅわん。
 俺は思わずため息を漏らし、彼女のすました横顔から視線を外せなくなった。未夏みかは肩をすくめ、いかにも「作り物」と分かるような笑えみを浮うかべて見せた。

「そろそろシャワーを浴あびるか...」
 俺は着替きがえを準備し、素すっ裸ぱだかになって蛇口じゃぐちをひねる。

 氷みたいに冷えた水が肩を打つ。
 思わず息が漏もれた。だが、水を身体にかける度に、肺はいに刺さすような痛みがチクリと走った。火照ほてった頭の奥が、少しずつ静かになっていく。

「お風呂沸わかしておいたから、適当てきとうに入って」

 ネットサーフィンしている未夏みかにそう告げ、俺はタオルを首にかけたまま、上半身裸はだかで机つくえに突つっ伏ぷした。降ふり続く雨音あまおとを子守唄こもりうたに、深い眠りへと落ちていった。


 ―――


 数時間が経たっただろうか。

 まぶたの裏うらを焼くような、橙色だいだいいろの光で目を開ける。机つくえに突つっ伏ぷしていた頬ほほがじっとり汗あせばんでいた。

 あれほど激はげしかった雨は止み、窓の外には洗い流されたような群青色ぐんじょういろの空が広がっている。湿しめった空気の中にだけ、5月とは思えない初夏しょかのような熱気が残っていた。

 微かすかな頭痛ずつうと眩暈めまいを感じながら、薄暗うすぐらい台所に目を向けると、未夏みかが同じように机に突っ伏して眠っていた。薄暗うすぐらい静寂せいじゃくが、粘ねばり気のある重さで部屋を満たしている。

 少し悪戯いたづらでもしてやろうか――そんな軽い思考は、彼女の顔を覗のぞき込んだ瞬間に音を立てて凍こおりついた。

「えっ......と......未夏みか?」

 応こたえはない。
 彼女は、泣きながら眠っていた。

 長い睫毛まつげの先に雫しずくが溜たまり、頬ほほを細ほそく濡ぬらしている。熱を持った吐息といきが、規則的に机つくえへ落ちていた。

 足元に、冷たい感触かんしょくが触れた。

「これは......?」

 裸足はだしの裏に広がる水気みずけ。
 涙なみだにしては多すぎる。雨漏あまもりにしては妙みょうに冷たい。

 まるで、水だけ温度が違うみたいだった。
 その違和感を確かめる前に、未夏みかが寝ねぼけ眼めをこすりながら身を動かした。

「んあぁ......おはよ、お兄ちゃん......」

「......今は夕方だよ」

「どっちでもいいじゃん」

 気けだるげな彼女の額ひたいに手を当てようとする。驚くほどの熱気が伝わってきた。
「少し熱が出てないか?」

 手のひらを額ひたいに当てた次の瞬間、まるで煮にえ滾たぎる泥どろに触れたかのような錯覚さっかくに襲おそわれた。

 びくりと手が跳はね上がる。

 肌の奥で、何か悍おぞましいモノがのたうち回っているかのような異常な熱量。
 対照的に、俺の服を掴つかむ彼女の指先は、墓石ぼせきのように冷ひえ切きっていた。その歪いびつな温度差が、背筋せすじに冷たい刃やいばを突つき立てられたかのような、底知そこしれない戦慄せんりつとなって脳髄のうずいを駆かけ抜ぬけた。

 俺は素早すばやく布団を敷き、力なく横たわる彼女を背負って部屋へと運んだ。背中に伝わる彼女の熱と、規則正しいがどこか危うい心臓の鼓動こどう。

 手慣れない手つきでお粥かゆを用意し、スプーンを口元へ運ぶが、未夏みかは頑かたくなに口を閉ざしたままだ。

「お粥かゆじゃ嫌だったか? じゃあリンゴを擦すってきてやるから」
 立ち去ろうとした俺の腕を、彼女の手が強く引き止めた。

「行かないで」

 弱々しい声。だが、その腕には、決して離すまいという確固かっこたる意志が宿やどっている。彼女は布団の横をポンポンと叩き、隣となりに来るよう合図した。

「......お粥かゆ、ダメだったか?」

 未夏みかは首を振り、震ふるえる声で、しかしはっきりと、俺の理性を揺ゆさぶる言葉を口にした。

「口移くちうつしで食べさせてほしい」

 その言葉に、喉のどが小さく鳴った。部屋の空気が急に重くなる。雨上がり特有の湿気しっけが肌に貼り付き、逃げ場のない熱気が肺はいの奥へ沈んでいく。

 一瞬、自分の耳を疑うたがった。
 何を言っているんだ。

 いくら長年離れて暮らしていた期間があるとはいえ、未夏みかは俺の妹だ。家族に対してそんな一線を越えるような真似まね、倫理的りんりてきにも常識的じょうしきてきにも許されるはずがない。

「......っ、未夏みか、お前熱でどうにかなってるんじゃないか!?」
 俺は辛かろうじて残った理性を振ふり絞しぼって声を出す。

 だが、その言葉は最後まで続かなかった。

 視界に映る未夏みかの姿が、あまりにも痛々しく、そして脆(もろ)そうに見えたからだ。普段の小悪魔こあくまめいた不敵ふてきな笑えみはどこにもない。真まっ赤かに火照ほてった頬ほほ、苦しげに震ふるえる唇くちびる、そして涙なみだの跡あとが残る睫毛まつげの奥で、ただ俺だけを必死に求めている、壊れ物のような瞳ひとみ。

 突き放そうとした指先が、凍こおりついたように止まる。
 もし今、この手を振ふり払はらえば――脳裏のうりを過よぎったのは、暗黒の深海で一人、肉体をバラバラに引ひき裂さかれながら消えていく未夏みかの幻影げんえいだった。

 心臓が、肋骨ろっこつを叩たたき割わらんばかりに不吉なビートを刻きざむ。冷ひや汗が首筋くびすじを伝つたい、どろりとした焦燥しょうそうが喉のどを締しめ上げた。

 ドクン、と心臓がうるさく脈打みゃくうつ。

 倫理的りんりてきなタブーを警告けいこくする脳内のうないのアラームは、彼女の放つ圧倒的あっとうてきな熱気によって、じわじわと焼き切られていく。駄目だめだ、冷静になれ。そう念ねんじるほどに、逃げ場のない部屋の湿気しっけが俺の思考を白く混濁こんだくさせていった。

 正常な判断力なんて、最初から残っていなかったのかもしれない。
 熱に浮うかされているのは、未夏みかだけではなく、俺も同じだった。

 妹という境界線が、どろどろと溶とけて曖昧あいまいになっていく。抗あらがうための正論すら頭から消え失うせ、俺の理性は、彼女の放つ引力に抗うことなく流されていった。高熱にうなされ、縋すがるような瞳ひとみで俺を見る彼女を前に、拒絶する選択肢はなかった。

 俺は意を決して、粥かゆを口に含み、彼女の顔へと近づいた。指先で彼女の顎あごをそっと持ち上げ、唇くちびるが触ふれた瞬間、未夏みかの肩がびくりと震ふるえた。

 熱い。

 想像以上に熱かった。
 柔やわらかい感触より先に、熱だけが神経へ流れ込んでくる。

 絡からみつく舌の感触。
 浅く混まざる呼吸。
 湿しめった音だけが、静かな部屋にやけにはっきり響ひびいていた。

 彼女の腕が背中へ回る。
 熱に浮うかされた身体が、離れることを拒こばむみたいに強く縋すがりついてくる。しばらく続いたその往復の後、彼女の瞳ひとみに恍惚こうこつとした熱気が宿やどったのを見たとき、俺の理性は消失しかけていた。

「ただいま~」

 階下かいかから聞こえた母の声に、心臓が跳はね上がった。俺と未夏みか、二人の間に凍こおり付くような緊張が走る。

「......また様子見に来るからな」
 俺は妹の頭を優しく撫なで、おでこをくっつけて、そう約束した。逃げるように部屋を後にし、母を手伝いに降おりていった。



 ―――

 ――― 未夏みか視点



「あーあ、やっちゃったんだ......私」

 兄が去った後、私は天井てんじょうを見上げていた。

 まだ唇くちびるに熱が残っている。触ふれられた場所だけが、自分の身体ではないみたいに痺しびれていた。

 自分でも引くほど大胆だいたんなことをした自覚はある。佐野さの 甘奈あまなという「正解ヒロイン」がいることを知りながら、私は兄が寝ている傍かたわらで、叶かなうはずのない恋に独ひとり、濡ぬれている場所を触さわり耽ふけっていた。

 奥歯を噛かみ締しめ、爪が手のひらに食い込むほど拳こぶしを握にぎりしめた。情の移った己おのれの顔が、鏡を見るまでもなく歪ゆがんでいるのが分かる。

 でも、もし「家族」という鎖くさりがなければ。お兄ちゃんと私が、ただの他人として出会っていたなら。そんな仮定に逃げ込んでしまうのは、あの日、父の泣き顔を見てしまったからかもしれない。

 私を理由もなく殴なぐり、その直後に情けなく泣き崩くずれた父親。

「俺は、父親失格だ」

 私は心の中でそんなことないと思った。扉越とびらごしに聞こえたその声に、私は絶望ではなく、歪ゆがんだ同情を覚えてしまった。
 何不自由なく学生生活を送れてお金でも困らなかったし、私のわがままは何でも聞いてくれた優しいお父さんだ。

 父親の身に何が起きたのか全部分かるわけではない。でも少なくとも苦しむ姿を見るのが嫌で、家族だから助けてあげなきゃと私なりに学校でもいい成績せいせきを出して親に心配かけないように家事かじも完璧かんぺきにこなしてみせた。

 そんな姿を見てお父さんは「困ったらちゃんと言いなよ」と言いながらお金を渡わたしてくれていた。

 別に困っているわけじゃない。でも少しの足しになればと合間あいまを縫ぬってバイトしたりとかして、友達と遊ぶ時間が減っていたのを見かねて多分渡わたしてくれたんだと思う。

 でも他人はあくまで他人。無条件で助けてくれるわけじゃない。
 善意ぜんいで近寄ってくる男たちをたくさん見てきた。ただそれが私にとって重要じゃないように感じてしまって、どこかで敬遠けいえんしてきたのもあると思う。

 でも父親が長期出張しゅっちょうで家に帰らなくなって寂しくなるのを父親なりに考えたのだろう。田舎にある実家通いで明雲めいうん高校に転校してみたらどうかと。

 私は最初は断った。
 お父さんのご飯はんは私が作ってきたんだよ。私がいなくなったら健康はどうするの?心配する私をよそ目に、父は重かさねてこう言った。

「お前には1つ上のお兄さんがいる。でも記憶障害きおくしょうがいで苦労しているみたいなんだ。お父さんのことなら金があるから心配ない。」

 スマートフォンの画面を持つ手が、ぴたりと止まった。思考が一瞬、白い空白に染まる。

 確かに小さい頃、私には兄がいたけれどほとんど喋しゃべらなかった。父親に付いて行ったのもかなり小さい頃だ。私が駄々だだこねたものだから、仕方しかたなさそうに「じゃあお父さんと一緒に付いてくるか?」と聞かれた時は、ふたつ返事だった。

 だからここまで育ててくれた父親には凄すごく感謝している。

 父の背中を思い浮かべ、私は深く、静かに頭を下げた。
 胸の奥が、温あたたかい何かで満たされていく。
「家族なんだから」――自分自身にそう言い聞かせ、小さく頷うなづいた。

 そして転校してから数日、兄を見つけ出した時、私の体は硬直こうちょくした。

 目の前に立つ彼の瞳ひとみを見た瞬間、息が詰まる。
 そこに広がっていたのは、底無しの暗い沼ぬま。

 すべてを諦あきらめたような昏くらい光に当てられ、私の胸は万力まんりきで締しめ付けられるように激はげしく脈打ち、呼吸が浅く、速くなっていった。
 お父さんのようなまなざしで、まっすぐな瞳ひとみで、穢けがれを知らない純粋じゅんすいな眼め。

 どうして神様は、あんな人を不幸のどん底に突き落としたのだろう。彼の瞳ひとみは、ひどく綺麗きれいだった。

 だからこそ危あやうかった。

 雨上あめあがりのガラスみたいに、少し触れれば壊こわれてしまいそうなくらいに。それなら家族の私が支えなきゃいけない。私はいけない領域りょういきに踏ふみ込こもうとしていた。

「たとえ世界が嘘うそで塗ぬり固められていたとしても、家族ってことは唯一無二の絶対なのだから」

 私がしようとしていることは傲慢ごうまんかもしれないけれど、それが私にとっての唯一ゆいいつ運命に対する反抗なのだから。家族という名の檻おりの中で、私はこの愛を貫つらぬく。

「私の愛で、癒いやされますように」
 私は自分の右手を左手で包み込み、祈いのるように顔を埋めた。

 夕闇ゆうやみが忍び寄る部屋で、私の熱だけがいつまでも冷めずに残っていた。窓の外で濡ぬれたシダレヤナギの静かに揺ゆれる音が眠気を誘さそう。挿絵
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Echo 03 『 滴る吐息 』


「......ねぇ」

 窓の外では、叩たたきつけるような大雨が世界を白く煙くゆらせている。ガラスを打つ雨粒あまつぶの振動しんどうが、古い家の柱を細こまかく震ふるわせていた。

 ここ最近、ある意味では由依ゆいと上手くやれていると思う。相変あいかわらず「女を口説くどくような真似まねはしないでよね」などと釘くぎを刺される日々だ。

 俺ってそんなに女たらしなのだろうか。

 学校では転入生という身分もあって、好奇心こうきしんの目に晒さらされることが多い。
「甘奈あまなと付き合ってるって本当か!?」なんて詰つめ寄られることもあるが、俺は教えられた通り「幼馴染おさななじみで、ずっと昔から付き合ってたよ」と返すしかない。

 そんな俺を見て、同級生どもは「くぅ~勝ち組かぁ......羨うらやましいなぁ」なんて零こぼす。だが、その言葉はどこか薄い膜越まくごしに聞こえていた。笑い声が耳に届くたび、自分だけが別の場所に立っているような感覚が残る。

 一匹狼の俺の周囲には、幼馴染おさななじみの甘奈あまなと由依ゆい、生徒会長の晶子しょうこ。そして......。

「ねぇってば、聞こえてるの?」

 そう、この家族の「妹」である未夏みかも、この学校に通うことになった。父親の長期不在に伴い、パパっ子の彼女が転校手続きを経てこちらへやってきたのだ。

「あぁ、悪い。考え事してた」
 ぼやきながら、俺はリビングのソファに深く腰こしを沈めた。

 今日はゴールデンウィークの真まっ只中ただなかだが、外はあいにくの土砂降どしゃぶりだ。RIMEライムで連絡を取り合っているが、甘奈あまなは家事に追われ、由依ゆいはバイトで忙しいらしい。

 二人の家庭は、聞けばひとり親だという。母を亡くし、甘奈あまなが亡き母の代わりに酒浸さけびたりの父親を甲斐甲斐かいがいしく世話しているのだと、以前由依ゆいが愚痴ぐちを言っていた。

 かつて由依ゆいが吐き捨てるように言った言葉を思い出す。

「お姉ちゃんは、酔よって泣き言を言う父親をずっと支えてるの。お姉ちゃんが疲れてぐったりしてるところなんて見たことないよ。......だから、あんたみたいな『世話の焼ける男』を見ると、お姉ちゃんが苦労する姿が重なってイライラするの」

 俺は手元のリモコンをそっと置いた。
 画面の中で大声を出す芸人の姿が歪み、由依ゆいの頑かたくなな横顔が脳裏のうりに重なった。彼女が向けてくるあの冷ややかな視線の鋭するどさが、どこか腑ふに落ちる。俺の後ろに、彼女は別の誰かを重ねていたのだろう。

 俺はリビングの机にあるリモコンを弄いじり、特に見るわけでもない番組をザッピングする。

 湿気を吸った畳たたみと古い木材の匂におい。雨に冷ひやされた空気が、裸足はだしの足裏あしうらからじわりと体温を奪うばっていく。テレビの中では芸人が大げさに笑っていたが、その甲高かんだかい声だけが妙みょうに空間から浮いていた。

 傍目はためから見れば、ただ暇ひまを持て余あましている高校生にしか見えないだろう。未夏みかは何度もあくびを噛かみころし、ソファに寝そべったまま爪先つまさきでクッションをトントンと不規則ふきそくに叩たたいていた。

「はぁ~あ、何か楽しいことないかなぁ」

 都会の喧騒けんそうを知る彼女の目に、窓の外の静寂せいじゃくはどう映うつっているのだろうか。学校の授業こそDX化されているが、生活の根幹こんかんまではデジタルに染まりきっていない。

 窓の向こうには、霧きりに煙くゆる深い森が広がっている。重く濡ぬれたシダレヤナギの枝が、風に揺れるたびに水滴すいてきを落としていた。空は低く、世界全体が湿しめった布で覆おおわれているみたいだった。

 この辺りでは「精霊せいれい」デバイスも電波状況が悪く、応答速度が目に見えて落ちる。結局、調べ物や勉強以外では、自分の手足で動いたほうが早いような環境だ。

 未夏みかの友達の話では、都会では「精霊せいれい」なしでは決済けっさいも手続きもできない「完全依存社会」らしい。脱獄だつごくプログラムを組んで「精霊せいれい」を強制オフにし、不法な仕事に手を染めて退学になった生徒もいるという。

 そんな歪ゆがんだ「最先端」の噂を聞くたび、俺は深く息を吐き出し、窓の外の静かな景色けしきを眺めては小さく胸をなでおろした。

「そういえば未夏みか、GWゴールデンウィークの課題は?」

「あれ? もう終わったよ」
 腕のデバイスでネットサーフィンをしていた未夏みかが、画面越がめんごしにこっちを覗のぞき込こんできた。

「嘘うそつけ、まだ休みが始まったばかりだぞ」

 未夏みかは片方の口角こうかくを上げてにやりと笑い、また視線をデバイスに戻した。

「......一体、どんな裏技ウラワザを使ったんだ?」

 一応聞いてみると、彼女は「当ててみてよ」と小悪魔的こあくまてきな笑えみを浮うかべるだけで教えてくれない。

「先生を買収ばいしゅうでもしたのか?」

「まさかぁ」
 クスクスと笑う妹。デバイスの監視かんしがある以上、不正は即座に検知されるはずだ。

「それとも、この『精霊せいれい』自体にすべてを任せたのか?」

 彼女は椅子いすの背せもたれに体重を預あずけ、ぷいっと顔を横に背そむけた。

 離はなれ離ばなれに暮らしていた俺たちは、実質的じっしつてきには初対面しょたいめんに近い。それでも、こうして雨音あまおとを聞きながら過ごす時間は、お互いの呼吸の音さえ気にならず、ただ背中に伝わる毛布もうふの温ぬくもりを静かに受け入れていた。

 だが思考を巡めぐらせるうちに、俺は一つ、致命的ちめいてきな違和感いわかんを見落としていたことに気が付いた。
「......そういえば、GWゴールデンウィークの直前に転校手続きをしたんだったな」

 俺の言葉に、未夏みかはネットサーフィンをしていた視線を、微かすかにこちらへ流した。

「転校前の学校でGWゴールデンウィークの宿題を事前にやって提出したから、今手元にないって言ったんだよね」
 彼女は平然へいぜんと言い放った。

 DX化の隙間すきまを突き、管轄かんかつの違いを利用して「免除めんじょ」を勝ち取るその手腕しゅわん。
 俺は思わずため息を漏らし、彼女のすました横顔から視線を外せなくなった。未夏みかは肩をすくめ、いかにも「作り物」と分かるような笑えみを浮うかべて見せた。

「そろそろシャワーを浴あびるか...」
 俺は着替きがえを準備し、素すっ裸ぱだかになって蛇口じゃぐちをひねる。

 氷みたいに冷えた水が肩を打つ。
 思わず息が漏もれた。だが、水を身体にかける度に、肺はいに刺さすような痛みがチクリと走った。火照ほてった頭の奥が、少しずつ静かになっていく。

「お風呂沸わかしておいたから、適当てきとうに入って」

 ネットサーフィンしている未夏みかにそう告げ、俺はタオルを首にかけたまま、上半身裸はだかで机つくえに突つっ伏ぷした。降ふり続く雨音あまおとを子守唄こもりうたに、深い眠りへと落ちていった。


 ―――


 数時間が経たっただろうか。

 まぶたの裏うらを焼くような、橙色だいだいいろの光で目を開ける。机つくえに突つっ伏ぷしていた頬ほほがじっとり汗あせばんでいた。

 あれほど激はげしかった雨は止み、窓の外には洗い流されたような群青色ぐんじょういろの空が広がっている。湿しめった空気の中にだけ、5月とは思えない初夏しょかのような熱気が残っていた。

 微かすかな頭痛ずつうと眩暈めまいを感じながら、薄暗うすぐらい台所に目を向けると、未夏みかが同じように机に突っ伏して眠っていた。薄暗うすぐらい静寂せいじゃくが、粘ねばり気のある重さで部屋を満たしている。

 少し悪戯いたづらでもしてやろうか――そんな軽い思考は、彼女の顔を覗のぞき込んだ瞬間に音を立てて凍こおりついた。

「えっ......と......未夏みか?」

 応こたえはない。
 彼女は、泣きながら眠っていた。

 長い睫毛まつげの先に雫しずくが溜たまり、頬ほほを細ほそく濡ぬらしている。熱を持った吐息といきが、規則的に机つくえへ落ちていた。

 足元に、冷たい感触かんしょくが触れた。

「これは......?」

 裸足はだしの裏に広がる水気みずけ。
 涙なみだにしては多すぎる。雨漏あまもりにしては妙みょうに冷たい。

 まるで、水だけ温度が違うみたいだった。
 その違和感を確かめる前に、未夏みかが寝ねぼけ眼めをこすりながら身を動かした。

「んあぁ......おはよ、お兄ちゃん......」

「......今は夕方だよ」

「どっちでもいいじゃん」

 気けだるげな彼女の額ひたいに手を当てようとする。驚くほどの熱気が伝わってきた。
「少し熱が出てないか?」

 手のひらを額ひたいに当てた次の瞬間、まるで煮にえ滾たぎる泥どろに触れたかのような錯覚さっかくに襲おそわれた。

 びくりと手が跳はね上がる。

 肌の奥で、何か悍おぞましいモノがのたうち回っているかのような異常な熱量。
 対照的に、俺の服を掴つかむ彼女の指先は、墓石ぼせきのように冷ひえ切きっていた。その歪いびつな温度差が、背筋せすじに冷たい刃やいばを突つき立てられたかのような、底知そこしれない戦慄せんりつとなって脳髄のうずいを駆かけ抜ぬけた。

 俺は素早すばやく布団を敷き、力なく横たわる彼女を背負って部屋へと運んだ。背中に伝わる彼女の熱と、規則正しいがどこか危うい心臓の鼓動こどう。

 手慣れない手つきでお粥かゆを用意し、スプーンを口元へ運ぶが、未夏みかは頑かたくなに口を閉ざしたままだ。

「お粥かゆじゃ嫌だったか? じゃあリンゴを擦すってきてやるから」
 立ち去ろうとした俺の腕を、彼女の手が強く引き止めた。

「行かないで」

 弱々しい声。だが、その腕には、決して離すまいという確固かっこたる意志が宿やどっている。彼女は布団の横をポンポンと叩き、隣となりに来るよう合図した。

「......お粥かゆ、ダメだったか?」

 未夏みかは首を振り、震ふるえる声で、しかしはっきりと、俺の理性を揺ゆさぶる言葉を口にした。

「口移くちうつしで食べさせてほしい」

 その言葉に、喉のどが小さく鳴った。部屋の空気が急に重くなる。雨上がり特有の湿気しっけが肌に貼り付き、逃げ場のない熱気が肺はいの奥へ沈んでいく。

 一瞬、自分の耳を疑うたがった。
 何を言っているんだ。

 いくら長年離れて暮らしていた期間があるとはいえ、未夏みかは俺の妹だ。家族に対してそんな一線を越えるような真似まね、倫理的りんりてきにも常識的じょうしきてきにも許されるはずがない。

「......っ、未夏みか、お前熱でどうにかなってるんじゃないか!?」
 俺は辛かろうじて残った理性を振ふり絞しぼって声を出す。

 だが、その言葉は最後まで続かなかった。

 視界に映る未夏みかの姿が、あまりにも痛々しく、そして脆(もろ)そうに見えたからだ。普段の小悪魔こあくまめいた不敵ふてきな笑えみはどこにもない。真まっ赤かに火照ほてった頬ほほ、苦しげに震ふるえる唇くちびる、そして涙なみだの跡あとが残る睫毛まつげの奥で、ただ俺だけを必死に求めている、壊れ物のような瞳ひとみ。

 突き放そうとした指先が、凍こおりついたように止まる。
 もし今、この手を振ふり払はらえば――脳裏のうりを過よぎったのは、暗黒の深海で一人、肉体をバラバラに引ひき裂さかれながら消えていく未夏みかの幻影げんえいだった。

 心臓が、肋骨ろっこつを叩たたき割わらんばかりに不吉なビートを刻きざむ。冷ひや汗が首筋くびすじを伝つたい、どろりとした焦燥しょうそうが喉のどを締しめ上げた。

 ドクン、と心臓がうるさく脈打みゃくうつ。

 倫理的りんりてきなタブーを警告けいこくする脳内のうないのアラームは、彼女の放つ圧倒的あっとうてきな熱気によって、じわじわと焼き切られていく。駄目だめだ、冷静になれ。そう念ねんじるほどに、逃げ場のない部屋の湿気しっけが俺の思考を白く混濁こんだくさせていった。

 正常な判断力なんて、最初から残っていなかったのかもしれない。
 熱に浮うかされているのは、未夏みかだけではなく、俺も同じだった。

 妹という境界線が、どろどろと溶とけて曖昧あいまいになっていく。抗あらがうための正論すら頭から消え失うせ、俺の理性は、彼女の放つ引力に抗うことなく流されていった。高熱にうなされ、縋すがるような瞳ひとみで俺を見る彼女を前に、拒絶する選択肢はなかった。

 俺は意を決して、粥かゆを口に含み、彼女の顔へと近づいた。指先で彼女の顎あごをそっと持ち上げ、唇くちびるが触ふれた瞬間、未夏みかの肩がびくりと震ふるえた。

 熱い。

 想像以上に熱かった。
 柔やわらかい感触より先に、熱だけが神経へ流れ込んでくる。

 絡からみつく舌の感触。
 浅く混まざる呼吸。
 湿しめった音だけが、静かな部屋にやけにはっきり響ひびいていた。

 彼女の腕が背中へ回る。
 熱に浮うかされた身体が、離れることを拒こばむみたいに強く縋すがりついてくる。しばらく続いたその往復の後、彼女の瞳ひとみに恍惚こうこつとした熱気が宿やどったのを見たとき、俺の理性は消失しかけていた。

「ただいま~」

 階下かいかから聞こえた母の声に、心臓が跳はね上がった。俺と未夏みか、二人の間に凍こおり付くような緊張が走る。

「......また様子見に来るからな」
 俺は妹の頭を優しく撫なで、おでこをくっつけて、そう約束した。逃げるように部屋を後にし、母を手伝いに降おりていった。



 ―――

 ――― 未夏みか視点



「あーあ、やっちゃったんだ......私」

 兄が去った後、私は天井てんじょうを見上げていた。

 まだ唇くちびるに熱が残っている。触ふれられた場所だけが、自分の身体ではないみたいに痺しびれていた。

 自分でも引くほど大胆だいたんなことをした自覚はある。佐野さの 甘奈あまなという「正解ヒロイン」がいることを知りながら、私は兄が寝ている傍かたわらで、叶かなうはずのない恋に独ひとり、濡ぬれている場所を触さわり耽ふけっていた。

 奥歯を噛かみ締しめ、爪が手のひらに食い込むほど拳こぶしを握にぎりしめた。情の移った己おのれの顔が、鏡を見るまでもなく歪ゆがんでいるのが分かる。

 でも、もし「家族」という鎖くさりがなければ。お兄ちゃんと私が、ただの他人として出会っていたなら。そんな仮定に逃げ込んでしまうのは、あの日、父の泣き顔を見てしまったからかもしれない。

 私を理由もなく殴なぐり、その直後に情けなく泣き崩くずれた父親。

「俺は、父親失格だ」

 私は心の中でそんなことないと思った。扉越とびらごしに聞こえたその声に、私は絶望ではなく、歪ゆがんだ同情を覚えてしまった。
 何不自由なく学生生活を送れてお金でも困らなかったし、私のわがままは何でも聞いてくれた優しいお父さんだ。

 父親の身に何が起きたのか全部分かるわけではない。でも少なくとも苦しむ姿を見るのが嫌で、家族だから助けてあげなきゃと私なりに学校でもいい成績せいせきを出して親に心配かけないように家事かじも完璧かんぺきにこなしてみせた。

 そんな姿を見てお父さんは「困ったらちゃんと言いなよ」と言いながらお金を渡わたしてくれていた。

 別に困っているわけじゃない。でも少しの足しになればと合間あいまを縫ぬってバイトしたりとかして、友達と遊ぶ時間が減っていたのを見かねて多分渡わたしてくれたんだと思う。

 でも他人はあくまで他人。無条件で助けてくれるわけじゃない。
 善意ぜんいで近寄ってくる男たちをたくさん見てきた。ただそれが私にとって重要じゃないように感じてしまって、どこかで敬遠けいえんしてきたのもあると思う。

 でも父親が長期出張しゅっちょうで家に帰らなくなって寂しくなるのを父親なりに考えたのだろう。田舎にある実家通いで明雲めいうん高校に転校してみたらどうかと。

 私は最初は断った。
 お父さんのご飯はんは私が作ってきたんだよ。私がいなくなったら健康はどうするの?心配する私をよそ目に、父は重かさねてこう言った。

「お前には1つ上のお兄さんがいる。でも記憶障害きおくしょうがいで苦労しているみたいなんだ。お父さんのことなら金があるから心配ない。」

 スマートフォンの画面を持つ手が、ぴたりと止まった。思考が一瞬、白い空白に染まる。

 確かに小さい頃、私には兄がいたけれどほとんど喋しゃべらなかった。父親に付いて行ったのもかなり小さい頃だ。私が駄々だだこねたものだから、仕方しかたなさそうに「じゃあお父さんと一緒に付いてくるか?」と聞かれた時は、ふたつ返事だった。

 だからここまで育ててくれた父親には凄すごく感謝している。

 父の背中を思い浮かべ、私は深く、静かに頭を下げた。
 胸の奥が、温あたたかい何かで満たされていく。
「家族なんだから」――自分自身にそう言い聞かせ、小さく頷うなづいた。

 そして転校してから数日、兄を見つけ出した時、私の体は硬直こうちょくした。

 目の前に立つ彼の瞳ひとみを見た瞬間、息が詰まる。
 そこに広がっていたのは、底無しの暗い沼ぬま。

 すべてを諦あきらめたような昏くらい光に当てられ、私の胸は万力まんりきで締しめ付けられるように激はげしく脈打ち、呼吸が浅く、速くなっていった。
 お父さんのようなまなざしで、まっすぐな瞳ひとみで、穢けがれを知らない純粋じゅんすいな眼め。

 どうして神様は、あんな人を不幸のどん底に突き落としたのだろう。彼の瞳ひとみは、ひどく綺麗きれいだった。

 だからこそ危あやうかった。

 雨上あめあがりのガラスみたいに、少し触れれば壊こわれてしまいそうなくらいに。それなら家族の私が支えなきゃいけない。私はいけない領域りょういきに踏ふみ込こもうとしていた。

「たとえ世界が嘘うそで塗ぬり固められていたとしても、家族ってことは唯一無二の絶対なのだから」

 私がしようとしていることは傲慢ごうまんかもしれないけれど、それが私にとっての唯一ゆいいつ運命に対する反抗なのだから。家族という名の檻おりの中で、私はこの愛を貫つらぬく。

「私の愛で、癒いやされますように」
 私は自分の右手を左手で包み込み、祈いのるように顔を埋めた。

 夕闇ゆうやみが忍び寄る部屋で、私の熱だけがいつまでも冷めずに残っていた。窓の外で濡ぬれたシダレヤナギの静かに揺ゆれる音が眠気を誘さそう。挿絵
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ゲマトレイル Gematrail — 残響領域の観測者 — 紅蓮よ、咲き誇れ作者:⛰️終末 金剛山
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