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Echo 05 『 交錯する空 』


 五月。
 若葉わかばの青臭あおくさい匂においが風に混まじり、陽射ひざしがじわりと肌へ熱を残す季節。俺は、弓道きゅうどうの特別特訓を約束した辻ノつじの先輩の実家へ向かっていた。

「......それにしても、この階段、多すぎだろ」

 神社が実家だとは聞いていた。だが、実際に目の前へ広がる石段いしだんは、もはや修行しゅぎょうだった。

 山の麓ふもとには土産物屋みやげものやや茶屋ちゃやが並び、復興ふっこう運動の象徴しょうちょうとして整備せいびされた観光地らしい賑にぎわいを見せている。その喧騒けんそうを抜ぬけた先にある長い石段いしだんは、容赦ようしゃなく体力を削けずってきた。足を踏ふみ出すたび、太腿ふとももの奥が熱を持つ。制服の背中が汗で張はり付き、呼吸が浅くなる。

「ここで食べる蕎麦そば、美味おいしいんだよなぁ......」
 まだ開店前の店先から漂ただよう出汁だしの香かおりに、一瞬だけ意識が引ひっ張ぱられる。

 だが、遅刻したら何を言われるか分からない。脳裏のうりに浮かぶのは、あの辻ノつじの先輩の鋭するどい眼光がんこうだった。ようやく鳥居とりいを潜くぐった頃には、肺はいが焼けるようだった。肩で息をしながら空を見上げる。

 高い。抜ぬけるような青空。吹ふき抜ぬける風が汗ばんだ首筋くびすじを冷ひやし、火照ひてった身体から熱を奪うばっていく。

「......水、飲みてぇ」
 喉のどが乾かわききっていた。口の中が砂みたいにぱさつく。

「あの......お水、要りますか?」

 背後はいごから声が降ってきた。振ふり返る。そこには、髪かみを下ろした「辻ノつじの先輩」が立っていた。白い巫女みこ服。陽射ひざしに透すける黒髪くろかみ。手には冷ひえた麦茶の入った竹筒たけづつ。俺は反射的に地面へ頭を擦こすりつけた。

「遅刻して大変申し訳ございませんッッ!!」

 砂利じゃりが額ひたいへ食い込む。だが、返ってきたのは怒号どごうではなく、妙みょうな沈黙ちんもくだった。

 ......あれ?

 空気がおかしい。怒られると思っていたのに、気配けはいが柔やわらかい。恐おそる恐おそる顔を上げようか迷っていると――。

「なぁにボサボサしている。さっさと準備して修行しゅぎょうするぞ」

 頭の上から、聞き慣なれた凛りんとした声。空気を裂さくような、あの声だ。俺は驚おどろき顔を上げた。そこには、道着どうぎ姿の辻ノつじの先輩。そして目の前には、巫女みこ服姿の「辻ノつじの先輩」。俺の脳内が完全に停止した。

 頭の中で何かがバグる。理解が追いつかない。

 片方は腕を組み、不機嫌ふきげんそうにこちらを睨にらんでいる。
 もう片方は困ったように微笑ほほえんでいる。その空気に耐たえかねたように、最初に声をかけてきた巫女みこ姿の彼女が口を開いた。

「......実は、私たち姉妹なんです」
 巫女みこ服の少女――妹の方が、柔やわらかく笑った。

「“あやか”、もう少し髪型かみがたに変化をつけろ。紛まぎらわしい」

「姉さん、後輩君にそんな高圧的なのどうかと思いますけど......」

「ふん。私についてこれない軟弱者なんじゃくものが悪い。私は去年、弓道きゅうどうと剣道けんどうで全国一位になったんだぞ」

「それはそうですけど......」
 妹の彼女は苦笑する。
 その苦労、少し分かる気がした。

「あやか、お客さんか?」
 国造館こくぞうかんの奥から現れたのは神主かんぬしらしき男性だった。白衣はくいに染み込んだ古い木と線香せんこうの匂におい。穏おだやかな笑えみを浮うかべている。

「あぁ、私の学校の後輩だ。弓道部きゅうどうぶへ入って、私が指導することになった」

 いや、違う。正確には、顧問こもんが丸投げしただけだ。

 俺は被害者だ。こんなことになるなら、弓道部きゅうどうぶなんて入らなければよかった......。そう後悔こうかいしかけた瞬間、頭の中へ別の疑問が引っかかった。

 ......待て。

 辻ノつじの先輩が妹を「あやか」と呼び、神主かんぬしさんが辻ノつじの先輩を「あやか」と呼んだ......?

 脳内が宇宙猫になった。

 混乱こんらんして固まっている俺を見て、神主かんぬしが腹を抱かかえて笑わらい始めた。
「“あやか”、妹がいるって言ってなかったのか?」

「......言う必要がないと思っただけだ。あくまで先輩と後輩の関係だからな」
 辻ノつじの先輩が珍めずらしく気きまずそうに視線を逸そらす。

 その隣となりで妹の「あやか」さんは、にこにこと微笑ほほえんでいた。

 俺は恐おそる恐おそる聞いた。
「えっと......つまり、お二人とも下の名前が“あやか”さんなんですか?」

「あぁ、そうだとも」
 神主かんぬしは快活かいかつに笑わらう。

 一方で、辻ノつじの先輩の視線は蛇へびみたいに鋭するどくなっていた。

 本気で逃げたい。

「私は辻ノつじの先輩だ。次、下の名前で呼び捨てにしてみろ。その首を矢で射抜いぬくぞ」

 冗談じょうだんに聞こえなかった。冷や汗が背中を流れる。

「あ、姉さんは怖いこと言いますけど、本当は優やさしいんですよ」
 妹の方が慌あわててフォローを入れる。

「“あやか”、こいつは遊びで来たんじゃないぞ」

 そりゃそうだ。こんな朝早く神社へ来る高校生なんてそうそういない。

「力を持つ者には責任が伴う。扱あつかいを誤あやまれば碌ろくな人間にならん」

 ぐうの音も出ない正論だった。

「姉さん、御弓神事おゆみのしんじでは毎年すごい人が集まるんですよ」
 妹が誇ほこらしげに言う。

 辻ノつじの先輩は「やめろ」とでも言いたげに顔をしかめるが、耳がほんの少し赤かった。その表情を見て、俺は少しだけ見惚みほれてしまった。

 凛々りりしい姉。
 柔やわらかな妹。同じ顔なのに、空気がまるで違う。

「何をぼーっとしている! さっさと着替きがえて準備しろ!!」

 怒声どせいが飛ぶ。俺は慌あわてて案内された部屋へ駆かけ込こみ、道着どうぎへ着替きがえた。布地ぬのぢが汗ばんだ肌へ張はりつく。

「ここへ立て」

 道場どうじょうへ戻ると、辻ノつじの先輩が中央で待っていた。俺は以前教わった姿勢を思い出しながら弓を構かまえる。辻ノつじの先輩は無言むごんで周囲を回る。

 床板ゆかいたが軋きしむ音。
 張はり詰つめた空気。
 何も言われないことが逆に怖い。
 ......案外、ちゃんと出来てるのか?そう思い始めた瞬間だった。

 ガクンッッ!!

 膝ひざへ強烈きょうれつな衝撃しょうげき。視界が傾かたむき、そのまま床へ叩たたきつけられた。
「重心じゅうしんがなってない!! 肩幅かたはばまで足を開け! 背筋せすじを伸ばせ!!」

 スパルタだ。完全に昭和の体育会系だ。心の中で愚痴ぐちりながら、俺は立ち上がる。

「口で理解しても意味はない。身体へ叩たたき込こめ。射法八節しゃほうはっせつは確認したのか?」

 ......しゃほう、はっせつ?
 困惑こんわくしていると、辻ノつじの先輩が呆あきれ顔になった。

「はぁ......この私が時間を割さいて教えているんだ。少しは覚えて帰れ」

「......ありがとうございます」

 怖こわい。でも、実力が本物なのは分かる。結局、俺はその日、六時間みっちり射法八節しゃほうはっせつを叩たたき込まれた。

 肩が裂さけそうだった。
 指の皮が擦こすれて熱い。
 足は鉛なまりみたいに重い。

「はぁ......っ、はぁ......」
 床へ転がり、天井てんじょうを見上げる。

 木造もくぞうの天井板てんじょういた。
 汗の匂におい。
 夕方の光。

 辻ノつじの先輩はそんな俺を見下ろしながら矢を収おさめた。
「もう昼か。休憩きゅうけいに入るぞ」

 そう言うと辻ノつじの先輩は俺を待つことも無く建物の中に消えて行った。

 視界が揺ゆれる。脚あしが笑わらっている。俺は疲つかれた上半身を右腕で支え起こし、左手で床に手をついた。眩暈めまいがしてふらつく頭をなんとか起こし、俺もその建物の中に入った。

 昼食に出された天ぷら蕎麦そばは、異常なほど美味うまかった。揚あげたての衣ころもがつゆを吸い、噛かむたび出汁だしの香かおりが広がる。

「今は成長期だ。いくらでも食べなさい」
 神主かんぬしさんが笑わらい、妹のあやかさんがご飯をよそってくれる。

 ......ここ、天国か?漬物つけものまで美味うまい。

「おい、食べ過ぎるなよ」
 辻ノつじの先輩が呆あきれた声を出す。

 いや、仕方ないだろ。美味うまいんだから。満腹感が全身へ広がり、午前中の疲労ひろうが少し和やわらいでいく。

「私は風に当たってくる」
 辻ノつじの先輩が席を立った。

「お姉さん、あなたのこと凄すごく期待してるんですよ」
 "あやか"さんが羊羹ようかんを差し出しながら微笑ほほえむ。

 羊羹ようかんの甘さが舌の上でゆっくり溶けていく。しっとりした甘味が疲つかれた身体へ染みた。

「私のことは呼び捨てでも構いませんよ」

「あ、あぁ......ありがとうござ...ありがとう」

 言い直した瞬間、彼女は吹き出した。涙目になりながら笑わらっている。うーんどうして瓜二うりふたつなのにこんなに姉妹で性格が違うのだろうか。そう思って見つめていると、あやかさんは少し照れたように髪かみを耳へかけた。

「私、綺麗きれいの“綺”に、本のしおりの“栞”って書いて“あやか”って読むんです。同じ学校の2年なので同級生ですね」

 俺は気が付かなったのだが、別のクラスなのだろうか。まぁ合同授業なんてものもあまりないこのご時世じせいだし、デバイスがあればいつでもどこでも授業を聞けるような環境だからな。

「もしお姉さんが厳きびしくて逃げたい時は私がかくまってあげますから...」

 うーん可愛い。結婚しよう。

 その柔やわらかな笑えみに、俺の理性は危あやうく崩壊ほうかいしかける。ごちそうさまと言い、恥はずかしさから逃げるように口を漱すすごうと外へ出る。冷たい水が火照ほてった口内を洗い流していく。

 その時、近くに辻ノつじの先輩がいることへ気づいた。少し気まずい。刺激しげきしないでおこう。そう思った矢先。

「こっちへ来い」

 逃げられなかった。連れて行かれたのは、街を見下ろせる高台だった。風が吹く。汗ばんだ道着どうぎの隙間すきまへ入はいり込こみ、熱を冷ましていく。

「どうだ。やり遂とげた後の風は心地ここちいいだろう」
 辻ノつじの先輩が空を見ながら言う。確かに、悪くなかった。

 肺はいの奥へ入り込む山の空気。
 遠くで鳴く鳥の声。
 町並みを抜ぬける風。

「ここはお気に入りなんだ。ここへ来ると、集中が研とぎ澄すまされる」
 目を閉じる辻ノつじの先輩。風が髪かみを揺ゆらす。その静かな横顔へ見惚みほれた瞬間――。

 存在しないはずの記憶が、濁流だくりゅうとなって脳内を逆流ぎゃくりゅうした。



 海。
 冷たい水。
 沈む感覚。
 裏切り。
 家族。
 師。
 社会。
 断絶。



 頭の奥を鉄槌てっついで殴なぐられたみたいな激痛げきつうと眩暈めまい。

「いつしかお前も、自分の生き方を貫つらぬいて戦う日が来る」

「......俺は、先輩を誤解ごかいしていたようだ」

「分かってくれたのか?」
 辻ノつじの先輩が道着どうぎの乱れを整える。指先が胸元むなもとへ触ふれる。

「私も退屈な日々を無為むいに過ごすほど、やわな人間じゃない」
 彼女が手を差し出す。

 俺はその手を握にぎった。

 そして――。

「あんたのやり方は時代遅れだってことがな!!!」

 気づけば、身体が動いていた。

 渾身こんしんの柔道技じゅうどうわざ一本背負い。辻ノつじの先輩の身体が宙ちゅうを舞う。だが彼女は空中で鮮あざやかに受け身を取り、静かに着地した。

「この現実は虚構きょこうで塗ぬり固められている。変革へんかくには犠牲ぎせいが必要だ」

「それが、あんたの言う変革へんかくかよ!それで一体何が残るって言うんだ、 ふざけるな!」
 呼吸が荒あれる。胸が熱い。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。俺はよろめく身体を支え、先輩を睨にらみつけた。

「口先と力で何不自由なく従したがえられるあんたみたいなやつに、虐しいたげられた弱者の痛みが分かるか!」

「何が弱者だ!!」
 先輩の怒声どせいが響ひびく。

「お前だって力で敵を黙だまらせ、頂点に上のぼり詰つめようとしていた人間だ」

 動揺どうようした。なぜ、知っている?

 沈めたはずの“俺”が、水底から浮かび上がってくる。混濁こんだくした意識の中で、もう一人の"俺"が何かに呼ばれているかのように鼓動こどうが脈打みゃくうつ。

「力のない正義はただの無力だ。お前だって分かるはずだ! この残酷ざんこくな現実が!!」
 綾華あやかは怒りを俺にぶつけ、拳こぶしを叩たたきこむ。

 俺は拳こぶしを握にぎって歯を食いしばり、飛び込んでくる拳こぶしを両腕で受け止めた。
「今度はお前の口を黙だまらせてやる」

 失われた記憶が、火花みたいに脳内で爆はぜ始めていた。
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Echo 05 『 交錯する空 』


 五月。
 若葉わかばの青臭あおくさい匂においが風に混まじり、陽射ひざしがじわりと肌へ熱を残す季節。俺は、弓道きゅうどうの特別特訓を約束した辻ノつじの先輩の実家へ向かっていた。

「......それにしても、この階段、多すぎだろ」

 神社が実家だとは聞いていた。だが、実際に目の前へ広がる石段いしだんは、もはや修行しゅぎょうだった。

 山の麓ふもとには土産物屋みやげものやや茶屋ちゃやが並び、復興ふっこう運動の象徴しょうちょうとして整備せいびされた観光地らしい賑にぎわいを見せている。その喧騒けんそうを抜ぬけた先にある長い石段いしだんは、容赦ようしゃなく体力を削けずってきた。足を踏ふみ出すたび、太腿ふとももの奥が熱を持つ。制服の背中が汗で張はり付き、呼吸が浅くなる。

「ここで食べる蕎麦そば、美味おいしいんだよなぁ......」
 まだ開店前の店先から漂ただよう出汁だしの香かおりに、一瞬だけ意識が引ひっ張ぱられる。

 だが、遅刻したら何を言われるか分からない。脳裏のうりに浮かぶのは、あの辻ノつじの先輩の鋭するどい眼光がんこうだった。ようやく鳥居とりいを潜くぐった頃には、肺はいが焼けるようだった。肩で息をしながら空を見上げる。

 高い。抜ぬけるような青空。吹ふき抜ぬける風が汗ばんだ首筋くびすじを冷ひやし、火照ひてった身体から熱を奪うばっていく。

「......水、飲みてぇ」
 喉のどが乾かわききっていた。口の中が砂みたいにぱさつく。

「あの......お水、要りますか?」

 背後はいごから声が降ってきた。振ふり返る。そこには、髪かみを下ろした「辻ノつじの先輩」が立っていた。白い巫女みこ服。陽射ひざしに透すける黒髪くろかみ。手には冷ひえた麦茶の入った竹筒たけづつ。俺は反射的に地面へ頭を擦こすりつけた。

「遅刻して大変申し訳ございませんッッ!!」

 砂利じゃりが額ひたいへ食い込む。だが、返ってきたのは怒号どごうではなく、妙みょうな沈黙ちんもくだった。

 ......あれ?

 空気がおかしい。怒られると思っていたのに、気配けはいが柔やわらかい。恐おそる恐おそる顔を上げようか迷っていると――。

「なぁにボサボサしている。さっさと準備して修行しゅぎょうするぞ」

 頭の上から、聞き慣なれた凛りんとした声。空気を裂さくような、あの声だ。俺は驚おどろき顔を上げた。そこには、道着どうぎ姿の辻ノつじの先輩。そして目の前には、巫女みこ服姿の「辻ノつじの先輩」。俺の脳内が完全に停止した。

 頭の中で何かがバグる。理解が追いつかない。

 片方は腕を組み、不機嫌ふきげんそうにこちらを睨にらんでいる。
 もう片方は困ったように微笑ほほえんでいる。その空気に耐たえかねたように、最初に声をかけてきた巫女みこ姿の彼女が口を開いた。

「......実は、私たち姉妹なんです」
 巫女みこ服の少女――妹の方が、柔やわらかく笑った。

「“あやか”、もう少し髪型かみがたに変化をつけろ。紛まぎらわしい」

「姉さん、後輩君にそんな高圧的なのどうかと思いますけど......」

「ふん。私についてこれない軟弱者なんじゃくものが悪い。私は去年、弓道きゅうどうと剣道けんどうで全国一位になったんだぞ」

「それはそうですけど......」
 妹の彼女は苦笑する。
 その苦労、少し分かる気がした。

「あやか、お客さんか?」
 国造館こくぞうかんの奥から現れたのは神主かんぬしらしき男性だった。白衣はくいに染み込んだ古い木と線香せんこうの匂におい。穏おだやかな笑えみを浮うかべている。

「あぁ、私の学校の後輩だ。弓道部きゅうどうぶへ入って、私が指導することになった」

 いや、違う。正確には、顧問こもんが丸投げしただけだ。

 俺は被害者だ。こんなことになるなら、弓道部きゅうどうぶなんて入らなければよかった......。そう後悔こうかいしかけた瞬間、頭の中へ別の疑問が引っかかった。

 ......待て。

 辻ノつじの先輩が妹を「あやか」と呼び、神主かんぬしさんが辻ノつじの先輩を「あやか」と呼んだ......?

 脳内が宇宙猫になった。

 混乱こんらんして固まっている俺を見て、神主かんぬしが腹を抱かかえて笑わらい始めた。
「“あやか”、妹がいるって言ってなかったのか?」

「......言う必要がないと思っただけだ。あくまで先輩と後輩の関係だからな」
 辻ノつじの先輩が珍めずらしく気きまずそうに視線を逸そらす。

 その隣となりで妹の「あやか」さんは、にこにこと微笑ほほえんでいた。

 俺は恐おそる恐おそる聞いた。
「えっと......つまり、お二人とも下の名前が“あやか”さんなんですか?」

「あぁ、そうだとも」
 神主かんぬしは快活かいかつに笑わらう。

 一方で、辻ノつじの先輩の視線は蛇へびみたいに鋭するどくなっていた。

 本気で逃げたい。

「私は辻ノつじの先輩だ。次、下の名前で呼び捨てにしてみろ。その首を矢で射抜いぬくぞ」

 冗談じょうだんに聞こえなかった。冷や汗が背中を流れる。

「あ、姉さんは怖いこと言いますけど、本当は優やさしいんですよ」
 妹の方が慌あわててフォローを入れる。

「“あやか”、こいつは遊びで来たんじゃないぞ」

 そりゃそうだ。こんな朝早く神社へ来る高校生なんてそうそういない。

「力を持つ者には責任が伴う。扱あつかいを誤あやまれば碌ろくな人間にならん」

 ぐうの音も出ない正論だった。

「姉さん、御弓神事おゆみのしんじでは毎年すごい人が集まるんですよ」
 妹が誇ほこらしげに言う。

 辻ノつじの先輩は「やめろ」とでも言いたげに顔をしかめるが、耳がほんの少し赤かった。その表情を見て、俺は少しだけ見惚みほれてしまった。

 凛々りりしい姉。
 柔やわらかな妹。同じ顔なのに、空気がまるで違う。

「何をぼーっとしている! さっさと着替きがえて準備しろ!!」

 怒声どせいが飛ぶ。俺は慌あわてて案内された部屋へ駆かけ込こみ、道着どうぎへ着替きがえた。布地ぬのぢが汗ばんだ肌へ張はりつく。

「ここへ立て」

 道場どうじょうへ戻ると、辻ノつじの先輩が中央で待っていた。俺は以前教わった姿勢を思い出しながら弓を構かまえる。辻ノつじの先輩は無言むごんで周囲を回る。

 床板ゆかいたが軋きしむ音。
 張はり詰つめた空気。
 何も言われないことが逆に怖い。
 ......案外、ちゃんと出来てるのか?そう思い始めた瞬間だった。

 ガクンッッ!!

 膝ひざへ強烈きょうれつな衝撃しょうげき。視界が傾かたむき、そのまま床へ叩たたきつけられた。
「重心じゅうしんがなってない!! 肩幅かたはばまで足を開け! 背筋せすじを伸ばせ!!」

 スパルタだ。完全に昭和の体育会系だ。心の中で愚痴ぐちりながら、俺は立ち上がる。

「口で理解しても意味はない。身体へ叩たたき込こめ。射法八節しゃほうはっせつは確認したのか?」

 ......しゃほう、はっせつ?
 困惑こんわくしていると、辻ノつじの先輩が呆あきれ顔になった。

「はぁ......この私が時間を割さいて教えているんだ。少しは覚えて帰れ」

「......ありがとうございます」

 怖こわい。でも、実力が本物なのは分かる。結局、俺はその日、六時間みっちり射法八節しゃほうはっせつを叩たたき込まれた。

 肩が裂さけそうだった。
 指の皮が擦こすれて熱い。
 足は鉛なまりみたいに重い。

「はぁ......っ、はぁ......」
 床へ転がり、天井てんじょうを見上げる。

 木造もくぞうの天井板てんじょういた。
 汗の匂におい。
 夕方の光。

 辻ノつじの先輩はそんな俺を見下ろしながら矢を収おさめた。
「もう昼か。休憩きゅうけいに入るぞ」

 そう言うと辻ノつじの先輩は俺を待つことも無く建物の中に消えて行った。

 視界が揺ゆれる。脚あしが笑わらっている。俺は疲つかれた上半身を右腕で支え起こし、左手で床に手をついた。眩暈めまいがしてふらつく頭をなんとか起こし、俺もその建物の中に入った。

 昼食に出された天ぷら蕎麦そばは、異常なほど美味うまかった。揚あげたての衣ころもがつゆを吸い、噛かむたび出汁だしの香かおりが広がる。

「今は成長期だ。いくらでも食べなさい」
 神主かんぬしさんが笑わらい、妹のあやかさんがご飯をよそってくれる。

 ......ここ、天国か?漬物つけものまで美味うまい。

「おい、食べ過ぎるなよ」
 辻ノつじの先輩が呆あきれた声を出す。

 いや、仕方ないだろ。美味うまいんだから。満腹感が全身へ広がり、午前中の疲労ひろうが少し和やわらいでいく。

「私は風に当たってくる」
 辻ノつじの先輩が席を立った。

「お姉さん、あなたのこと凄すごく期待してるんですよ」
 "あやか"さんが羊羹ようかんを差し出しながら微笑ほほえむ。

 羊羹ようかんの甘さが舌の上でゆっくり溶けていく。しっとりした甘味が疲つかれた身体へ染みた。

「私のことは呼び捨てでも構いませんよ」

「あ、あぁ......ありがとうござ...ありがとう」

 言い直した瞬間、彼女は吹き出した。涙目になりながら笑わらっている。うーんどうして瓜二うりふたつなのにこんなに姉妹で性格が違うのだろうか。そう思って見つめていると、あやかさんは少し照れたように髪かみを耳へかけた。

「私、綺麗きれいの“綺”に、本のしおりの“栞”って書いて“あやか”って読むんです。同じ学校の2年なので同級生ですね」

 俺は気が付かなったのだが、別のクラスなのだろうか。まぁ合同授業なんてものもあまりないこのご時世じせいだし、デバイスがあればいつでもどこでも授業を聞けるような環境だからな。

「もしお姉さんが厳きびしくて逃げたい時は私がかくまってあげますから...」

 うーん可愛い。結婚しよう。

 その柔やわらかな笑えみに、俺の理性は危あやうく崩壊ほうかいしかける。ごちそうさまと言い、恥はずかしさから逃げるように口を漱すすごうと外へ出る。冷たい水が火照ほてった口内を洗い流していく。

 その時、近くに辻ノつじの先輩がいることへ気づいた。少し気まずい。刺激しげきしないでおこう。そう思った矢先。

「こっちへ来い」

 逃げられなかった。連れて行かれたのは、街を見下ろせる高台だった。風が吹く。汗ばんだ道着どうぎの隙間すきまへ入はいり込こみ、熱を冷ましていく。

「どうだ。やり遂とげた後の風は心地ここちいいだろう」
 辻ノつじの先輩が空を見ながら言う。確かに、悪くなかった。

 肺はいの奥へ入り込む山の空気。
 遠くで鳴く鳥の声。
 町並みを抜ぬける風。

「ここはお気に入りなんだ。ここへ来ると、集中が研とぎ澄すまされる」
 目を閉じる辻ノつじの先輩。風が髪かみを揺ゆらす。その静かな横顔へ見惚みほれた瞬間――。

 存在しないはずの記憶が、濁流だくりゅうとなって脳内を逆流ぎゃくりゅうした。



 海。
 冷たい水。
 沈む感覚。
 裏切り。
 家族。
 師。
 社会。
 断絶。



 頭の奥を鉄槌てっついで殴なぐられたみたいな激痛げきつうと眩暈めまい。

「いつしかお前も、自分の生き方を貫つらぬいて戦う日が来る」

「......俺は、先輩を誤解ごかいしていたようだ」

「分かってくれたのか?」
 辻ノつじの先輩が道着どうぎの乱れを整える。指先が胸元むなもとへ触ふれる。

「私も退屈な日々を無為むいに過ごすほど、やわな人間じゃない」
 彼女が手を差し出す。

 俺はその手を握にぎった。

 そして――。

「あんたのやり方は時代遅れだってことがな!!!」

 気づけば、身体が動いていた。

 渾身こんしんの柔道技じゅうどうわざ一本背負い。辻ノつじの先輩の身体が宙ちゅうを舞う。だが彼女は空中で鮮あざやかに受け身を取り、静かに着地した。

「この現実は虚構きょこうで塗ぬり固められている。変革へんかくには犠牲ぎせいが必要だ」

「それが、あんたの言う変革へんかくかよ!それで一体何が残るって言うんだ、 ふざけるな!」
 呼吸が荒あれる。胸が熱い。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。俺はよろめく身体を支え、先輩を睨にらみつけた。

「口先と力で何不自由なく従したがえられるあんたみたいなやつに、虐しいたげられた弱者の痛みが分かるか!」

「何が弱者だ!!」
 先輩の怒声どせいが響ひびく。

「お前だって力で敵を黙だまらせ、頂点に上のぼり詰つめようとしていた人間だ」

 動揺どうようした。なぜ、知っている?

 沈めたはずの“俺”が、水底から浮かび上がってくる。混濁こんだくした意識の中で、もう一人の"俺"が何かに呼ばれているかのように鼓動こどうが脈打みゃくうつ。

「力のない正義はただの無力だ。お前だって分かるはずだ! この残酷ざんこくな現実が!!」
 綾華あやかは怒りを俺にぶつけ、拳こぶしを叩たたきこむ。

 俺は拳こぶしを握にぎって歯を食いしばり、飛び込んでくる拳こぶしを両腕で受け止めた。
「今度はお前の口を黙だまらせてやる」

 失われた記憶が、火花みたいに脳内で爆はぜ始めていた。
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