
第四話 白の魔法
「お前、呪術師じゃないか!」 傍の屋台から尖った声が響き、ロキが振り向いた時にはもう投げ付けられた鍋の中身が迫っていた。 時間が止まったような感覚の中でも分かるほど、濃い湯気を立たせた透明な湯だった。 あまりに咄嗟のことに避けることも出来ず、ロキはただ身を強張らせて痛みに備える。 だが次の瞬間、ロキの身体を薄い光の膜が包んだ。 人の肌を焼く温度の湯も、硬い鍋もその膜に阻まれ、壁にでも当たったかのような派手な音を立てながら地面に落ちた。 周囲の人々の視線が一斉にロキへ、そしてその傍らに立つユーリへと向く。「あのさぁ」 苛立ちのままにユーリはロキを見据えていた。
魔法の詠唱も、魔法陣の展開さえ省略して発動した保護魔法。 当然、そんな芸当を溜息交じりにやってのける者は限られている。 ましてや、それを行った者が白一色を纏う青年となれば、察しを付ける者も多い。
周囲から息を飲む音や感嘆の声が聞こえ、鍋を投げ付けた店主の男もまた顔を青くしてユーリの元へと駆け寄った。「S級冒険者のユーリ・アルセリア......! な、なぜ呪術師を――」「これ、僕が今連れてるんだよ。一々絡まないでほしいな」「そんな! 申し訳ありません、ご無礼を......!」「本当に無礼だよ。時間を無駄にした」 苛立つユーリに対し、繰り返し店主は頭を下げている。 同じようなことがあっても、毎度ユーリにのみ謝罪は捧げられ、ロキを気遣う者など一人もいなかった。 けれどロキはそんなことにも気付かず、一人夢見心地で自分の手のひらを見下ろしていた。(俺、この街に入ってから一度も怪我をしてない......)
何度も腕を掴まれ、フードを剥がされ、怒鳴り付けられはした。 だが、自分の身に未だ怪我一つないことがいっそ不思議だった。 子供の頃でさえ、視線が合ったというだけで殴られるのも蹴られるのも日常だった。 大人になった今など、こうして沸騰した湯を掛けても許されるような存在なのだ。 呪術師というものはそういうものなのだと、理解しているつもりだった。 だが今はどうだ。 街の大通りを歩いてなお、一滴の血も流していない。 その度にユーリの魔法がロキを守るからだ。(そりゃ、もちろん本意ではないんだろうが......)
その度に面倒が増えたと言わんばかりにロキを睨む。 そんなことで足を止めるなと、溜息も吐くし舌打ちもする。 時間の無駄だとなぜかロキが叱られる。 それでも、一度も捨て置くとは言わなかった。「これ、いいね」 ふと聞こえたユーリの声に、ロキは顔を上げる。 気付けば店主の謝罪も終わっていたようで、その男は鍋を片手に自分の屋台の内に戻って調理を再開していた。
一方で珍しく機嫌の良さそうな声を零したユーリが見ているのは、隣の露店に広げられた品物だった。 雑貨屋のような品揃えで様々な物が置いてある中、手に取ったのはよりにもよって大型犬用の革の首輪だ。 留め具の部分には宝石の輝きを真似たような石を嵌め込んだチャームが付いている。「あの、よろしければそちらはお持ちください......」「そう?」 露店の女店主がおずおずと申し出て、ユーリは遠慮なくそれを受け取った。 当然、善意ではないはずだ。 何かがあった時のためにS級の冒険者には恩を売っておきたい。 他店の主のせいでユーリの不興を買いたくはない。そんなところだろう。 だがそんな打算と下心を気にも留めない風にユーリはロキへと向き直り、犬用の首輪をロキの首に巻いた。 ひやりとした温度が肌に触れる。「な、何?」「何じゃないだろ。毎回、僕に面倒を掛けるなよ」 即座に咎めるような声色で返事が戻る。 革の首輪はしっかりとした重みがあり、それはずしりと首元で存在を主張した。(うわ、いよいよ本当に犬扱いだ......)
そんな心の内での呟きが伝わるはずもない。 離れ際、ユーリは首輪に付いたチャームを指で弾いた。 玩具のように安価な輝きを放つ石は、淡い光を纏って一度煌めく。「よし」 幾分機嫌の良さそうな声を残してユーリはロキから身体を離す。 そうして大きく二歩分の距離を開けた後、先程鍋を投げた店主の男へと向き直った。「ねえ、もう一回何かを投げてコイツを攻撃してみてよ」「え?」「え?」 男とロキの声が被る。 だがユーリはすぐに焦れたように眉根を寄せる。「早く。熱湯がないならそこのナイフでもなんでもいいよ」 ユーリは顎で屋台の天板にある細身のフルーツナイフを指し示す。 一人で店主とユーリとを交互に見比べながら動揺するロキの向かいで、店主はユーリの命令に従うべくおずおずとナイフを手に取った。「じゃ、じゃあ......」「え? え? 嘘! 待っ――」 状況を把握しきれずに手を振って拒むしか出来ないロキに向かって、若干躊躇しながらもしっかり狙いを定めたナイフが放たれる。 だが、その刃は身を庇ったロキの手に当たるよりも早く、先程と同じ光の壁に阻まれて地面に落ちた。 ロキの首元では、首輪に付いたチャームが淡い光を放って僅かに揺れている。「うん。しっかり動いてるね」 満足気に双眸を細め、ユーリは一人背を向けて歩き出す。 呆然とその場に取り残されたロキは同じような表情をしている店主と目を合わせてから、逃げ出すようにユーリの背を追った。「い、今のは......?」 他の通行人に肩をぶつけないように、ユーリの半歩斜め後ろから問い掛ける。 ユーリはロキを振り返りもしないまま答えた。「見れば分かるだろ。自動展開の保護魔法だよ」「それは分かりますけど! こんなものに掛けるなんて......!」 攻撃に反応し、自動で防御障壁を張る保護魔法。 この世に存在しないわけではない。 だがそれには非常に高度な技術が必要とされ、国の重要施設や要人が身に着けるものに掛けられるような貴重な魔法だ。 それがそこらの露店で購入、いや無料で譲り受けた犬用の首輪に授けられたなど一体誰が信じるだろうか。「お前、僕を誰だと思ってるの?」「S級の冒険者で、神授武器持ちの白魔術師......」「そうだよ」 ユーリは視線のみでロキを振り返り、小さく鼻で笑った。「その辺の白魔術師にとっては命を削って刻むような魔法でも、僕には息をするくらい簡単なことなんだよ」「うわぁ......」 思わず引くほど、あまりに尊大で傲慢な物言いだった。 だが、それを否定出来る者など存在しない。 何一つ偽りのない事実だからだ。「ところで、もしさっきの魔法が上手く掛かってなかったら?」「あのナイフがお前に刺さるだけだろ」「............」 一切迷いのない答えにロキは口を噤む。「大丈夫。回復魔法は白魔術師の最も得意な分野だ。首が落ちでもしない限り、回復はしてやるよ」(この人、さっきから機嫌が良いのってもしかして......)
ロキに犬の首輪を与える時。ロキがナイフを前に焦っていた時。 ユーリは普段よりも何やら楽しそうに笑っていた。(俺、実はめちゃくちゃ嫌われてる......?)
もちろん好かれてはいないだろう。 そこまで自意識過剰になるつもりもない。 なにせ依頼を果たせないまま依頼金だけ使い込んだ、最低な呪術師だ。
(でも、それなら――)
小さく喉を鳴らし、ロキはユーリの背に向かってもう一度口を開く。「なぜ、俺にここまでしてくれるんですか?」 少しだけ声が震えそうになった。 ユーリは静かに立ち止まり、ロキを振り返る。
陽の光を受けて輝く銀の髪、澄んだ瞳。 それに一瞬見入った自分に、ロキは気付いていた。「ここまで......?」 ユーリはいつもよりあどけなさを残す表情で僅かに首を傾けてから、ロキの言葉を復唱し、口角を持ち上げる。 一瞬のそれは、非常に綺麗な笑みの形をしていた。 直後、いつもの嘲笑に上書きされるまでは。「お前、何か勘違いしてるのかもしれないけど。全部ツケだから」「え?」 ロキの口から間の抜けた声が漏れる。「当たり前だろ。お前が使い込んだ依頼金の分。S級の僕に魔法を使わせて働かせた分。全部返し終わるまで、お前はずっと荷物持ちだよ」「え!?」「善意だとでも思った?」 蔑むように笑い、返事も待たずにさっさと背を向けて歩いて行ってしまうユーリの背に、ロキの焦燥に満ちた声が響いた。 けれどその後も、ロキがその身に傷を負うことは一度もなかった。
第四話 白の魔法
「お前、呪術師じゃないか!」 傍の屋台から尖った声が響き、ロキが振り向いた時にはもう投げ付けられた鍋の中身が迫っていた。 時間が止まったような感覚の中でも分かるほど、濃い湯気を立たせた透明な湯だった。 あまりに咄嗟のことに避けることも出来ず、ロキはただ身を強張らせて痛みに備える。 だが次の瞬間、ロキの身体を薄い光の膜が包んだ。 人の肌を焼く温度の湯も、硬い鍋もその膜に阻まれ、壁にでも当たったかのような派手な音を立てながら地面に落ちた。 周囲の人々の視線が一斉にロキへ、そしてその傍らに立つユーリへと向く。「あのさぁ」 苛立ちのままにユーリはロキを見据えていた。
魔法の詠唱も、魔法陣の展開さえ省略して発動した保護魔法。 当然、そんな芸当を溜息交じりにやってのける者は限られている。 ましてや、それを行った者が白一色を纏う青年となれば、察しを付ける者も多い。
周囲から息を飲む音や感嘆の声が聞こえ、鍋を投げ付けた店主の男もまた顔を青くしてユーリの元へと駆け寄った。「S級冒険者のユーリ・アルセリア......! な、なぜ呪術師を――」「これ、僕が今連れてるんだよ。一々絡まないでほしいな」「そんな! 申し訳ありません、ご無礼を......!」「本当に無礼だよ。時間を無駄にした」 苛立つユーリに対し、繰り返し店主は頭を下げている。 同じようなことがあっても、毎度ユーリにのみ謝罪は捧げられ、ロキを気遣う者など一人もいなかった。 けれどロキはそんなことにも気付かず、一人夢見心地で自分の手のひらを見下ろしていた。(俺、この街に入ってから一度も怪我をしてない......)
何度も腕を掴まれ、フードを剥がされ、怒鳴り付けられはした。 だが、自分の身に未だ怪我一つないことがいっそ不思議だった。 子供の頃でさえ、視線が合ったというだけで殴られるのも蹴られるのも日常だった。 大人になった今など、こうして沸騰した湯を掛けても許されるような存在なのだ。 呪術師というものはそういうものなのだと、理解しているつもりだった。 だが今はどうだ。 街の大通りを歩いてなお、一滴の血も流していない。 その度にユーリの魔法がロキを守るからだ。(そりゃ、もちろん本意ではないんだろうが......)
その度に面倒が増えたと言わんばかりにロキを睨む。 そんなことで足を止めるなと、溜息も吐くし舌打ちもする。 時間の無駄だとなぜかロキが叱られる。 それでも、一度も捨て置くとは言わなかった。「これ、いいね」 ふと聞こえたユーリの声に、ロキは顔を上げる。 気付けば店主の謝罪も終わっていたようで、その男は鍋を片手に自分の屋台の内に戻って調理を再開していた。
一方で珍しく機嫌の良さそうな声を零したユーリが見ているのは、隣の露店に広げられた品物だった。 雑貨屋のような品揃えで様々な物が置いてある中、手に取ったのはよりにもよって大型犬用の革の首輪だ。 留め具の部分には宝石の輝きを真似たような石を嵌め込んだチャームが付いている。「あの、よろしければそちらはお持ちください......」「そう?」 露店の女店主がおずおずと申し出て、ユーリは遠慮なくそれを受け取った。 当然、善意ではないはずだ。 何かがあった時のためにS級の冒険者には恩を売っておきたい。 他店の主のせいでユーリの不興を買いたくはない。そんなところだろう。 だがそんな打算と下心を気にも留めない風にユーリはロキへと向き直り、犬用の首輪をロキの首に巻いた。 ひやりとした温度が肌に触れる。「な、何?」「何じゃないだろ。毎回、僕に面倒を掛けるなよ」 即座に咎めるような声色で返事が戻る。 革の首輪はしっかりとした重みがあり、それはずしりと首元で存在を主張した。(うわ、いよいよ本当に犬扱いだ......)
そんな心の内での呟きが伝わるはずもない。 離れ際、ユーリは首輪に付いたチャームを指で弾いた。 玩具のように安価な輝きを放つ石は、淡い光を纏って一度煌めく。「よし」 幾分機嫌の良さそうな声を残してユーリはロキから身体を離す。 そうして大きく二歩分の距離を開けた後、先程鍋を投げた店主の男へと向き直った。「ねえ、もう一回何かを投げてコイツを攻撃してみてよ」「え?」「え?」 男とロキの声が被る。 だがユーリはすぐに焦れたように眉根を寄せる。「早く。熱湯がないならそこのナイフでもなんでもいいよ」 ユーリは顎で屋台の天板にある細身のフルーツナイフを指し示す。 一人で店主とユーリとを交互に見比べながら動揺するロキの向かいで、店主はユーリの命令に従うべくおずおずとナイフを手に取った。「じゃ、じゃあ......」「え? え? 嘘! 待っ――」 状況を把握しきれずに手を振って拒むしか出来ないロキに向かって、若干躊躇しながらもしっかり狙いを定めたナイフが放たれる。 だが、その刃は身を庇ったロキの手に当たるよりも早く、先程と同じ光の壁に阻まれて地面に落ちた。 ロキの首元では、首輪に付いたチャームが淡い光を放って僅かに揺れている。「うん。しっかり動いてるね」 満足気に双眸を細め、ユーリは一人背を向けて歩き出す。 呆然とその場に取り残されたロキは同じような表情をしている店主と目を合わせてから、逃げ出すようにユーリの背を追った。「い、今のは......?」 他の通行人に肩をぶつけないように、ユーリの半歩斜め後ろから問い掛ける。 ユーリはロキを振り返りもしないまま答えた。「見れば分かるだろ。自動展開の保護魔法だよ」「それは分かりますけど! こんなものに掛けるなんて......!」 攻撃に反応し、自動で防御障壁を張る保護魔法。 この世に存在しないわけではない。 だがそれには非常に高度な技術が必要とされ、国の重要施設や要人が身に着けるものに掛けられるような貴重な魔法だ。 それがそこらの露店で購入、いや無料で譲り受けた犬用の首輪に授けられたなど一体誰が信じるだろうか。「お前、僕を誰だと思ってるの?」「S級の冒険者で、神授武器持ちの白魔術師......」「そうだよ」 ユーリは視線のみでロキを振り返り、小さく鼻で笑った。「その辺の白魔術師にとっては命を削って刻むような魔法でも、僕には息をするくらい簡単なことなんだよ」「うわぁ......」 思わず引くほど、あまりに尊大で傲慢な物言いだった。 だが、それを否定出来る者など存在しない。 何一つ偽りのない事実だからだ。「ところで、もしさっきの魔法が上手く掛かってなかったら?」「あのナイフがお前に刺さるだけだろ」「............」 一切迷いのない答えにロキは口を噤む。「大丈夫。回復魔法は白魔術師の最も得意な分野だ。首が落ちでもしない限り、回復はしてやるよ」(この人、さっきから機嫌が良いのってもしかして......)
ロキに犬の首輪を与える時。ロキがナイフを前に焦っていた時。 ユーリは普段よりも何やら楽しそうに笑っていた。(俺、実はめちゃくちゃ嫌われてる......?)
もちろん好かれてはいないだろう。 そこまで自意識過剰になるつもりもない。 なにせ依頼を果たせないまま依頼金だけ使い込んだ、最低な呪術師だ。
(でも、それなら――)
小さく喉を鳴らし、ロキはユーリの背に向かってもう一度口を開く。「なぜ、俺にここまでしてくれるんですか?」 少しだけ声が震えそうになった。 ユーリは静かに立ち止まり、ロキを振り返る。
陽の光を受けて輝く銀の髪、澄んだ瞳。 それに一瞬見入った自分に、ロキは気付いていた。「ここまで......?」 ユーリはいつもよりあどけなさを残す表情で僅かに首を傾けてから、ロキの言葉を復唱し、口角を持ち上げる。 一瞬のそれは、非常に綺麗な笑みの形をしていた。 直後、いつもの嘲笑に上書きされるまでは。「お前、何か勘違いしてるのかもしれないけど。全部ツケだから」「え?」 ロキの口から間の抜けた声が漏れる。「当たり前だろ。お前が使い込んだ依頼金の分。S級の僕に魔法を使わせて働かせた分。全部返し終わるまで、お前はずっと荷物持ちだよ」「え!?」「善意だとでも思った?」 蔑むように笑い、返事も待たずにさっさと背を向けて歩いて行ってしまうユーリの背に、ロキの焦燥に満ちた声が響いた。 けれどその後も、ロキがその身に傷を負うことは一度もなかった。