穢れ
東京の大学に進んでから、私は神道の学びについていくのに精一杯だった。
祝詞、祭式、神々の名、穢れを祓う作法。
覚えることは山ほどあった。
けれど、苦しいと思ったことはない。
あの鬼を助けたい。
なんとかして、鬼の身体に溜まった穢れを消してあげたい。
その思いだけで、私は勉学に明け暮れた。
やがて卒業が近づき、奉職先も決まった頃。
田舎の祖母が亡くなったと連絡が来た。
両親と私は、数年ぶりに祖母の家がある田舎へ向かった。
葬儀の後、私は親戚の集まりから抜け出し、あの神社へ向かった。
「鬼」
階段を上がり、鳥居のそばへ行く。
花を咲かせない桜の下を見回した。
そこに、鬼の姿はなかった。
「鬼、どこにいる」
不安になって、鳥居の外を探し回る。
桜の幹のうしろ、近くの林、少し離れた藪の中。
でも、どこにも、白い影はなかった。
「......約束、した......だろ」
私は呆然と立ちつくした。
あの鬼の優しい眼差しが、笑顔が、声が、約束が、すべて消えてなくなった気がして、私は泣きたくなった。
「嫌だ。どこに行っちゃったんだよ!! ここにいるって、約束しただろ......!!」
鬼はもういないかもしれない。
影になって消えてしまったのかもしれない。
私の中で、鬼を失った絶望感が広がった。
その時。
社の方から鈴の音がした。
ちりん。
拝殿の鈴が揺れていた。
私はその音に吸い寄せられるように、拝殿へ向かった。
ちりん。
「姫神さま」
声が震えた。
「あの鬼は......どこにいるのですか?」
もう一度、鈴が鳴った。
ちりん。
そして、その音を最後に、境内からすべての音が消えた。
そして、私の中に直接、言葉が落ちてきた。
――連れておいで。
それは、背筋が凍るほど、ぞっとする美しい『声』だった。
私は恐ろしさに震えたまま、鳥居の方を振り返る。
「鬼を......連れて......?」
花を咲かせない桜の木の側へ戻った。
そこに鬼の姿は見えない。
でも。
「鬼。いるのなら、こたえて」
私の祈るような震える声に、桜の影がわずかに揺れた。
幹の根元に濃く落ちた影の中から、影だけの手が伸びてくる。
それは枝の影とも、幹の影ともつかないほど黒く、けれど見覚えのある形で小指を立てていた。
幼い日に、約束を交わしたあの手だった。
鬼はいた。
約束した通り、この桜の木の下に。
「一緒に、行こう」
私は手を伸ばし、鬼の手の影に、自分の手を重ねた。
影は、私の手を包むように広がった。
そして、握った。
確かに、握られている感触があった。
初めて触れる鬼の手は、とても、とても冷たかった。
――すまない......触れてしまった......。
鬼は私に取り憑き、内側へと入ってきた。
胸の奥に落ちた鬼の声に、私は微笑んだ。
「昔、触れると悪いことがあるって言ってたのは、取り憑くことだったの?」
鬼がうなずく気配がした。
「そんなの。俺は嬉しいくらいだよ」
私の言葉に、鬼の心が少しほどけた気がする。
「一緒に、姫神さまのところへ行こう」
私は鬼とともに、鳥居をくぐった。
その瞬間、私の中の鬼が小さく震えた。
拝殿の前に立つと、神社の空気がぴたりと止まった。
次の瞬間、拝殿の奥から強い風が吹いた。
それはまるで、なにもかも持っていくかのように、私と、私の中の鬼を突き抜けた。
風はあたり一面へ広がり、境内の木々を大きく揺らす。
ざぁ、ざぁ、と風の音がかけぬける。
そして鬼が、ほどけるように私の中から外へ姿を現した。
拝殿の影に沈んでいた長い髪が、風になびく。
肌も、角も、穢れに曇っていた輪郭さえも、風に洗われるように澄んでいく。
黒い影が剥がれ落ちるたび、鬼はあの日見た姿へ戻っていった。
白い、それは真っ白な「鬼」へ。
「鬼」
「ヒトよ」
私たちは手を握り合って笑い合い、拝殿に深く頭を下げた。
ふと、甘い香りがした。
振り返ると、鳥居のそばの桜が、一本だけ満開になっていた。
春が来ても、ずっと花をつけなかった木だ。
けれど今、その枝いっぱいに、薄紅の花があふれている。
それは、姫神の美しさを映したように、どこまでも優しく、透明で、強く、儚かった。
まるで、これまでの鬼の献身を労うようで、私は胸がつまった。
鬼は、何も言わなかった。
ただ、私の手を握る力だけが、わずかに強くなった。
─ 続 ─