約束
それから私は、折にふれて神社へ行くようになった。
鬼のことは誰にも言わなかった。
家族にも、友だちにも、たまに顔を合わせる宮司にも。
あの日の約束を私はずっと守り続けていた。
鬼に会うたび、私は日常であったことや、学校であったことを話した。
先生に褒められたこと。
友だちと喧嘩したこと。
給食で嫌いなものが出たこと。
帰り道で拾ったきれいな石のこと。
白い鬼は、桜の木の側に座って、私の話に相槌を打ってくれる。
私は黒いランドセルを下ろし、その上に腰をかける。
そうして門限近くになるまで、ふたりで話をした。
「童は、よく話すな」
鬼が言うと、私は少しむくれた。
「だって、鬼は自分のこと、なんにも話してくれないんだもん」
「我が話すことなど、面白くもあるまい」
「そんなことないよ。僕は聞きたい」
そう言うと、鬼は少し困ったように笑った。
数年後、私はランドセルを背負わなくなった。
中学生になった私は、制服のまま神社へ寄るようになった。
鬼は、初めて会った日と何ひとつ変わらない姿で、桜の影の中にいた。
変わったのは、私だけだった。
「ねぇ、今日は鬼の話を聞かせてよ」
「童は、我のことを聞きたがるな」
「だって、全然話してくれないじゃん」
「鬼の話など......」
「聞きたい」
私は頬を膨らませてねだった。
鬼は少し考えた後、静かに語りだした。
「まだ、我が幼き日のことだ。この社に祀られている姫神が、高天原よりご降臨なされた」
「高天原って、なに?」
「天上の神々がおわすところだ」
「天国?」
「......そのようなものだ」
「へぇ? 鬼はそこにいたの?」
「いや。我ら鬼は、生まれ落ちた時よりこの地上に在る」
「人間と一緒だね」
「ふふ、そうだな」
鬼は、社の方を見た。
「その姫神さま、綺麗だった?」
私の問いに、鬼の赤い瞳が細められた。
「美しい、御方だった」
風が吹き、桜の影が白い鬼の足元で揺れた。
「天上の美しさとは、ああいうものを言うのだろう。我はひと目で、あの御方をお守りしたいと思った」
鬼の言葉に、私の胸がちくりと痛んだ。
「ひと目で好きになったの?」
「いや、神に惚れるなど、畏れ多い。ただ、お守りしたい。それだけだ」
「鬼は、鳥居の中に入れないのに?」
「ああ。それでも」
鬼は、鳥居の向こうにある社を見つめていた。
その横顔は、私と話している時とは違っていた。
遠く、まぶしいものを見るような目だった。
また、胸が痛む。
けれど、まだ十三の子どもだった私は、その痛みに名前をつけることができなかった。
十五の頃、父が転勤で東京へ行くことになった。
本来なら、私も一緒に連れて行かれるはずだった。けれど私は、頑として首を縦に振らなかった。
「なぜここに残りたいんだ?」
父にそう問われても、うまく答えることはできなかった。
祖母がいるから。
高校は地元に通いたいから。
この神社の春祭りを手伝いたいから。
いくつも理由を並べた。
けれど本当は、桜の木の下にいる白い鬼から離れたくなかっただけだった。
結局、私は祖母の家に残り、地元の高校へ進学することになった。
「親と離れるのは寂しかろう」
「俺、もう子どもじゃないし」
「我から見れば、まだまだ童よ」
その言葉に、私は唇を噛んだ。
鬼は、出会った頃とまったく変わらない姿のまま、桜の木の側に在った。
美しい髪も、白い肌も、赤い瞳も、あの日と少しも変わらない。
けれど私は違う。
背は伸び、声は低くなり、手足も大きくなり、大人の男に近づいていた。
私だけが変わっていく。
鬼にとって、私はいったい何なのだろう。
あの日、影で指切りをした子どものままなのか。
それとも、少しは違うものとして見えているのか。
聞くことはできなかった。
聞いてしまえば、きっと私は、知りたくない答えを知ることになる。
だから私は、わざとぶっきらぼうに言った。
「......俺がいなくなったら、鬼は寂しい?」
鬼は少しだけ目を細めた。
「童が来なくなれば、静かになるな」
「それ、寂しいってこと?」
「さあな」
鬼は社の方へ目を向けた。
「鬼が寂しいなどと、誰が思う」
「俺は......」
――鬼がいなくなったら寂しい。
私はその言葉を飲み込んだ。
自分が何を伝えたいのか分からず、私は視線を落とした。
その時、鬼の足に小さな黒いしみがあることに気づいた。
白い足首のあたりに、墨を一滴落としたような黒がにじんでいる。
はじめは桜の影かと思った。
けれど、それは影ではない。白い肌の内側から、じわりと浮き上がっているように見えた。
「それ......」
私が指さすと、鬼は自分の足元を見た。
「ああ。穢れだ」
「穢れ?」
「人が神へ投げるものだ。願いとともに、恨みも、妬みも流れてくる。それを我が姫神の代わりに受けている」
黒いしみは、桜の影に溶けるように広がっていた。
「痛くないの?」
鬼は、少し困ったように笑った。
「痛いとも言えるし、痛くないとも言える」
「どっち」
「長く受けていれば、自分の一部のようになる」
その答えが、私はひどく嫌だった。
「......なんで」
「あの姫神に穢れが及ばぬよう、我がここで受けている」
「なんで」
私の追求に、鬼は穏やかに微笑んだ。
「あの御方には、美しいものだけでよい」
「だからって......!!」
「よいのだ」
鬼は、足にある黒いしみを見つめた。
「我がそう望んだ」
その言葉が、私はたまらなく嫌だった。
誰かに命じられたのなら、怒ることができた。
姫神がそうさせているのなら、責めることもできた。
けれど鬼は、自分で望んでここにいる。
姫神を守るために。
自分が黒く沈んでいくことを、当然のように受け入れている。
「......俺は、嫌だ」
ぽつりとこぼれた声に、鬼が顔を上げた。
「鬼が汚れていくのは、嫌だ」
鬼は少し驚いたように私を見た。
それから、幼い子をなだめるように、静かに目を細めた。
「童は優しいな」
「子ども扱いするなよ」
そう言い返したのに、声は情けないほど震えていた。
鬼を救いたい。
鬼には白く、綺麗なままでいてほしい。
ぎゅっと拳を握った時、社の方から宮司が歩いてきた。
★ * * *
「久しぶりだね」
「宮司さん、お久しぶりです。今日はこっちにいらっしゃったんですか」
中年の宮司は私を見て、目を細めた。
「大きくなったね」
「ありがとうございます」
私は、宮司に鬼が見えていないのを知りながらも、隠すように桜の木の前に立った。
「もう高校生?」
「はい」
「あっという間だね。ついこの前までこんなに小さかったのに」
「やだなぁ。俺、もう子供じゃないですよ」
「将来は考えてるの?」
「いえ、まだ」
「そうか。なら、大切な人を守れる大人になりなさい」
「大切な......」
宮司は私の肩を軽くたたいて、社の方へと歩いていく。
私はその背中に言った。
「あの、神様って、穢れを浄化してくれるものなのですか?」
宮司は立ち止まり、私に向き直った。
「神は穢れを嫌う。だから人は手水で身を清め、参道を通り、鳥居をくぐって神前へ向かうんだ。穢れを神域へ持ち込まぬためにね」
「穢れを持ち込むと、どうなるんですか」
「神を穢すことは、祟りを招くとも言われているよ」
ならば、鳥居の側で穢れを引き受けている鬼は、誰が守るのだろう。
「俺......守りたいものがあります。でも、どうすればいいか、わかりません」
宮司は私に微笑んだ。
「守りたいものの一番近くにいてあげなさい」
「一番、近く」
「そして色々と知りなさい」
その言葉に、私は自分の進むべき道を見つけた気がした。
「あの、宮司になるには、どうすればいいのですか?」
宮司は少し驚いたように目を見開き、それから穏やかに笑った。
「神職を目指すのかい」
「まだ、分かりません。でも、知りたいんです」
「なら、まずは学ぶことだ。高校を出たら、神職の道を学べる大学へ行くといい」
「大学......」
「簡単な道ではないよ」
「それでも、守りたい」
私は、鳥居の側の桜を見た。
その影に立つ白い鬼は、何も言わず、ただこちらを見ていた。
それから私は、学校から早く帰れた日は、必ず神社へ行くようになった。
鬼は私を見るたび、優しく迎えてくれた。
しかし、その姿は年々、桜の木の影に溶けていくように暗くなっていった。
白かった足先や影には黒いしみが広がり、やがてそれは這うように、ふくらはぎへと伸びていく。
桜の影と、穢れの黒とが、少しずつ見分けられなくなっていった。
私はそれを見るたび、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
高校三年の時、宮司から、神職の道を学べる大学への推薦状を出してもらえることになった。
「四月から、東京の大学に行くことになったよ」
桜の木の下、もう身体の半分が木の影と溶け合ってしまった、鬼に告げた。
鬼は静かに目を細めた。
「そうか。童も遠くへ行くのだな」
「俺はもう子供じゃないよ」
私がそう言うと、鬼はわずかにうつむいた。
「......そうであったな」
「俺、宮司になって、必ずここに戻って来るから、どうかそれまで元気でいて」
「............」
「約束、して」
私は祈るように鬼に懇願した。
そんな私を、鬼はひどく切ない目で見た。
「ここで、待っていよう」
それが、鬼にできる精一杯の約束なのだとわかった。
─ 続 ─