出会い
白い、それは真っ白な「鬼」だった。
今年も鳥居の側にある桜の木を見上げる。
この木が満開になったのは、あの年の一度きりだった。
春になれば、境内の桜は薄紅に染まる。
参道にも、拝殿の屋根にも、風に散った花びらがふり積もる。
けれど、この木だけは花をつけない。
「神主さま、この木は咲かないの?」
祭りの手伝いに来ていた子どもが不思議そうに見上げた。
「ええ」
「枯れてるの?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで?」
私は子どもと一緒に木を見上げる。
「この木は、神さまに愛されているから、ですよ」
子どもは、私の言葉の意味がわからないらしい。それ以上は聞かず「ふうん」とあいまいにうなずいた。
花をつけない枝から、幹へと視線を下ろしていく。
そこに、白い影があった。
幼い日に見たままの、真っ白な「鬼」だった。
まるで絵本で見た神々しい男神のような姿。
足もとまである長い艷やかな髪も、雪のような肌も、額から伸びる骨のような二本の角も全てが純白で。その中で、宝石のような赤い瞳が異彩を放っている。
それは、あの日と少しも変わっていない。
ただ、私だけが老いた。
鬼は桜の幹に背を預け、穏やかに微笑みながら、こちらを見ていた。
「神主さま?」
隣の子どもが、不思議そうに私を見上げる。
この子には、見えていないのだろう。
いや、これまでも、彼が私以外の人間に見えたことはなかった。
かつて幼い日の私が見たもの。
今もこの木の下に佇んでいる、白い「鬼」。
* * *
私がまだ五歳の頃だった。
村の春祭りの手伝いで、父に連れられてこの神社へ来ていた。
大人たちは、春に毎年行われる祭りの準備を忙しそうにしている。
私は拝殿を見上げながら、父に疑問を投げかけた。
「父さん、神社にはなんの神さまがいるの?」
私の問いに、まだ若かった父は、少し考えてから言った。
「父さんも詳しくは知らんが、この神社では、春を告げる姫神さまを祀っているそうだ」
「ひめかみさま?」
「ああ。きれいな女の神さまらしい」
「へえ、僕、見てみたいな」
私の言葉に、父は少しだけ眉を寄せた。
「神様を見てみたいなんて、言うもんじゃねぇぞ」
「なんで?」
「日本の神様は、ありがたいだけのもんじゃない。畏れるものでもあるんだ」
「ふぅん......」
幼い私には、その意味がよくわからなかった。
社の裏手からは、祭りの笛や太鼓を練習する音が聞こえていた。
私はその音を背中に聞きながら、境内の表へ歩いていった。
表側にはたくさんの桜の木が植わっていた。
どの枝にも開花を待つ蕾がふくらんでいる。
幼い私はそれを見上げ、満開になった時の景色を想像した。参道も、拝殿の屋根も、春の花びらで薄紅に染まるのだろう。
そう思うと、ひとりでに笑みがこぼれた。
けれど、鳥居のそばに立つ一本だけは違っていた。
他の桜が今にも花開きそうにつぼみを膨らませている中で、その木だけは、固く口を閉ざすように沈黙していた。
その幹の影の中に、私は違和感を覚えた。
「だれか、いるの?」
不思議に思って桜へ近づくと、低く柔らかい声が私を制した。
「童よ、近づくな」
私はその言葉に、足を止めた。
桜の幹の向こう側に、白い影がある。
桜が落とす黒い影の中に、白い影が浮かんでいる。それはとても不思議な光景だった。
「だあれ?」
影が、かすかにゆれた。
そして、それはゆっくりと姿を現した。
絹糸のような髪が、足首まで流れている。月の光を透かしたような、なめらかな肌。額の両側から伸びた、骨のような角。全てが白い中で、ふたつの瞳だけが赤くきらめいていた。
人ではない。
けれど、化け物とも思えなかった。
「我は、鬼だ」
「おに......?」
幼い私が知っている鬼といえば、物語の中の赤鬼や青鬼だけだった。
白い鬼なんて、見たことも聞いたこともない。
「おには、豆まきのときに来るんだよ」
私がそう言うと、鬼は優しく目を細めた。
「ふふ、そうだな」
物語の鬼は、人に災いをもたらす恐ろしいものだと言われていた。
けれど、目の前の鬼は、穏やかで優しいまなざしで私を見ていた。
「ここで、なにをしてるの?」
「我は、ここの姫神を守っておる」
「神さまを守ってるの?」
「ああ」
白い鬼は、社の方を見た。
その横顔はどこか遠いものを見つめているようだった。
「童。ひとつ、頼みがある」
「なあに?」
「我を見たことを、誰にも言わないでくれぬか」
「言っちゃだめなの?」
「ああ。鬼は恐ろしいものだからな」
風が、鬼の白い髪を揺らした。
鬼の顔は美しく、私には少しも恐ろしいものには見えなかった。
「言わなかったら、また会える?」
私がそう聞くと、鬼は少しだけ目を見開いて、それから穏やかに笑った。
「約束を守るなら、また会おう」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、ゆびきりげんまんして」
約束を取り付けようと手を差し出すと、鬼はわずかに表情を曇らせた。
「童よ。人間と鬼は、触れ合ってはならぬものなのだ」
「なんで?」
「悪いことがある」
「ふうん......」
指切りを断られ、私はしょんぼりとうつむいた。
けれど足元に落ちた影を見て、ふと思いつく。
「かげなら、いいでしょ?」
「影?」
「うん。かげならさわらないから。ね?」
鬼は少しだけ困ったように笑った。
「影は形のないものだ。空約束になる」
「でも、ゆびきりげんまんだもん」
「......そうだな」
鬼はそっと小指を立てた手を差し出した。
日の光が落とす鬼の影は、日向にあっても白く見えた。
私は鬼の手の影に、自分の手の影を重ねる。
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら、はーりせーんぼーんのーます、ゆーびきった」
白い影と、黒い影が離れた。
鬼が目を細めて微笑んだ。
「おには、なんてなまえなの?」
「鬼は、鬼だ。名はもたぬ」
「僕はねぇ......」
「童。名乗ってはならぬ」
「なんで?」
「我ら人外に名を教えると、よくないことが起きるからな」
よくないことと聞いて、私は思わず一歩下がった。
それを見て鬼は苦笑する。
「よくないことって、なに?」
私の問いに、鬼は答えなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
「おーい、帰るぞ」
社の裏手から、父が私を呼ぶ声がした。
「また来るね」
「ああ。また」
鬼は片手を上げて別れを告げた。
私は手を振りながら、父のもとへ駆けていった。
「一人で何してたんだ?」
「ひみつ」
父には鬼が見えていなかったらしい。
私は幼心に、秘密を持てたことに、小さな喜びを感じていた。
─ 続 ─