第四部「全ては、藪の中に。」
数年後──
「命を賭けて金を稼ぐ」という狂乱が始まってから、数年が経過した。
社会はその狂気を排除するのではなく、完全に「日常のシステム」として内包することを選んだ。
かつては犯罪、あるいは異常行動とされた屋上占拠は、今や一つの「産業」となっていた。
若者たちの間では、「寄付演出」を専門的に学ぶ認可スクールが人気を集めている。
スクールの案内には、次のような講義内容が並んでいた。
『共感誘導演説論』
『夕景ライティング実習』
『無傷緊迫演技実習』
『ステルスハーネスの装着技術』
それらは、国家資格にも匹敵する高度な専門技能として認められていた。
「あの学校のパンフレット、見たか?」
「卒業生の平均年収が、大企業のサラリーマンの数倍だってよ」
「そりゃそうだろ」
「今や屋上のコンサルタントは、人を確実に救うための命のデザイナーなんだから」
若者たちがカフェでそんな会話を交わしていた。
そして、高級ホテルのラウンジでは、テレビ局のインタビューに応じる前田の姿があった。
「我々の仕事は、嘘をつくことではありません」
仕立ての良いスーツの袖口をわずかに直しながら、穏やかに、しかし迷いのない口調で語った。
「クライアントの命と、切実なSOSを、大衆に最も届きやすい形へ『翻訳』してあげることです。企業もテレビ局も、もう手段の是非など気にしていません。人が救われ、数字が動けば、それが正解になる。誰も傷つけない。誰も死なせない。ただ、命にふさわしい値段をつけて、きれいにパッケージングして流通させる。これが僕にできる最善の社会貢献なんですよ」
彼はふっと柔らかく微笑み、手元のコーヒーカップを口へ運んだ。
実際、前田の演出によって、千人を超える困窮者が大金を得て、生還していた。
その事実だけは、誰にも否定できなかった。
前田は立ち上がり、秘書からタブレットを受け取った。
「次のクライアントがお待ちです」
前田は窓の外へ目を向けた。
「今日はいい天気だ。最高の『悲劇』が撮れそうだ」
そう呟くと、前田はゆっくりと部屋を出た。
翌朝。
遮るもののない、抜けるように青い秋の空へと、再び太陽が昇った。
日本の主要都市の屋上には、今日もおびただしい数の人影があった。
彼らは全員、最新のステルスワイヤーを腰に巻き、完璧に計算されたメイクを施し、AIが生成した「泣けるスピーチ」の原稿を、スマートフォンのプロンプター画面で確認している。
地上では、数年前のように混乱してパニックを起こす歩行者は、もう誰もいない。
人々は通勤の足を止め、コンビニで買ったコーヒーを片手に、慣れた手つきでスマートフォンのカメラをビルの屋上へと向ける。
「あの三号ビルの子、今日デビューの新人コンサルがついてる子だよね。結構『映え』てんじゃん」
「私は五号ビルの元ボクサーのストーリーの方が好きかな......さっき三千円投げといた」
それは、朝のニュースの占いコーナーを見るかのような、あまりにも平和で、あまりにも血の通わない日常の風景だった。
誰も死なない。
誰も手を汚さない。
どこまでも澄み切った青空の下で、巨大な「命のオークションハウス」と化した都市のビル群が、今日も美しく、冷ややかに、太陽の光を照り返していた。
その日の昼過ぎ
一般社団法人『日本ライフ・ディレクション協会(JLD)』の設立からさらに年月が経ち、代表理事である前田秀樹は、自身が立ち上げたJLD附属『演出専門スクール』の壇上に立っていた。
「私が作ったのは、演出という道具だ。世界が作ったのは、演出という兵器だ」
目の前に並ぶのは、未来のディレクター、プランナーを夢見る若者たちの熱のこもった瞳だ。
「諸君らは、人の心を動かす技術を学んだ」
前田が穏やかに語りかけると、卒業生たちは誇らしげに拍手をした。
「だが、忘れるな」
前田は少し間を置き、静かに彼らを見据えた。
「技術に善悪はない」
さらに言葉を続ける。
「善にも悪にもするのは、諸君らだ」
卒業生たちはその言葉を深く刻み込むように、真剣な表情で頷いた。
しかし、前田の懸念は十年の歳月をかけて、最も醜悪な形で現実のものとなる。
卒業生たちは、あらゆる業界へ散っていった。
報道局、広告代理店、政治家の選挙参謀、YouTube制作会社、AI映像企業、映画会社、そして国際支援団体――。
清水良正という男の純粋な叫びから始まった「演出」は、もはや特異な技術ではなく、社会の「常識」になっていた。
かつては「演出している」こと自体が珍しかった。
しかし今や、「演出しない」ことの方が珍しい。
ニュース、SNS、企業のCM、政治演説、寄付配信。すべてが、まず「どう見せるか」から始まるのが当たり前になっていた。
ある日の午後、JLDのオフィス。
若いプロデューサーが、講師室にいる前田に畏まりながら尋ねた。
「前田先生、やはり演出というのは、突き詰めれば人を騙す技術ですよね?」
前田はマグカップを置き、少し笑った。
「包丁は人を殺す道具か?」
「......いえ。料理にも使います」
「そうだ。演出も同じだ」
前田は椅子に深く身体を預け、どこか遠くを見るような目で続けた。
「ノーベルは戦争のためにダイナマイトを作ったわけじゃない。人は橋も造れば、爆薬にもした。」
そして、静かに締めた。
「道具は善にも悪にもならない。善にも悪にもなるのは、人間だ」
現代は「本物を疑う時代」だった。
ディープフェイクが氾濫し、AIが自動生成した戦場報道がタイムラインを飛び交う。
人々はあらゆる映像を「どうせフェイクだろう」と疑いながら、同時に自分の信じたいものだけを選択して消費していた。
テレビでは、海外の紛争地域における凄惨な空爆の様子と、瓦礫の中で泣き叫ぶ一人の少女の映像が流れていた。
画面の隅には、プラットフォームのAIが弾き出した赤色の【最重要(Critical)】バッジが虚しく点滅している。
前田はその映像を見つめながら、静かにリモコンを置いた。
「......切り返しが早すぎる」
背後に控えていた部下が、怪訝そうに聞き返した。
「何がですか?」
「この涙は本物だ」
前田の目は、テレビ画面を射抜くように冷たかった。
「だが、この映像は本物じゃない」
「フェイク、ですか? 少女が合成されていると?」
前田は首を振った。
「違う。演出だ」
前田は画面に映る違和感を、外科医のように正確に、次々と見抜いていった。
「少女の頬についている泥は、後から意図的に付けられたものだ。カメラは三台。少女が泣き出す前から、すでに別のカメラが回っている。夕陽の逆光を待って、同じアングルで撮り直しているな。そして、背後の銃声と風の音だけ、後からノイズを除去してきれいに重ねている」
部下は言葉を失った。
本物の被災地で、本物の涙を流している少女を使いながら、映像の全てが「造られている」。
「......私の技法じゃない」
前田は吐き捨てるように言った。
「私の真似をしているだけだ」
前田は、人を騙すために演出を考えたのではなかった。
あの清水良正の絶望と愛を、「伝えるため」に、中身のある本物を届けるための技術として体系化したのだ。
しかし、彼の撒いた種から芽吹いた模倣者たちは、ただ「数字を取るため」「アルゴリズムの評価(バッジ)をハックするため」だけに演出を弄んでいる。
「演出を教えた覚えはない。私は、伝わる技術を考えたんだ」
初めて前田の胸を去来したのは、言葉にできない乾いた後悔だった。
「人はフェイクに騙されるんじゃない。信じたい物語に騙されるんだ」
彼はテレビの画面を消した。
画面が消えても、窓の外の都市には無数のスクリーンが輝いている。 誰も嘘は言っていない。だが、誰も真実を見せていない。
「演出」という免罪符のもとで、世界のすべてが心地よくパッケージングされ、流通していく。
前田は暗いガラス窓に映る自分の顔を見つめ、静かに、重く呟いた。
「真実を伝える時代は終わった」
口元に、いつもの歪んだ笑みが浮かび、そして消えた。
「真実を演出する時代が始まった」
壁面モニターの【最重要】という赤い文字だけが、今日も都市を照らしていた。
それが真実なのか、演出なのか。その境界は、もう誰の目にも映らなくなっていた。
第四部「全ては、藪の中に。」
完
第五部へつづく