第五部「演出の世紀」
その日の「城下町市」は、各国の言語が入り乱れる奇妙な熱気に包まれていた。
かつて清水良正が愛娘のために屋上から叫び、前田秀樹がその叫びを社会のシステムへと昇華させた地は、いまや世界規模のシリコンバレーへと変貌を遂げていた。
世界中のIT企業がこぞってこの地に巨大な支社を置き、街の中心にはあの天才プログラマーの最期を看取った病院が、巡礼地のようにそびえ立っている。
清水を「命のオークションの開拓者」と崇める世界中の配信者や情報屋にとって、この街は剥き出しの聖地だった。
市も県も情報産業への投資を惜しまず、WCTC(ワールド・コア・テクノロジー・サイバー/World Core Technology Cyber)のさらなる拡張は、関連企業からその子会社、孫会社にいたるまでをブラックホールのように集積させていた。
電子の要塞たるWCTCの恩恵により、どの企業の株価も右肩上がりだった。
もっとも、それすら高度に演出された幻像に過ぎないことを、街を行き交う誰もが薄々感づいていた。
それでも昼間の城下町は、ノートPCを小脇に抱えた外国人ビジネスマンや観光客が洗練されたカフェテラスを行き交う、平和な情報都市の顔を見せていた。
だが、一歩路地裏に入れば、多言語の看板の影で合法・違法を問わない情報の裏取引が日常茶飯事で行われていた。
夜が訪れれば、街は完全に別の生き物へと姿を変える。
金の匂いに狂った詐欺師、ヤクザ、ブローカー、捏造屋、コピー屋――。
三歩歩けば何かしらの犯罪にぶつかるその光景は、単なる治安の悪化を意味してはいない。
ここは、「情報という名の演出が、最大の商品になった都市」なのだ。
世界中の国家や国際機関が、この街に監視拠点を置いて目を光らせているのも無理はなかった。「ここで何かが起きれば、世界が揺れる」
――それが、WCTCの脈動に潜む電子の海に生きる連中の共通認識だった。
前田秀樹が生み出した「演出」は、いまや世界共通の言語となり、独立した「兵器」へと変質していた。
戦場、災害、選挙、株価、スポーツ。あらゆる映像は事実を伝えるものではなく、標的の感情をハックするために「演出するもの」へと変わっていった。
その被害は一国や一企業の手に負えるレベルを遥かに超えていた。
ある大統領が激昂し、他国へ宣戦布告したように完璧に編集されたAI映像が軍のシステムを揺るがす。
敵対する二国の首脳が和平の握手をしただけなのに、裏で密約を交わしたかのように巧妙に切り取られ、暴動が起きる。
極めつけは、AI合成された音声と映像で、国家元首が「核攻撃を承認した」という偽の演説が世界中へ同時拡散された事件だった。
演出という兵器は、世界経済と国際秩序を根底から狂わせた。
だが、世界が定めた答えは「演出そのものの禁止」ではなかった。
「演出に善悪はない。使う人間が善悪を決める」という思想は、崩壊の危機に瀕した国際社会でもかろうじて共有されていたからだ。
各国が必要としたのは、演出を奪うことではなく、「真正性を偽って重大な社会的損害を生じさせる演出行為」を地球規模で厳罰に処すことだった。
世界中のテレビや配信画面では、VERITAS条約の発効とAEGISの正式発足を祝う国際会議の映像が流れていた。
採択を告げる槌の音が響いた瞬間、会場は総立ちとなった。世界各国の元首たちは一斉に拍手を送り、長年対立を続けてきた国家の代表同士さえ、硬い表情を崩して握手を交わした。
つい数年前まで互いを公然と非難し合っていた二国の代表が、壇上で肩を抱き、短い抱擁を交わす。
その姿に、会場の拍手はいっそう大きくなった。
思想も宗教も国益も異なる者たちが、ただ一つ、「偽りによって世界を壊させない」という目的のために、同じ喜びを分かち合っていた。
その光景は、人類が初めて情報という共通の敵に勝利した瞬間のように見えた。
市民たちは、その新しい世界秩序を畏敬と皮肉を込めて「世界の鎖」と呼んだ。
条約文では、情報犯罪を三段階に分類していた。
【VERITAS第一級情報犯罪】
国家・生命への重大な脅威。国家元首の偽演説、戦争・テロ・災害の偽映像、選挙操作、医療・避難情報の偽装など。発覚次第、全締約国による資産凍結および最高刑の対象となる。
【VERITAS第二級情報犯罪】
組織的・営利的な欺瞞行為。有名人のなりすまし、詐欺広告、AI音声を悪用した組織的詐欺など。
【VERITAS第三級情報犯罪】
真正性表示の隠蔽。AI生成・演出を示すバッジやログを、故意に改ざんまたは除去して配信する行為。
世界中のニュースは「人類が偽情報に勝利した歴史的な日」として、この歴史的な条約を称賛し、SNSのタイムラインは平和を祝う拍手の絵文字で埋め尽くされていた。
誰もが、ようやくあの狂気とインフレの時代に終止符が打たれたのだと安堵していた。
しかし、刑罰が設けられれば、それらを商品とする犯罪者たちもまた、恐るべき速度で「進化」を遂げる。
「俺は動画を作ってない。タイムラインに流れてきたものを転載しただけだ」
「私のサーバーが自動で拾い上げたログだ。AIが勝手に生成したもので、私の意志は介在していない」
「発信元は条約非締約国の海外サーバーだ。AEGISの管轄外だろ?」
法網の隙間を突く「言い訳」と、それを無効化しようとする管理局とのあいだで、現実のサイバー犯罪を超える壮絶な“いたちごっこ”が、この城下町市の地下で昼夜を問わず繰り広げられていた。
城下町市の一角、WCTCのバックボーンに直結された国際情報管理局の監視拠点。
光を遮断した管制室では、無数のモニターが世界中の電子の血流を青白く映し出していた。
メインモニターには、VERITAS条約の発効とAEGISの正式発足を祝う国際会議の映像が、繰り返し流されていた。
だが、その映像を振り返る者は、誰ひとりいなかった。
「エサをばらまけ」
冷徹な声で指示を出したのは、デスクに肘をつく、メガネをかけた女性管理官だった。
彼女の視線の先で、オペレーターの指が滑らかに動く。
AEGISの監視網に、あえて違法性の高い演出動画を流し込んだ。
「投稿を確認」オペレーターが淡々と告げる。
数秒の静寂の後、モニターのグラフが跳ね上がった。
「――最初の反応です」
「もう?」
女管理官は眉をひそめ、冷たい目で画面を凝視した。
「まだ十秒も経ってないわよ」
「発信元、城下町繁華街のネットカフェ。現在、七百三十一件へ拡散。個人配信サイトへ波及を開始。海外サーバーへの転載を確認。......異常な速度です」
部屋の空気が張り詰める中、その様子をじっと見つめていた年配の男性管理官が、深く椅子に背を預けながら煙草の煙を吐き出すように呟いた。
「......あやしいな。拡散が速すぎる、最初から『待ってた』連中がいるぞ」
「どういうことですか?」
オペレーターが振り返る。
年配の男性管理官は画面のログを指差した。
「世界七大ネットワークか、十五報道機関か......あるいは、その両方だ。この部屋が静まる前に、あいつらの仕込みアカウントが一斉に動き出していやがる」
女性管理官は、メガネを外して軽く拭き、フッと息を漏らした。
「VERITAS第一級情報犯罪に問われる危険を冒してでも、報道規制を破るために、自分たちの手を汚さず『誰かが叫ぶ瞬間』を網を張って待っていた......そう考えた方が自然ね」
年配の男性管理官は乾いた笑いを浮かべ、モニターの向こう側にある「大衆とメディア」という怪物を見据えた。
「どんな凄惨な悲劇も、自分たちの利益になる娯楽に変えちまう。......つくづく、業の深ぇ商売だ、演出ってやつは」
この情報の首都・城下町市の片隅、多言語のノイズが響く深夜の路地裏で、一人の名もなき人間が、スマートフォンの画面をタップした。
その手はわずかに震えている。
自分がこれから行う行為の意味を、その頭脳は完全に理解していた。
VERITASが発効した今、この画面のボタンを押した瞬間――
彼は世界共通法違反の「第一級情報犯罪者」となる。
国家、経済、生命を揺るがすテロリストと同義。
投稿ボタン一つ押すだけで、世界すべての国、すべての警察、すべてのネットワークを敵に回す。
その圧倒的な緊張感と、背筋が凍るような万能感が、かつて高層ビルの屋上に立ったあの開拓者たちの記憶と重なり合う。
暗闇のなかで、SNSの投稿フォームへ、わずか二文字だけが打ち込まれる。
『速報』
その下に、1本の動画ファイルが添付される。
それが世界を欺く兵器なのか、それとも世界が隠そうとした最後の真実なのかは、誰にもわからない。
ただ、全人類が構築した絶対的な法の鎖をこじ開けるようにして、その親指が画面を強く叩いた。画面の中央で、小さなアイコンが静かに回転を始める。
【 投稿中...... 】
その光が闇を照らしたところで、物語は完全に途絶えた。
読者の脳裏には、ひとつの確信めいた恐怖が去来する。
――また、始まる。世界中を敵に回した、あの狂気の演出が。
世界は、真実を守ろうとしていた。
しかし、その「真実」を証明できる者は、誰ひとりとして存在しなかった。
全5部
「演出の世紀。」
完