
翁
パン、と乾いた音が舞台に響く。 続いて、笛が一筋の風のように鳴り渡る。 鼓が応え、やがて軽やかな拍子が舞台を満たしていく。 静寂を押し広げるように、灯りがゆっくりと灯った。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』 イアの声が、静寂の舞台へと溶けていく。 軽やかな衣装で端から端までを走りながらイアは言う。『今宵、舞台へ上がるのは――』『人生で最も幸せだった一人の翁でございます』 舞台の照明が静かに落ちる。 再び、笛が鳴る。鼓が応える。 軽やかな旋律は―――。 春風のように舞台を満たした。「あははっ」 鈴を転がすような笑い声が、一度だけ響く。 その瞬間、舞台の端に一人の少女が現れた。 老人の孫――その記憶の欠片であった。 少女は駆けることはしない。 ただ一歩、一歩、また一歩。 静かに橋掛かりを渡る。 その歩みだけで、幸福だった歳月が舞台に満ちていく。 やがて灯りが少女を包む。
衣は厳かなまま。されど、その面は違った。 肉色尉の面。 穏やかに微笑む面だった。まるで、この世のすべてを慈しむかのような笑みだった。 まるで、全てが愛おしいと言いたげなその面に、シテも思わず微笑んでしまう。『あぁ、私はとても幸せだ』『愛する妻と過ごし、大切な娘は無事に生涯を添い遂げる相手を見つけた...そして』 笛の音が響く。『可愛い孫にも、こうして出会えた』 その瞬間、全ての囃子が止まる。 先程までが穏やかな囃子が鳴っていた分、静寂がより長く感じる。 スウッ...と、息を吸う音が聴こえた。 同時に、柔らかな笛の音が耳に届く。『ありがとう。私はとても、喜ばしい人生を送ることができた』『ありがとう。私はとても、楽しい人生を送ることができた』『本当に、とても......幸せだった』 パンと音が鳴り響いた。『瞬きの間は幸溢れる日々であった』 イアの抑揚のある声が響いた。『終演でございます』 その瞬間、虹が見えた。 虹に隠れて、老人は静かに舞台を降りた。 その足取りに、未練は一つもなかった。「.........」 舞台を観終えたシテは、しばらくの間動くことができなかった。 心が軽い、嬉しいのだ。 老人が、ただ『ありがとう』と言いたかった事が。 悲しいわけじゃない。苦しいわけじゃない。 ただただ、伝えたかった。 『私の可愛い孫を見てくれ』と。 『私の大切な娘を見てくれ』と。 『私の愛する妻を見てくれ』と。 この幸せな日々を見てくれ、と。『シテ、どうだった?』 気がついたら、隣にイアは居た。 濡羽色の髪が揺蕩う。「嬉しくても、舞台に上がるのか」『それだけ、想いが大きかったのさ』 その言葉に、シテは嬉しそうに微笑んだ。「そうか」 翁
パン、と乾いた音が舞台に響く。 続いて、笛が一筋の風のように鳴り渡る。 鼓が応え、やがて軽やかな拍子が舞台を満たしていく。 静寂を押し広げるように、灯りがゆっくりと灯った。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』 イアの声が、静寂の舞台へと溶けていく。 軽やかな衣装で端から端までを走りながらイアは言う。『今宵、舞台へ上がるのは――』『人生で最も幸せだった一人の翁でございます』 舞台の照明が静かに落ちる。 再び、笛が鳴る。鼓が応える。 軽やかな旋律は―――。 春風のように舞台を満たした。「あははっ」 鈴を転がすような笑い声が、一度だけ響く。 その瞬間、舞台の端に一人の少女が現れた。 老人の孫――その記憶の欠片であった。 少女は駆けることはしない。 ただ一歩、一歩、また一歩。 静かに橋掛かりを渡る。 その歩みだけで、幸福だった歳月が舞台に満ちていく。 やがて灯りが少女を包む。
衣は厳かなまま。されど、その面は違った。 肉色尉の面。 穏やかに微笑む面だった。まるで、この世のすべてを慈しむかのような笑みだった。 まるで、全てが愛おしいと言いたげなその面に、シテも思わず微笑んでしまう。『あぁ、私はとても幸せだ』『愛する妻と過ごし、大切な娘は無事に生涯を添い遂げる相手を見つけた...そして』 笛の音が響く。『可愛い孫にも、こうして出会えた』 その瞬間、全ての囃子が止まる。 先程までが穏やかな囃子が鳴っていた分、静寂がより長く感じる。 スウッ...と、息を吸う音が聴こえた。 同時に、柔らかな笛の音が耳に届く。『ありがとう。私はとても、喜ばしい人生を送ることができた』『ありがとう。私はとても、楽しい人生を送ることができた』『本当に、とても......幸せだった』 パンと音が鳴り響いた。『瞬きの間は幸溢れる日々であった』 イアの抑揚のある声が響いた。『終演でございます』 その瞬間、虹が見えた。 虹に隠れて、老人は静かに舞台を降りた。 その足取りに、未練は一つもなかった。「.........」 舞台を観終えたシテは、しばらくの間動くことができなかった。 心が軽い、嬉しいのだ。 老人が、ただ『ありがとう』と言いたかった事が。 悲しいわけじゃない。苦しいわけじゃない。 ただただ、伝えたかった。 『私の可愛い孫を見てくれ』と。 『私の大切な娘を見てくれ』と。 『私の愛する妻を見てくれ』と。 この幸せな日々を見てくれ、と。『シテ、どうだった?』 気がついたら、隣にイアは居た。 濡羽色の髪が揺蕩う。「嬉しくても、舞台に上がるのか」『それだけ、想いが大きかったのさ』 その言葉に、シテは嬉しそうに微笑んだ。「そうか」