
波心
パンと乾いた音が響いた。 同時に一つ、また一つと明かりが灯る。 やがて、イアが現れた。 白の衣装を身に纏って、微かな化粧が施されているイアは、天女のように美しかった。 檜の匂いが届いた。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』『今宵の舞台人を演じるは―――』『此方の、少女でございます』 その瞬間、太鼓の音が響いた。 小さいが、連続性のある音。 太鼓に合わせるように笛が響く。『......』 一歩、また一歩。 厳かな衣装を身に包む少女が、ゆっくりと橋掛から現れた。 扇子で顔が隠されている。『恋すてふ わが名はまだき立ちにけり』 少女は、松の木の前で立ち止まった。 見所に語りかけるかのように言う。『人知れずこそ思ひそめしか』 瞬間、囃子がピタリと止む。 少女はゆっくりと、扇子を下ろした。 徐々にその顔を見せていく。
小面と呼ばれる面だった。 幼さを残した面立ちは、まるで咲きかけの花のように儚い。 微かに伏せられた眼差しは...。 恋に戸惑う少女のようでもあり、
別れを知った少女のようでもあった。 光の当たり方一つで、笑みにも、涙にも見えるその面は―――。 言葉にならなかった想いを静かに映していた。 その瞬間、少女はゆっくりと扇子を前に出し、優雅に動かす。儚さの中に少し妖艶さが組み込まれたかのような舞は、自然とシテの視線を奪う。 重心のズレがほとんどない。 まるで、糸に支えられているかのような軽やかな動きだ。 なのに、何故なのだろうか。「...重たい」 重たく見えるのは、何故なのだろうか。 また、囃子が鳴る。 笛は軽やかに旋律を奏で、太鼓が続く。『多くの人に、愛を囁かれてきた』 そう言いながら、少女は舞う。 囃子が、少女のために奏でられる。 一歩歩く度に、舞台に華が咲く。 それほどに、美しい舞だった。『最も囁いてほしい相手は、囁かなかった』 少女は扇子をゆっくり胸へ抱く。 その瞬間、全ての囃子がピタリと止む。 少女がゆっくりと息を吸う音だけが聞こえた。 しかし、言葉は発せられない。 もう一度、息を吸う音が聞こえた。 そして、震えた声音で囁くように言う。『私の恋は、それで終わった』 パン!と乾いた音が響いた。『隠された想ひは、残り続け』 イアの声が聞こえた。『これにて、終演でございます』 その瞬間、少女は扇子を天へと投げた。 視線が一瞬、扇子に映る。 ふわり、と扇子が舞い降りる。 再び舞台を見た時、既に少女はいなかった。『それでは、次の演目にて』 舞台は、そうして終わりを告げた。 舞台を観終えたシテは、イアの元を訪れた。 アイは、湖に浸かっていた。「格好良かったぞイア!」『演じたのはアイだ』「アイ!格好良かったぞ!」 その言葉に、アイはゆっくりとシテを見た。 ――――そりゃ、そうか。 静かに、そう思う。「当たり前だ。あの少女は妖艶さを持つ美しい少女だ。自然と舞も華やかさを持つ」 浴を行いながら、アイはそう言った。「あの少女は、恋を伝えたかったんだな」『そうだな』「何か思ったのか?少年」 湖に浸かったまま、アイはシテを見つめた。「伝えられたら、いいんだがな」 その言葉に、二人はシテを優しく見つめた。「そうだな」 アイは静かに頷いた。『.........あぁ、私もそう思うよ』 イアは静かにそう呟いた。 桃花眼の眼が少しだけ揺れる。 その様子を見つめていたシテは、微笑んだ。「イアって、やっぱ分かりづらいよな」 突然の言葉に、イアは首を傾げた。 濡羽色の髪が稀有な桃花眼にかかる。「まあ、視れはするんだけどな」『え?』「......」「ん?どうかしたか?」『...............いや、何も』 水面が、小さく揺れた。 その波紋のように...。 不穏は静かに広がっていく。 波心
パンと乾いた音が響いた。 同時に一つ、また一つと明かりが灯る。 やがて、イアが現れた。 白の衣装を身に纏って、微かな化粧が施されているイアは、天女のように美しかった。 檜の匂いが届いた。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』『今宵の舞台人を演じるは―――』『此方の、少女でございます』 その瞬間、太鼓の音が響いた。 小さいが、連続性のある音。 太鼓に合わせるように笛が響く。『......』 一歩、また一歩。 厳かな衣装を身に包む少女が、ゆっくりと橋掛から現れた。 扇子で顔が隠されている。『恋すてふ わが名はまだき立ちにけり』 少女は、松の木の前で立ち止まった。 見所に語りかけるかのように言う。『人知れずこそ思ひそめしか』 瞬間、囃子がピタリと止む。 少女はゆっくりと、扇子を下ろした。 徐々にその顔を見せていく。
小面と呼ばれる面だった。 幼さを残した面立ちは、まるで咲きかけの花のように儚い。 微かに伏せられた眼差しは...。 恋に戸惑う少女のようでもあり、
別れを知った少女のようでもあった。 光の当たり方一つで、笑みにも、涙にも見えるその面は―――。 言葉にならなかった想いを静かに映していた。 その瞬間、少女はゆっくりと扇子を前に出し、優雅に動かす。儚さの中に少し妖艶さが組み込まれたかのような舞は、自然とシテの視線を奪う。 重心のズレがほとんどない。 まるで、糸に支えられているかのような軽やかな動きだ。 なのに、何故なのだろうか。「...重たい」 重たく見えるのは、何故なのだろうか。 また、囃子が鳴る。 笛は軽やかに旋律を奏で、太鼓が続く。『多くの人に、愛を囁かれてきた』 そう言いながら、少女は舞う。 囃子が、少女のために奏でられる。 一歩歩く度に、舞台に華が咲く。 それほどに、美しい舞だった。『最も囁いてほしい相手は、囁かなかった』 少女は扇子をゆっくり胸へ抱く。 その瞬間、全ての囃子がピタリと止む。 少女がゆっくりと息を吸う音だけが聞こえた。 しかし、言葉は発せられない。 もう一度、息を吸う音が聞こえた。 そして、震えた声音で囁くように言う。『私の恋は、それで終わった』 パン!と乾いた音が響いた。『隠された想ひは、残り続け』 イアの声が聞こえた。『これにて、終演でございます』 その瞬間、少女は扇子を天へと投げた。 視線が一瞬、扇子に映る。 ふわり、と扇子が舞い降りる。 再び舞台を見た時、既に少女はいなかった。『それでは、次の演目にて』 舞台は、そうして終わりを告げた。 舞台を観終えたシテは、イアの元を訪れた。 アイは、湖に浸かっていた。「格好良かったぞイア!」『演じたのはアイだ』「アイ!格好良かったぞ!」 その言葉に、アイはゆっくりとシテを見た。 ――――そりゃ、そうか。 静かに、そう思う。「当たり前だ。あの少女は妖艶さを持つ美しい少女だ。自然と舞も華やかさを持つ」 浴を行いながら、アイはそう言った。「あの少女は、恋を伝えたかったんだな」『そうだな』「何か思ったのか?少年」 湖に浸かったまま、アイはシテを見つめた。「伝えられたら、いいんだがな」 その言葉に、二人はシテを優しく見つめた。「そうだな」 アイは静かに頷いた。『.........あぁ、私もそう思うよ』 イアは静かにそう呟いた。 桃花眼の眼が少しだけ揺れる。 その様子を見つめていたシテは、微笑んだ。「イアって、やっぱ分かりづらいよな」 突然の言葉に、イアは首を傾げた。 濡羽色の髪が稀有な桃花眼にかかる。「まあ、視れはするんだけどな」『え?』「......」「ん?どうかしたか?」『...............いや、何も』 水面が、小さく揺れた。 その波紋のように...。 不穏は静かに広がっていく。