
共赦
「イア、今回の舞台は少し手を加えたい」 珍しいアイの言葉に、イアはすぐに応じた。『分かった』「...後、あの少年を特等席に」『なんで?』 イアの言葉に、アイは微笑んだ。 楽しそうに微笑むアイの姿は珍しくて、思わずイアも微笑み返してしまった。「ちと、試してみたい事があってな」 そして、舞台の日を迎えた。『アイ、これでいい?』「ああ」 その言葉と共に、アイは鏡の間に入る。 三面鏡の真ん中で静かに座り桃花眼を閉ざす。「.........すぅ......はぁ」 アイの深呼吸の音だけが、聞こえる。 ―――アイが映った。 そうなれば、声を掛ける事が失礼にあたる。 イアは、そっと離れた。「イア!」 見所を舞台袖から見つめていたら、声がした。 その声に、イアは身体が冷えていく感覚を味わった。 ―――何故、シテが後ろにいる。「イア様、突然申し訳ございません」 同時に、ワキの声が聞こえた。 その声で、イアは安心したのか。 ゆっくりと、呼吸を繰り返した。「ワキおじちゃんにどーしてもってお願いしたんだ!」『...何をだ』「この舞台の完成を見たかった」 何気ない言葉。 ただの言葉だ。 気にする必要はない。必要ないのに、何故。 意味を深く捉えてしまうのだろうか。『そうか』 イアは敢えて冷たく返した。「今日は......静かだな」 気持ちを悟られたくないからでもあった。「今日は...そうか...『赦し』か」 シテのその言葉に、ワキは「鋭いね」と返す。 然し、イアはその言葉を聞き、桃花眼を見開かせた。思わず一歩後ろへと下がったのだ。『...お前は最前列で観れる、もう行け』「イア、あんまびびんなよ」 意味深な言葉を残しながら、シテは静かに最前列に座る。 イアは深呼吸を繰り返した。『ワキ、最高の笛を』 その言葉に、ワキは少し驚いたような顔を見せたが、すぐに「勿論でございます」と返した。 パン! 乾いた音が響いた。 その瞬間、全ての照明が消えた。「............」 シテは、静かに舞台を見つめた。 すると、明かりが一つだけ灯る。 舞台ではなく、見所の付近でだ。 舞台を観に来た者は皆、声を上げた。 このような出方ははじめてだったからだ。 野原を駆け回るような身軽な服装だった。『こんばんは』 イアのその声と共に、軽くジャンプをした。 すると、ふわりと臙脂の見所椅子を軽々と飛び越えて、松の木が描かれた本舞台の前で綺麗に着地する。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』 また、パン!と音が響く。 明かりは、また消えた。『今宵の舞台は、闇に紛れた一人の少年』 明かりが灯らないまま、イアはそう呟く。『心に秘めた想いが今、解き放たれる』 その瞬間、暗闇の中大鼓の音が響く。 ドンドン、ドンドン、ドンドン。 心の臓を貫かれるかのような、低い音。 だが、不快感はない。 むしろ、どこか悲鳴のようにさえ聞こえた。 明かりが静かに灯った。 既に、演者は立っていた。 まるで、はじめから其処に居たかのように。 太鼓の音が耳に残る。 笛の音が悲鳴に聞こえる。 なのに、なのに。聞こえてくるのだ。 演者の、息を吸う音が。『僕は、過ちを犯した』 その瞬間、明かりは消えた。『だが、人々はその過ちを救済と呼んだ』 また、灯った。『如何してだ』 また、消えた。 闇が舞台を覆うかのように。 大鼓の音が、響く。『如何してだ』 その瞬間、明かりが灯る。『.........如何して、救済と呼ぶのだ』 痩男の面が姿を見せた。 深く痩せこけた頬と、落ち窪んだ眼差し。 生気を失ったその顔には...。 怒りも、喜びもなかった。『あぁ、げに恐ろしき』 残されていたのは、ただ一つ。『信仰とは、なんたる皮肉か』 届かなかった想い。 また、明かりが消える。 ―――なんだこれは。 シテはそう思う。 明らかに、今までの舞台とは違う。 だが、何が違うのかまでは分からない。 気づけば、シテは少し伸びた前髪ごと一つに束ねて、舞台を食い入るように見つめた。『皮肉?笑わせてくれる!』 ――――え? その瞬間、笛の音が鳴り響く。 太鼓の音が、小さくなっていく。 ひゅるひゅるひゅるり、ひゅるりらり。 ひゅるひゅるひゅるり、ひゅるりらり。
『私は白心!』『お前の中に在り続けた者』 ―――イアが、舞台に出てきた...⁉︎
白心。 白磁のように滑らかな面。 目元には慈悲とも憂いともつかぬ穏やかな陰影が宿る。 微かに結ばれた口元は笑みにも祈りにも見え、見る者の心によって表情を変える。 光を受ければ静かに微笑み、
影に沈めば、誰かの痛みを共に抱くような哀しみを映す。 この面は人を裁くためではない。 捨てられた想いを、最後まで抱き続けるために存在する。『さあ、痩男』 本来なら、舞台の案内役は舞台に上がらない。 舞台の袖で、演者の言葉を代弁し、進行を務めるからだ。『白心を、見ろ』 つまり、これは異例中の異例。 異例こそ、アイがイアに頼んだ事。 進行役と死手の共演である。『見てどうする』『この気持ちを、お前は捨てた』『要らぬ心だ』『だが、こうして私が生まれた』『なんたる皮肉か』 白心は、痩男へ語り掛ける。 痩男は答えない。代わりに、その沈黙を白心が言葉として見所へ伝える。 一人で『二人』を生きていた。 静かに扇子を携え、舞台の中央に立っている。 動かない。語らない。なのに。なのに。 その存在だけが舞台を支配していた。 痩男が皮肉を重ねるたび、
白心は、いっそう眩く見える。 痩男は、何も語らない。 ただ静かに、一歩だけ前へ出る。 囃子が止む。 静寂が場を制圧した。 白心は、痩男を見つめた。『......苦しかったな』 痩男は答えない。 しかし、ゆっくりと扇子を胸へ抱いた。『もう、背負わなくていい』 その瞬間ひゅるりと笛が鳴った。 明かりが、ゆっくりと消えていく。『お前が捨てた心は』 ゆっくりと。ゆっくりと。明かりが消えたその瞬間、白心は言う。『私が、ずっと覚えている』 その瞬間、大鼓の音が響く。 心の臓を貫くかのようなその音。 明かりがゆっくりと灯る。 灯るにつれ、笛の音が響く。 気がつけば、舞台には一人だけ立っていた。 痩男。 面は変わらない。 痩せこけた頬も、落ち窪んだ眼も、
何一つ変わっていない。 けれど、何故かその立ち姿だけは、
先程とは違って見えた。『.........礼を言う』 その瞬間、明かりが灯る。 笛が鳴る。大鼓が鳴り響く。 一歩、一歩。ゆっくりと。 舞う。重たげで、意思の強さが感じ取れる。 自然と、見所人達も息を呑む。 この男が、最後になんて言うのか。 最期に言い残すことはなんなのか。 舞いが、重たい。 やがて、全ての囃子が止む。 すうっ、と息を吸う音だけが響く。『......あぁ、良かった』 その瞬間、パンと乾いた音が響いた。『罪は残れど、想ひは赦され』 気がつけばイアは軽やかな服装に戻っていた。『終演でございます』 そうして、舞台は終わりを迎えた。 明かりが消えた。 再び明かりが灯った時、
そこには誰もいなかった。 誰一人、椅子から立ち上がらなかった。「......」 シテも、立ち上がらなかった。 ただただ、余韻に浸っていた。「善人なおもて往生をとぐ」「いわんや...悪人をや」 シテは空に向かって、そう呟いた。 その声は、誰にも届かない。 その声は、何処にも届かない。 ただ、シテの心にだけ。 先ほどの大鼓のように、深く、深く。 残っていた。 共赦
「イア、今回の舞台は少し手を加えたい」 珍しいアイの言葉に、イアはすぐに応じた。『分かった』「...後、あの少年を特等席に」『なんで?』 イアの言葉に、アイは微笑んだ。 楽しそうに微笑むアイの姿は珍しくて、思わずイアも微笑み返してしまった。「ちと、試してみたい事があってな」 そして、舞台の日を迎えた。『アイ、これでいい?』「ああ」 その言葉と共に、アイは鏡の間に入る。 三面鏡の真ん中で静かに座り桃花眼を閉ざす。「.........すぅ......はぁ」 アイの深呼吸の音だけが、聞こえる。 ―――アイが映った。 そうなれば、声を掛ける事が失礼にあたる。 イアは、そっと離れた。「イア!」 見所を舞台袖から見つめていたら、声がした。 その声に、イアは身体が冷えていく感覚を味わった。 ―――何故、シテが後ろにいる。「イア様、突然申し訳ございません」 同時に、ワキの声が聞こえた。 その声で、イアは安心したのか。 ゆっくりと、呼吸を繰り返した。「ワキおじちゃんにどーしてもってお願いしたんだ!」『...何をだ』「この舞台の完成を見たかった」 何気ない言葉。 ただの言葉だ。 気にする必要はない。必要ないのに、何故。 意味を深く捉えてしまうのだろうか。『そうか』 イアは敢えて冷たく返した。「今日は......静かだな」 気持ちを悟られたくないからでもあった。「今日は...そうか...『赦し』か」 シテのその言葉に、ワキは「鋭いね」と返す。 然し、イアはその言葉を聞き、桃花眼を見開かせた。思わず一歩後ろへと下がったのだ。『...お前は最前列で観れる、もう行け』「イア、あんまびびんなよ」 意味深な言葉を残しながら、シテは静かに最前列に座る。 イアは深呼吸を繰り返した。『ワキ、最高の笛を』 その言葉に、ワキは少し驚いたような顔を見せたが、すぐに「勿論でございます」と返した。 パン! 乾いた音が響いた。 その瞬間、全ての照明が消えた。「............」 シテは、静かに舞台を見つめた。 すると、明かりが一つだけ灯る。 舞台ではなく、見所の付近でだ。 舞台を観に来た者は皆、声を上げた。 このような出方ははじめてだったからだ。 野原を駆け回るような身軽な服装だった。『こんばんは』 イアのその声と共に、軽くジャンプをした。 すると、ふわりと臙脂の見所椅子を軽々と飛び越えて、松の木が描かれた本舞台の前で綺麗に着地する。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』 また、パン!と音が響く。 明かりは、また消えた。『今宵の舞台は、闇に紛れた一人の少年』 明かりが灯らないまま、イアはそう呟く。『心に秘めた想いが今、解き放たれる』 その瞬間、暗闇の中大鼓の音が響く。 ドンドン、ドンドン、ドンドン。 心の臓を貫かれるかのような、低い音。 だが、不快感はない。 むしろ、どこか悲鳴のようにさえ聞こえた。 明かりが静かに灯った。 既に、演者は立っていた。 まるで、はじめから其処に居たかのように。 太鼓の音が耳に残る。 笛の音が悲鳴に聞こえる。 なのに、なのに。聞こえてくるのだ。 演者の、息を吸う音が。『僕は、過ちを犯した』 その瞬間、明かりは消えた。『だが、人々はその過ちを救済と呼んだ』 また、灯った。『如何してだ』 また、消えた。 闇が舞台を覆うかのように。 大鼓の音が、響く。『如何してだ』 その瞬間、明かりが灯る。『.........如何して、救済と呼ぶのだ』 痩男の面が姿を見せた。 深く痩せこけた頬と、落ち窪んだ眼差し。 生気を失ったその顔には...。 怒りも、喜びもなかった。『あぁ、げに恐ろしき』 残されていたのは、ただ一つ。『信仰とは、なんたる皮肉か』 届かなかった想い。 また、明かりが消える。 ―――なんだこれは。 シテはそう思う。 明らかに、今までの舞台とは違う。 だが、何が違うのかまでは分からない。 気づけば、シテは少し伸びた前髪ごと一つに束ねて、舞台を食い入るように見つめた。『皮肉?笑わせてくれる!』 ――――え? その瞬間、笛の音が鳴り響く。 太鼓の音が、小さくなっていく。 ひゅるひゅるひゅるり、ひゅるりらり。 ひゅるひゅるひゅるり、ひゅるりらり。
『私は白心!』『お前の中に在り続けた者』 ―――イアが、舞台に出てきた...⁉︎
白心。 白磁のように滑らかな面。 目元には慈悲とも憂いともつかぬ穏やかな陰影が宿る。 微かに結ばれた口元は笑みにも祈りにも見え、見る者の心によって表情を変える。 光を受ければ静かに微笑み、
影に沈めば、誰かの痛みを共に抱くような哀しみを映す。 この面は人を裁くためではない。 捨てられた想いを、最後まで抱き続けるために存在する。『さあ、痩男』 本来なら、舞台の案内役は舞台に上がらない。 舞台の袖で、演者の言葉を代弁し、進行を務めるからだ。『白心を、見ろ』 つまり、これは異例中の異例。 異例こそ、アイがイアに頼んだ事。 進行役と死手の共演である。『見てどうする』『この気持ちを、お前は捨てた』『要らぬ心だ』『だが、こうして私が生まれた』『なんたる皮肉か』 白心は、痩男へ語り掛ける。 痩男は答えない。代わりに、その沈黙を白心が言葉として見所へ伝える。 一人で『二人』を生きていた。 静かに扇子を携え、舞台の中央に立っている。 動かない。語らない。なのに。なのに。 その存在だけが舞台を支配していた。 痩男が皮肉を重ねるたび、
白心は、いっそう眩く見える。 痩男は、何も語らない。 ただ静かに、一歩だけ前へ出る。 囃子が止む。 静寂が場を制圧した。 白心は、痩男を見つめた。『......苦しかったな』 痩男は答えない。 しかし、ゆっくりと扇子を胸へ抱いた。『もう、背負わなくていい』 その瞬間ひゅるりと笛が鳴った。 明かりが、ゆっくりと消えていく。『お前が捨てた心は』 ゆっくりと。ゆっくりと。明かりが消えたその瞬間、白心は言う。『私が、ずっと覚えている』 その瞬間、大鼓の音が響く。 心の臓を貫くかのようなその音。 明かりがゆっくりと灯る。 灯るにつれ、笛の音が響く。 気がつけば、舞台には一人だけ立っていた。 痩男。 面は変わらない。 痩せこけた頬も、落ち窪んだ眼も、
何一つ変わっていない。 けれど、何故かその立ち姿だけは、
先程とは違って見えた。『.........礼を言う』 その瞬間、明かりが灯る。 笛が鳴る。大鼓が鳴り響く。 一歩、一歩。ゆっくりと。 舞う。重たげで、意思の強さが感じ取れる。 自然と、見所人達も息を呑む。 この男が、最後になんて言うのか。 最期に言い残すことはなんなのか。 舞いが、重たい。 やがて、全ての囃子が止む。 すうっ、と息を吸う音だけが響く。『......あぁ、良かった』 その瞬間、パンと乾いた音が響いた。『罪は残れど、想ひは赦され』 気がつけばイアは軽やかな服装に戻っていた。『終演でございます』 そうして、舞台は終わりを迎えた。 明かりが消えた。 再び明かりが灯った時、
そこには誰もいなかった。 誰一人、椅子から立ち上がらなかった。「......」 シテも、立ち上がらなかった。 ただただ、余韻に浸っていた。「善人なおもて往生をとぐ」「いわんや...悪人をや」 シテは空に向かって、そう呟いた。 その声は、誰にも届かない。 その声は、何処にも届かない。 ただ、シテの心にだけ。 先ほどの大鼓のように、深く、深く。 残っていた。