
憤怒
「おはようー!ワキおじちゃん!」「おはよう、シテ」 宿に泊まること一週間。 シテは――――
「お、今日はスープ!美味しそうー」 宿泊者の殆どと打ち解けていた。「注いでやるから、座りなさい」「はーい」 そう言いながら、シテは長い椅子の端に座る。「シテ、もっと真ん中においで」「でも、此処が一番扉に近くて他の人を感じやすいんだ」 そう言い、席から離れようとしないシテを見て、ワキはどうしようかと悩む。 ワキの白髪の髪がサラリと揺れた。隙間からは黄金の眼が煌びやかとしている。 生命さを感じさせてくれる黄金を見て、シテは食い入るようにワキを見つめた。「そこは下座と呼ばれるところで、本来なら儂が座る場所なんだ」 その言葉に、シテはうぅんと唸る。恐らくは『下座』という言葉が分からないのだろう。 それに気がついたワキは「ふふ」と声を出す。 黄金の眼がゆっくりと弧を描いた。「儂の特等席なんだ」 その言葉に「そういうことか!」と言いながら真ん中の席に移る。目の前に温かいスープと焼きたてのパンが置かれた。 シテは背筋を伸ばして綺麗に手を合わせた。「いただきます」 シテがパンを食べようとした瞬間、小さなノックの音が聞こえた。シテは食事に伸ばした手を引っ込めて、立ち上がる。「大丈夫だよ」 ワキがそう言いながら扉を開けた。『おはよう、ワキ。シテ』 濡羽色の髪に稀有な桃花眼。 汚れを知らない白の反物。 神話の一節から抜け出したかのような、美しい人物―――。 イアが立っていた。「おはようございます、イア様」「イア、お早う」『今日は舞台の演者を呼びに来たんだ』 その言葉に、シテは一瞬暗い表情を見せた。 演技を行うということは、それだけの想いを生前に伝えきれなかったということだ。 その事実が、シテには少し心苦しい。『今日は、この子だ』 そう言いながら、イアは一枚の写真を見せた。 ―――あ。 シテは、その写真を見て、思う。 ―――この宿で、仲良くなれなかった人だ。『ワキ、後は頼んだ』「勿論でございます」 その瞬間、イアはまた消えた。「ワキおじちゃん、イアに随分と丁寧な話し方をするんだな。もしかしてアイツって偉い人なのか?」 シテのその問いに、ワキは静かに頷いた。「イア様の一族は、死者と生者を繋ぐ『巫』の名を持つ者。中でもイア様は、他者の心を写すことに慣れておられる。これは、中々できない」「なんでだ?」「人の心を視るという事は、視られる覚悟も持たないといけないからだよ」 その言葉に、何も返せなかった。 数日経った。 シテは、舞台を観に行こうとした。 然し、舞台の行き方が分からず辺りを彷徨く。 偶然、ワキを見かけた。「ワキおじちゃん!」 シテは舞台に行きたいと伝えると、嬉しそうにワキは微笑む。「舞台の行き方?行きたいと願えばいいさ」「願わないと辿り着けないのか?」「人の心を観る場所だからね」 ワキにそう言われたシテは、強く願った。『あの場所へ、あの舞台へ、行きたい』と。 次の瞬間、笛の音が聞こえた。 目を開けたその先は、再び舞台の中だった。 高い天井。檜の香りが微かに感じる。 一番大きな舞台には、松の木が描かれている。 シテは、ゆっくりと呼吸をしながら待つ。 やがて、舞台の照明がゆっくり落ちる。 そして、笛の音が響き渡る。 鼓の音が聞こえる。 その後は、大きくなっていく。 笛の音、鼓の音。 相変わらず、見所は静寂だった。 パン!と音が鳴り響いた。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』 シテは、また舞台を観ていた。『今宵の舞台を演じるのは、此方の少女でございます』 イアのその言葉と共に、鼓の音がドンドンと響く。心臓の奥を掴まれたかのようなその音に、シテは思わず顔を顰めた。 だが次の瞬間、現れた役者を見てシテは目を見開いた。 ―――昨日と、違う顔。 厳かな服を身に纏う少女がいた。 泥眼の面をかけていた。 その瞳は金色に沈み、憎しみではなく、失われた想いの残滓を映していた。 怒りとは、悲しみが行き場を失った果てに生まれるもの。 この面は、人を呪うためではない。 届かなかった言葉を、
抱き続けるために存在していた。
鼓の音が心を貫く。 突然、ぴたりと音が止まった。 すうっと息を吸う音が聞こえた。『あぁ、腹が立つ。腹が立つ』『夫は帰って来ず』『娘は、振り向いてくれない』『この怒り、如何してくれようか』 少女は静かに足を踏み出した。 円を描くように、幾度も幾度も。 同じ場所へ戻り、また巡る。 その動きは、巴と呼ばれる。 怒りは前へ進まない。 行き場を失った悲しみは―――。
ただ同じ心を巡り続ける。『ああ、腹が立つ。腹が立つ』 囃子がピタリと止まった。 それに合わせ、少女の動きも止まる。 スッと少女の息を吸う音が聞こえた。『この怒り―――』 一寸の間。『如何してくれようか』 その瞬間、ドン、ドン、ドン、ドン。 大鼓の音が響く。心の臓を貫くように。 太鼓の音が響く。腹の底に溜まるように。 それに合わせ、笛が鳴る。 少女の悲鳴のように。 少女の身体が鞠のように跳ねた。 倒れ込み、立ち上がり、袖を翻し、
激しく舞う。 積もり積もった怒りが器から溢れた。 そんな風に見える。 その動きは、舞働と呼ばれる。 ―――同じ言葉の、繰り返し? シテがそう思った瞬間、少女と目が合う。 いいや、ただの錯覚だ。 あまりの怒りの大きさに、気圧されただけだ。『そう呟き、私は剣を手にした』 その瞬間、雪が降る。
そして、パンと音が鳴る。『六花の剣を己の心に、突き立てて』 怒りは、人を焼く炎ではない。 行き場を失った悲しみが、最後に灯した一輪の火だった。 イアが静かに呟く。『終演でございます』 その瞬間、吹雪が少女を覆う。 ―――なんだ、なんだこれは。『それでは、次の演目にて』 感じたことのない違和感。糸のように細く、行方がわからない違和感。 ――あ、そうか。そういう事か。 ふと、シテは思い出す。『願えば、辿り着く』 そうワキに言われたことを。 違和感の正体を知るために、シテは想う。 イアの元へ、行きたいと。 憤怒
「おはようー!ワキおじちゃん!」「おはよう、シテ」 宿に泊まること一週間。 シテは――――
「お、今日はスープ!美味しそうー」 宿泊者の殆どと打ち解けていた。「注いでやるから、座りなさい」「はーい」 そう言いながら、シテは長い椅子の端に座る。「シテ、もっと真ん中においで」「でも、此処が一番扉に近くて他の人を感じやすいんだ」 そう言い、席から離れようとしないシテを見て、ワキはどうしようかと悩む。 ワキの白髪の髪がサラリと揺れた。隙間からは黄金の眼が煌びやかとしている。 生命さを感じさせてくれる黄金を見て、シテは食い入るようにワキを見つめた。「そこは下座と呼ばれるところで、本来なら儂が座る場所なんだ」 その言葉に、シテはうぅんと唸る。恐らくは『下座』という言葉が分からないのだろう。 それに気がついたワキは「ふふ」と声を出す。 黄金の眼がゆっくりと弧を描いた。「儂の特等席なんだ」 その言葉に「そういうことか!」と言いながら真ん中の席に移る。目の前に温かいスープと焼きたてのパンが置かれた。 シテは背筋を伸ばして綺麗に手を合わせた。「いただきます」 シテがパンを食べようとした瞬間、小さなノックの音が聞こえた。シテは食事に伸ばした手を引っ込めて、立ち上がる。「大丈夫だよ」 ワキがそう言いながら扉を開けた。『おはよう、ワキ。シテ』 濡羽色の髪に稀有な桃花眼。 汚れを知らない白の反物。 神話の一節から抜け出したかのような、美しい人物―――。 イアが立っていた。「おはようございます、イア様」「イア、お早う」『今日は舞台の演者を呼びに来たんだ』 その言葉に、シテは一瞬暗い表情を見せた。 演技を行うということは、それだけの想いを生前に伝えきれなかったということだ。 その事実が、シテには少し心苦しい。『今日は、この子だ』 そう言いながら、イアは一枚の写真を見せた。 ―――あ。 シテは、その写真を見て、思う。 ―――この宿で、仲良くなれなかった人だ。『ワキ、後は頼んだ』「勿論でございます」 その瞬間、イアはまた消えた。「ワキおじちゃん、イアに随分と丁寧な話し方をするんだな。もしかしてアイツって偉い人なのか?」 シテのその問いに、ワキは静かに頷いた。「イア様の一族は、死者と生者を繋ぐ『巫』の名を持つ者。中でもイア様は、他者の心を写すことに慣れておられる。これは、中々できない」「なんでだ?」「人の心を視るという事は、視られる覚悟も持たないといけないからだよ」 その言葉に、何も返せなかった。 数日経った。 シテは、舞台を観に行こうとした。 然し、舞台の行き方が分からず辺りを彷徨く。 偶然、ワキを見かけた。「ワキおじちゃん!」 シテは舞台に行きたいと伝えると、嬉しそうにワキは微笑む。「舞台の行き方?行きたいと願えばいいさ」「願わないと辿り着けないのか?」「人の心を観る場所だからね」 ワキにそう言われたシテは、強く願った。『あの場所へ、あの舞台へ、行きたい』と。 次の瞬間、笛の音が聞こえた。 目を開けたその先は、再び舞台の中だった。 高い天井。檜の香りが微かに感じる。 一番大きな舞台には、松の木が描かれている。 シテは、ゆっくりと呼吸をしながら待つ。 やがて、舞台の照明がゆっくり落ちる。 そして、笛の音が響き渡る。 鼓の音が聞こえる。 その後は、大きくなっていく。 笛の音、鼓の音。 相変わらず、見所は静寂だった。 パン!と音が鳴り響いた。『紳士淑女の皆さま、ご機嫌よう』 シテは、また舞台を観ていた。『今宵の舞台を演じるのは、此方の少女でございます』 イアのその言葉と共に、鼓の音がドンドンと響く。心臓の奥を掴まれたかのようなその音に、シテは思わず顔を顰めた。 だが次の瞬間、現れた役者を見てシテは目を見開いた。 ―――昨日と、違う顔。 厳かな服を身に纏う少女がいた。 泥眼の面をかけていた。 その瞳は金色に沈み、憎しみではなく、失われた想いの残滓を映していた。 怒りとは、悲しみが行き場を失った果てに生まれるもの。 この面は、人を呪うためではない。 届かなかった言葉を、
抱き続けるために存在していた。
鼓の音が心を貫く。 突然、ぴたりと音が止まった。 すうっと息を吸う音が聞こえた。『あぁ、腹が立つ。腹が立つ』『夫は帰って来ず』『娘は、振り向いてくれない』『この怒り、如何してくれようか』 少女は静かに足を踏み出した。 円を描くように、幾度も幾度も。 同じ場所へ戻り、また巡る。 その動きは、巴と呼ばれる。 怒りは前へ進まない。 行き場を失った悲しみは―――。
ただ同じ心を巡り続ける。『ああ、腹が立つ。腹が立つ』 囃子がピタリと止まった。 それに合わせ、少女の動きも止まる。 スッと少女の息を吸う音が聞こえた。『この怒り―――』 一寸の間。『如何してくれようか』 その瞬間、ドン、ドン、ドン、ドン。 大鼓の音が響く。心の臓を貫くように。 太鼓の音が響く。腹の底に溜まるように。 それに合わせ、笛が鳴る。 少女の悲鳴のように。 少女の身体が鞠のように跳ねた。 倒れ込み、立ち上がり、袖を翻し、
激しく舞う。 積もり積もった怒りが器から溢れた。 そんな風に見える。 その動きは、舞働と呼ばれる。 ―――同じ言葉の、繰り返し? シテがそう思った瞬間、少女と目が合う。 いいや、ただの錯覚だ。 あまりの怒りの大きさに、気圧されただけだ。『そう呟き、私は剣を手にした』 その瞬間、雪が降る。
そして、パンと音が鳴る。『六花の剣を己の心に、突き立てて』 怒りは、人を焼く炎ではない。 行き場を失った悲しみが、最後に灯した一輪の火だった。 イアが静かに呟く。『終演でございます』 その瞬間、吹雪が少女を覆う。 ―――なんだ、なんだこれは。『それでは、次の演目にて』 感じたことのない違和感。糸のように細く、行方がわからない違和感。 ――あ、そうか。そういう事か。 ふと、シテは思い出す。『願えば、辿り着く』 そうワキに言われたことを。 違和感の正体を知るために、シテは想う。 イアの元へ、行きたいと。