浄化
「......?」
湖の中で、美しい人物が水を浴びていた。
艶かしい濡羽色の髪。稀有な桃花眼。
陶器肌を覆う純白の布。
「イア、さっきのはなんなんだ!」
湖の中に立つイアに、シテは問う。
しかし、イアは首を傾げた。
「なんだ?誰だお前」
少し低い声音だった。
その言葉に、シテは歩み寄る足を止めた。
代わりに、物珍しい灰と碧の眼が見開かれた。
「忘れたのか?俺はシテだ」
その言葉に、イアはゆっくりと湖から地へと上がる。水の音が響き渡った。
一瞬、イアは桃花眼を開かせた。
「私はアイだ。少年、此処は神聖な場だ。どうやって来た」
その問いに、シテは「願った」と言う。
「......ふざけてるのか?」
「本気だ」
あまりにも透き通った眼差しに、アイは言う。
「なら、私の手を取れ少年。イアの元へ連れて行ってやる」
その瞬間、シテはアイと名乗る者の手を掴んでいた。
「俺の名はシテだ。...もう掴んだ」
その瞬間、目の前の風景が変わった。
いや、違う。
空間が二つに割れた。
その隙間から、イアが現れた。
湖の上でふわりと浮きながら、イアは二人を見つめた。稀有な桃花眼が少しだけ揺れた。
イアが現れたと同時に、空間はまた閉じた。
『シテ?それに、アイ』
イアの言葉を無視するかのようにアイは言う。
「イア、お前を探していたらしいぞこの少年が」
その言葉に、シテは顔を顰めた。
「俺はシテだ!イアとそっくりなお前、名を教えてくれ」
「アイだとさっき言ったばかりだ」
「そうだった、ごめん」
『シテ、どうし―――』
その瞬間、アイはイアを湖に引き摺り落とす。
水の立つ音が響く。
「イア、この少年はなんなんだ?」
『シテだよ』
「ふざけてるのか?」
「ふざけてない!」
その瞬間、イアの持つ桃花眼が弧を描いた。
『シテ、いい機会が訪れたな』
「少年、聞け」
「俺はシテだ」
「私が少年と呼ぶ理由を教えてやるから聞けと言っている」
「...分かった」
その瞬間、風景が変わった。
「此処は?」
シテは辺りを見渡した。
木目の美しい床。余計な装飾は一つもなく、ただ静寂だけが満ちている。
空間の中央に大きな鏡が置かれていた。
不思議なことに鏡に映るのはシテの姿だけだ。
イアも、アイも。この場所へ導いた二人の姿は、どこにも映らなかった。
「鏡の間だ」
アイは静かに告げた。
静寂な空間が、異質さを感じさせた。
「此処は舞台へ向かう者が最後に己を見る場所」
シテは鏡の中の自分を見つめた。
白髪、灰の眼。そして隠された碧の眼。
そこにいるのは、確かに自分だった。
けれど、どこか知らない誰かのようにも見えた。
「面を掛ける前に、一度自分自身を見る」
アイの声が響く。イアはそれを静かに聞く。
「何者として舞台に立つのか」
淡々と。
「何を残すために舞うのか」
淡々と。
「それを問い直すためにな」
そう語るアイの姿は、何処となく神秘的で、シテは思わず「奇麗だ」と呟いた。
「いいか少年。お前の名はそう呼ぶのかもしれんが、この世界において、シテとは舞台に上がる役者のことを言う」
その瞬間、アイの元に一つの仮面が現れた。
何も描かれていない面だった。
そして紙を筆をイアはアイに渡した。
「本来、シテは『仕手』と書く。だが、我々は『死手』と呼ぶ。死者に差し伸べる最後の手という意味だ」
その面に優しく触れる。
「私たちは、死者の想いを舞台にする役者。その名はシテ。おいそれとその名を口にする事は許されないんだ」
ゆっくりと語るアイをシテは見つめる。
「だから、私はお前のことを少年と呼ぶ」
一点の曇りもない、眼差しだった。
「わかった!じゃあアイ、質問いいか」
「なんだ」
「あの舞台は少女じゃない。なんでだ?」
その問いに、イアは『鋭いね』と言う。
「あれは怒りじゃない、悲しみだ」
シテはそう言う。
その言葉に、アイとイアは目を合わせた。
二人が並べば、血の繋がった者に見える。
「あの少女は怒りを抱いていた。それは、母がいつも同じことを言うからだ」
少し悲しげに眼が伏せられた。
「悲しんでたのに、なんで怒らせたんだ。おかしいと思ったんだ...『夫は帰らず、娘は振り向かない』って、どう考えても少女の言葉じゃない!」
その言葉に、イアが口を開いたがアイが手で制した。
「少年、怒りは誰に向けられていたと思う?」
「...母親か?」
「正しくは、母自身だ」
「どういう事だ?」
「言っただろう。同じ言葉を言う母に怒りを感じていたと」
稀有な桃花眼は、しっかりとシテを捉えた。
「その怒りを少女はずっと、死ぬまで隠してきた。漸く、その怒りを口にすることができたのだ」
『腹が立つ、腹が立つ』
「泣きながらそう呟く少女の声は、確かに我らが受け取った」
「......」
「これ以上は話さない。もう帰れ少年」
そう言い、アイは人差し指を軽く曲げた。
その瞬間、シテは宿泊所の前にいた。