水鏡
小鳥の囀りと眩しい太陽が暁を知らせた。
宿の外では、水の流れる音だけが響いている。
シテは一人、橋の袂に立っていた。
水面を覗き見る。
そこに映るはずの自分の姿を、
ただただ、静かに見つめる。
「......」
透き通る白髪。重たげに開く灰色と碧色の眼。中性的な顔立ち。
「.........」
シテは、自身の顔を水面越しに見つめていた。
『何を見ている』
ふと、声がした。
後ろを振り向くと、イアが立っていた。
濡羽色の艶やかな髪は一つに束ねられていた。
稀有な桃花眼は宝石のように輝いている。
「鏡」
『水面がか?』
その言葉に、シテはもう一度水を見つめた。
「水は、とても神聖だからな」
あまりにも透き通る声音だった。
自然と、イアの背筋が伸びた。
『私も隣に座っていいか?』
「いいよ」
その言葉と共に、イアはシテの隣に座る。
一寸の間の沈黙だった。
その沈黙を優しく開くように、シテは問う。
「なあ、イア」
『聞きたいことは、もう分かるよ』
その言葉に、シテは顔を曇らせた。
先日に起きた死者の乗っ取り事件の影響により、イアとアイが負傷。
その事実は、すぐに広まった。
『慚は、極めて特殊な事例だった』
「そうなのか」
水がゆらゆらと揺れる。
『本来なら、私が心の間へ入り、本心を視る』
ゆらゆらと。ゆらゆらと。
『その記憶を元に、アイが面を作る』
水が静かに、揺れている。
『そして舞台が始まる頃には、その魂はもう旅立っている』
ゆらゆらと。ゆらゆらと。
「え?」
魂が静かに、揺れている。
『だから舞台に立つのは本人じゃない』
ゆらゆらと。ゆらゆらと。
『魂を宿した面を、アイが演じるんだ』
イアの心が、揺れている。
『アイは、他人の人生を借りて舞う』
その言葉を聞き、漸く納得がいった。
何故、あの時面をかけたのがシテではなくアイだったのか。
それは、アイこそが面を創り、面をかけ、舞う役者だったからなのだと。
「...アイを名付けたのは誰だ?」
ふとした疑問は、すぐに言葉となった。
言ってからシテは少しだけ後悔した。
何故そんな事を聞いたのか、自分でもわからなかったからだ。
『分からん。生まれた時には既に決まっていた』
「...イアもか?」
『いいや、私は忌み子なんだ』
その言葉に、シテの眼が見開く。
『双子なんだ、私とアイは』
「何故、双子が忌み子になる」
『本来持つはずの力を、片方が吸い取ってしまう。巫一族の力を、私が吸い取ってしまったみたいだ...本当なら、心の中に入る力もアイが持つはずだったんだ』
悲しげに語るイアに、シテは戸惑う。
理解ができなかったのだ。
『アイという名は『狂言』で語りを担う者の名でもある』
イアはゆっくりと深呼吸をした。
その姿は、懺悔するかのように静かだった。
『そして、この世界ではアイは『私』でもある』
桃花眼は、海のように揺れた。
『だから、アイは他者の人生を借りて舞う』
海から雫が頬を伝う。
『反対の名を授けられた私は...忌み子なんだ』
「...イア、太陽と月って知ってるか?」
『知ってるに決まっているだろう』
「太陽は月を羨み、月は太陽を羨むんだ」
『...うん?』
「太陽は月の淡い光に恋焦がれ」
「月は太陽の暖かな光に憧れる」
『......』
「太陽と月が互いを羨むように」
ゆっくりと、シテはイアを見つめた。
「お前達も、互いを羨んでいるだけだ」
一点の曇りもない眼差しで、語る。
「お前は力を奪ったんじゃない、分け合った」
淡々と。しかし綿毛のように柔らかく。
「お前は、アイの大切な家族なのだろう」
シテはそれ以上、何も言わなかった。
水面には、シテとイアが並んで映っている。
揺れているのは、水面か。
それとも、イアの心だったのか。