ホーム数寄の長者―竹馬之友篇―序服 安赦帰堺(弐)
← 前の話目次次の話 →

序服 安赦帰堺(弐)

あんゆるされてさかいに帰る

 伯父がはたを変えなかったのは、父が母を深く愛していたことを知っていて、そのことを自分に知らしめるためにも変えなかったのではないかと素直に思えた。

「そういうことか」

 四郎右衛門田中紹安は母も父を愛していたが、時代の流れと家と言うものがどうしても二人の溝となったことに気がついた。父とてどうして苦しまずに居られようか。

 茂吉によれば、堺にも既に赦免の話は届いていたらしく、みせの者らもいつ四郎右衛門田中紹安が戻るかと心待ちにしていた。出てきた者の中には表弟いとこひょうの姿もある。喜兵衛渡辺道通は和泉国牧野のうを屋の屋号を持つ商人である。父ははち彦右衛門いえまさに仕えた渡辺あたるで、利休の妹との間に生まれた子である。天正年間に渡辺直が亡くなったため、与四郎田中宗易が養育し、四郎右衛門田中紹安と共に育った。

四郎右衛門田中紹安!」

 その声は少ししわがれていて、父に似ていると四郎右衛門田中紹安には感じられた。それは伯父おじ与一郎田中康隆のものである。慌てて奥から出てきたのだろう、少しばかり息を切らしていた。横で支えているのは堂弟いとこ五郎左衛門田中紹二で、叔父おじ与五郎田中宗把の子で三妹・莉玖の夫でもある。その向こうにいるのは六郎右衛門水落紹和で、季父おじみずおち与六郎そうけいの子だ。

「ご無沙汰いたしました」
「何を言うか。よう、戻ったな」

 与一郎田中康隆は、これで肩の荷が下りるという顔をして、四郎右衛門田中紹安の肩に手を載せる。その手の軽さに伯父の苦労が偲ばれ、四郎右衛門田中紹安はその場で深々と頭を下げた。与四郎田中宗易の切腹に際して四郎右衛門田中紹安が連座したため、与一郎田中康隆は主のない鵆屋の商いを支えてくれている。五郎左衛門田中紹二六郎右衛門水落紹和与一郎田中康隆を輔けて番頭をしていた。

「伯父上に御迷惑はござりませんでしたか」
「儂のことなどどうでもよい。そなたは不自由せなんだか」
「はい。金森様のお陰で」
「ならば好い」

 与一郎田中康隆の目に涙が浮かんでいた。実の弟に先立たれ、わかい甥までが短命に終わってはやるせない。せめて、自分が目の黒い内は――と思うのは、子のない与一郎田中康隆の親心、四郎右衛門田中紹安は子も同然なのだ。

 金森様とは、飛騨高山藩三万八千石の金森出雲守ありしげのことである。可重の父・金森飛騨入道げんは利休の弟子で、四郎右衛門田中紹安を案じてくれたのだ。

 藩とは、明治以降に公称となった歴史用語で、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことをいう。古代中国の周で、王室を護衛する諸侯を藩または藩屛と呼んだのが由来とされる。転じて、国を冊封された諸侯一般、およびその領地を指すようになったが、この当時は使われていなかった。江戸時代になると領分と呼ばれるようになるが、呼称としては侯であり、幕府の命も藩主個人宛に出されており、金森家や高山侯というのが実情に近い。

 金森家に匿われた四郎右衛門田中紹安喜兵衛渡辺道通に鵆屋の支店を出させ、塩の取引を任せている。それを聞いた金森家が御用達の塩商人として贔屓ひいきにしてくれたため、それ以前とは比べ物にならぬほど稼業は安定した。塩を産さぬ飛騨では塩の確保は貴重であることも理由の一つであったが、金森ありしげとその嗣子・左兵衛しげちか四郎右衛門田中紹安に弟子入りしたことも一因である。

 この金森重近が後に姫宗和と呼ばれ、現代に続く茶陶の作家や塗師を見出し、のちにその雅な茶風で一世を風靡した。また、同年紀州和歌山城主となった桑山修理亮重晴の三子・桑山左近大夫宗仙が同門であり、桑山宗仙は後に片桐石見守貞昌――三寂宗関片桐石州の師となって、た四郎右衛門田中紹安の茶統が江戸時代の中心となる繋ぎの役目を果たすが、これらは別の物語である。

「母の供養も儘なりませんで」
「仕方あるまいよ。今日はゆっくりして、明日にでも往くが好い。儂も共をさせてもらう。商売は六郎右衛門水落紹和も頼りになるでな」
「私が頼りないとの当て擦りですか?」

 横から笑いしながら五郎左衛門田中紹二が軽口を挟む。あぁ、そうだ、これこそが家であった――と、四郎右衛門田中紹安は心の底から安堵した。
シェア
← 前の話
序服 安赦帰堺(壱)
次の話 →
序服 安赦帰堺(参)
数寄の長者―竹馬之友篇―作者:月桑庵曲斎
目次を見る
✍️
まだ感想がありません
あなたの一言が、作者の次の一話につながります。
最初の感想を書いてみませんか?
コメント0
ログインしてコメントする
まだコメントがありません
ホーム数寄の長者―竹馬之友篇―序服 安赦帰堺(弐)
← 前の話目次次の話 →

序服 安赦帰堺(弐)

あんゆるされてさかいに帰る

 伯父がはたを変えなかったのは、父が母を深く愛していたことを知っていて、そのことを自分に知らしめるためにも変えなかったのではないかと素直に思えた。

「そういうことか」

 四郎右衛門田中紹安は母も父を愛していたが、時代の流れと家と言うものがどうしても二人の溝となったことに気がついた。父とてどうして苦しまずに居られようか。

 茂吉によれば、堺にも既に赦免の話は届いていたらしく、みせの者らもいつ四郎右衛門田中紹安が戻るかと心待ちにしていた。出てきた者の中には表弟いとこひょうの姿もある。喜兵衛渡辺道通は和泉国牧野のうを屋の屋号を持つ商人である。父ははち彦右衛門いえまさに仕えた渡辺あたるで、利休の妹との間に生まれた子である。天正年間に渡辺直が亡くなったため、与四郎田中宗易が養育し、四郎右衛門田中紹安と共に育った。

四郎右衛門田中紹安!」

 その声は少ししわがれていて、父に似ていると四郎右衛門田中紹安には感じられた。それは伯父おじ与一郎田中康隆のものである。慌てて奥から出てきたのだろう、少しばかり息を切らしていた。横で支えているのは堂弟いとこ五郎左衛門田中紹二で、叔父おじ与五郎田中宗把の子で三妹・莉玖の夫でもある。その向こうにいるのは六郎右衛門水落紹和で、季父おじみずおち与六郎そうけいの子だ。

「ご無沙汰いたしました」
「何を言うか。よう、戻ったな」

 与一郎田中康隆は、これで肩の荷が下りるという顔をして、四郎右衛門田中紹安の肩に手を載せる。その手の軽さに伯父の苦労が偲ばれ、四郎右衛門田中紹安はその場で深々と頭を下げた。与四郎田中宗易の切腹に際して四郎右衛門田中紹安が連座したため、与一郎田中康隆は主のない鵆屋の商いを支えてくれている。五郎左衛門田中紹二六郎右衛門水落紹和与一郎田中康隆を輔けて番頭をしていた。

「伯父上に御迷惑はござりませんでしたか」
「儂のことなどどうでもよい。そなたは不自由せなんだか」
「はい。金森様のお陰で」
「ならば好い」

 与一郎田中康隆の目に涙が浮かんでいた。実の弟に先立たれ、わかい甥までが短命に終わってはやるせない。せめて、自分が目の黒い内は――と思うのは、子のない与一郎田中康隆の親心、四郎右衛門田中紹安は子も同然なのだ。

 金森様とは、飛騨高山藩三万八千石の金森出雲守ありしげのことである。可重の父・金森飛騨入道げんは利休の弟子で、四郎右衛門田中紹安を案じてくれたのだ。

 藩とは、明治以降に公称となった歴史用語で、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことをいう。古代中国の周で、王室を護衛する諸侯を藩または藩屛と呼んだのが由来とされる。転じて、国を冊封された諸侯一般、およびその領地を指すようになったが、この当時は使われていなかった。江戸時代になると領分と呼ばれるようになるが、呼称としては侯であり、幕府の命も藩主個人宛に出されており、金森家や高山侯というのが実情に近い。

 金森家に匿われた四郎右衛門田中紹安喜兵衛渡辺道通に鵆屋の支店を出させ、塩の取引を任せている。それを聞いた金森家が御用達の塩商人として贔屓ひいきにしてくれたため、それ以前とは比べ物にならぬほど稼業は安定した。塩を産さぬ飛騨では塩の確保は貴重であることも理由の一つであったが、金森ありしげとその嗣子・左兵衛しげちか四郎右衛門田中紹安に弟子入りしたことも一因である。

 この金森重近が後に姫宗和と呼ばれ、現代に続く茶陶の作家や塗師を見出し、のちにその雅な茶風で一世を風靡した。また、同年紀州和歌山城主となった桑山修理亮重晴の三子・桑山左近大夫宗仙が同門であり、桑山宗仙は後に片桐石見守貞昌――三寂宗関片桐石州の師となって、た四郎右衛門田中紹安の茶統が江戸時代の中心となる繋ぎの役目を果たすが、これらは別の物語である。

「母の供養も儘なりませんで」
「仕方あるまいよ。今日はゆっくりして、明日にでも往くが好い。儂も共をさせてもらう。商売は六郎右衛門水落紹和も頼りになるでな」
「私が頼りないとの当て擦りですか?」

 横から笑いしながら五郎左衛門田中紹二が軽口を挟む。あぁ、そうだ、これこそが家であった――と、四郎右衛門田中紹安は心の底から安堵した。
シェア
← 前の話
序服 安赦帰堺(壱)
次の話 →
序服 安赦帰堺(参)
数寄の長者―竹馬之友篇―作者:月桑庵曲斎
目次
✍️
まだ感想がありません
あなたの一言が、作者の次の一話につながります。
最初の感想を書いてみませんか?
コメント0
ログインしてコメントする
まだコメントがありません