序服 安赦帰堺(参)
安赦されて堺に帰る
言いたいことを溜め込まず、気軽に言い合う――あの父でさえ、口数は多い方だった。
「堂兄あっての鵆屋ですからね。最近は他の土地からも塩を扱うようになりまして、蝦夷の――」
「その辺にしておけ。いつまで四郎右衛門を立たせておくつもりだ」
五郎左衛門を持ち上げるように六郎右衛門が花を持たせようとするが、呆れ顔の与一郎が話を遮った。
四郎右衛門が阿波の塩を取り扱い始めたのは、舅父・三好筑前守長慶が亡くなり実家を支えようとする母・伊音と、三好宗家と距離を取り始めた父がすれ違い始めた二十歳の頃だった。
それまで堺の塩は芸予諸島――即ち安芸国と伊予国の島嶼に覇を唱えた村上水軍に頼りがちであったため、三好氏は独自の流通を狙っていた。そこで、四郎右衛門は父とは別に商売をしはじめ、阿波の海塩を取り扱い始めたのである。
粟屋を起ち上げた四郎右衛門は三好家を後ろ盾として商売を広げていった。そして、塩だけでなく、藍などの染料も取り扱い始め、阿波の物産は粟屋に限るとまで言われるようになる。
十河民部大夫一存の子で、三好宗家を継ぐことになった表弟の三好左京大夫義継が織田信長に臣従してしばらくの後、その仲介で四郎右衛門はようやく父と十年越しの和解をした。そうなると、四郎右衛門も信長の茶頭として仕えた父の手伝いをするようになる。
信長の茶頭となった父は、羽柴筑前守秀吉と知遇を得て、懇意となり、四郎右衛門はどちらかというと秀吉の実弟・小一郎秀長や義弟・木下弥助吉房と交流するようになっていった。その中で本能寺の変が起こり、秀吉が天下人へと躍り出る。父とともに四郎右衛門も羽柴家を経済面から支える政商としての道を歩むことになった。この頃には粟屋の屋号を下げ、鵆屋の屋号を用いている。これは父・与四郎が鵆屋の家督を伯父・与一郎から譲られたからであった。
天下も定まり、平穏な世になると思っていた天正十九年、今度は父が切腹させられてしまう。それも、天下人・豊臣秀吉の勘気を被ったからだ。四郎右衛門も共に秀吉の茶頭として仕えており、これ連座して蟄居、洛外追放となった。
そして、利休の切腹より三年経った。
妹婿の四郎左衛門――竹田宗淳、庵号を少庵は利休の後妻・宗恩の連子である。父は能楽師の金春家の庶流で宮王と冠した竹田三郎鑑氏だ。四郎左衛門は流寓していた処を蒲生飛騨守氏郷に匿われ会津若松で蟄居し、その間に麟庵――後の麟閣を建てている。
ようやく秀吉の勘気が解け、利休の弟子である蒲生氏郷・細川越中守忠興・古田織部助重然らや徳川内大臣家康の働きかけもあり、四郎右衛門と四郎左衛門は赦された。先に京に入ったのは四郎左衛門で、それを聞いた素玄に請われ、四郎右衛門はようやく重い腰を上げたのだった。
四郎右衛門自身は飛騨高山の隠居暮らしが気に入っていたのだが、妹婿が戻ったのに、利休の嫡子が戻らぬというのも秀吉から再度の勘気を被ることになりかねないと、弟子の金森可重・重近父子にも説得され、致し方なしと京へ向かったに過ぎない。
「四郎右衛門さま......」
奥から妻・登喜も出てきた。四郎右衛門の目頭が熱くなる。利休の死から三年もの間、文の遣り取りしかできなかったのだ。ここには、血の繋がらない身内は居ない。あふれる涙を隠すことなく、四郎右衛門は登喜を抱きしめた。
「苦労を掛けたな、於登喜」
「男君......」
気付けば、近所の人々も何事かと顔を出していた。追っ付け、天王寺屋の津田家や薬屋の今井家からも人が来よう。
「いつまでも立ったままでもなんですから、中でゆっくりいたしましょう」
喜兵衛が気を利かせて中へ誘う。四郎右衛門は喜兵衛に頷き返し、登喜を支えながら、与一郎へと微笑んで、中へと姿を消した。与一郎は、その後ろ姿を見て「よう似ておる......」と零した。