第6話 水の内側
南門を抜けると、石畳は引き締まった土の道へ変わった。
風が草の穂先を同じ向きへ倒し、その向こうから水の音が届いてくる。土の道を折れ、音を頼りに歩くと、十数分ほどで川べりへ出た。
川幅は十メートルほど。透き通った水が、丸みを帯びた石の間を縫って流れている。人影はなく、遠くに街道沿いの木々が見えるだけだった。
俺は岸辺の平らな岩へ腰を下ろした。
セイの言葉が、まだ耳に残っている。
『魔法はね、使う奴の頭に引っぱられるんだよ』
『何を出すかじゃない。何をさせると思ってるかだ』
手のひらを広げた。
昨日試したのは、拳ほどの水球だった。メニューに表示された水魔法という言葉と、そこから思い浮かべた形に従い、丸い塊を作って岩へ飛ばした。
「......まずは、同じものからだな」
意識を手のひらへ集める。
冷たさが生まれ、水が集まった。
拳ほどの水球が、手の上へ浮かぶ。
昨日と同じだ。
手を少し傾けても、水球は丸い形を保ったままついてくる。
だが、現実の液体は、そんな行儀の良い球体のままであり続けることなど、ほとんどない。
流れる。跳ねる。薄く広がる。隙間へ入り込む。
俺が知っている水は、いつも形を変えていた。
「......次は、流す」
水球を丸く保とうとする意識を緩めた。
形が崩れる。
水が手のひらへ落ち、指の間を抜けて岩へ流れた。
慌てて指先へ意識を向ける。
落ちかけた水の一部が細い筋になり、指先へ集まった。
だが、長くは保たない。
そのまま水滴になって岩へ落ちた。
「なるほど」
作った水でも、球の形を崩すことはできる。
次に川へ目を向けた。
ここには、最初から水がある。
昨日は自分で作った水しか触っていない。
目の前を流れている水にも、同じことができるのか。
岩から腰を上げ、岸近くまで降りた。
右手の指先を川へ浸す。
冷たい水が指の間を抜けていく。
手のひらへ水球を作った時と同じように、指先へ意識を集めた。
何も変わらない。
流れはそのまま指へ当たり、脇を抜けていく。
「......分かりにくいな」
流れている水の中で少し動いたところで、それが魔法なのか川の流れなのか区別がつかない。
少し場所を変えた。
岸際の大きな石の陰では、流れが弱くなっている。
指先を浸し、その周りだけへ意識を絞る。
水面が小さく揺れた。
風かもしれない。
もう一度。
今度は、手元へ寄せるつもりで意識する。
水面がわずかに持ち上がった。
「お」
すぐに崩れた。
流れへ戻った水を見ながら、もう一度同じ場所へ集中する。
今度は、一気に持ち上げようとしない。
指先へ寄せる。
水が指へ触れた。
そこから、指の背へ。
細い水の筋が、流れに逆らって指へ沿う。
指の付け根まで来たところで切れ、川へ落ちた。
「......動いたな」
もう一度。
指先。
指の背。
手のひら。
少しずつ場所を変える。
今度は、少量の水が手の上まで上がった。
丸くまとめる。
拳よりずっと小さい水球が、手のひらの上に残った。
自分で作った水ではない。
川を流れていた水だ。
それでも、同じように動かせる。
なら、次は丸くする必要もない。
水球の形を解く。
指先から手のひらへ、細い流れを作る。
細い水の筋が、指の間を抜けて手のひらを滑った。
手首まで回り込ませようとした途端、水の筋が切れ、水滴になって岩へ落ちた。
「お......っと」
持ち上げるだけならできる。
形を変えながら動かすと、途端に難しくなる。
もう一度、川から水を引き上げる。
今度は指の背へ沿わせ、薄く広げた。
水が手肌を包む。
指の間だけが厚くなり、手首側から崩れた。数秒も保たない。薄く広げるほど、全体を繋ぎ止めるのが難しくなる。
何度か形を変え、やや太く整え直す。
今度は手肌へ沿い、指の屈伸にも一瞬だけついてきた。
その流れを前へ押し出す。
細く伸びた水は、狙った岩の手前で形を失い、川面へ落ちた。
「なるほど......一筋縄じゃいかないな」
手に残った冷たさを確かめながら、俺は息を吐いた。
少し頭が重い。昨日と同じだ。
魔法を使い続けると倒れるのかも知れない。
無制限に魔法が使えるわけではない。
思い描いただけで、何でもできるわけでもない。
水を作る。
形を崩す。
そこにある水を動かす。
持ち上げる。
別の形にして動かす。
一つずつならできても、重ねるほど難しくなる。
それでも、昨日とは手応えが違った。
水球を作るだけだったものが、少しずつ別の使い方へ広がっている。
俺はしばらく、川の流れを見た。
流れているのは、外の川だけではない。
身体の大半は水分でできている。血管の中を休むことなく巡る血液も、多くの水分を含んだ流体だ。
三十年、俺は身体の表面に現れるその流れの変化を確かめ続けてきた。
幾人もの患者の腕へ触れ、脈を拾い、指先の色や温度を見てきた。心臓から押し出され、太い血管から枝分かれし、末梢へ届き、また戻る。その流れなら、目を閉じても具体的に思い描ける。
右手の二本の指を、左手首の内側へ当てた。
トックン、トックン、トックン。
十八歳の心臓が送り出す、規則正しい拍動が伝わってくる。
そのまま意識を、自分の身体の内側へ向けた。
外の川に最初からあった水へ向けたものと同じ集中を、皮膚の一枚下へ沈めていく。
温かいものが、脈に押されて指先へ届いている。細い道へ枝分かれし、見えない先へ抜けていく。その方向と周期が、触れていない場所まで続いているように感じられた。
分かる。
目で見ているわけではない。脈動と温度の変化から、内側の流れが輪郭を持って伝わってくる。
手首へ当てた二本の指は、脈へ触れたまま動かさない。
俺は意識だけを、左手の人差し指の先、ごく狭い範囲へ絞った。
完全に止めるのではない。
指先へ届く勢いへ、ほんの少し抵抗をかける。
すぐに反応が返ってきた。
指腹の温度がわずかに下がる。爪床の赤みが薄れ、じんと痺れる手前の違和感が走った。
そこで、すぐに意識を解いた。
温かさが戻る。
爪床へ赤みが差し、違和感も消えていった。
「......あ」
声にならない息が漏れた。
手首へ当てていた指を、すぐには離せなかった。
もう一度、左右の指先を見比べる。
色。温度。曲げ伸ばしした時の感覚。
どれも元へ戻っている。
三十年見続けてきたものが、この世界では魔法として使える。
そう考え終えるより先に、右手の二本指が、また左手首へ戻っていた。
同じ場所へ、同じだけ抵抗をかける。
温度が下がり、爪床の赤みが引いていく。
今度は、そうなると分かっていた。
分かっていて、それでも面白い。
口の端が、ひとりでに上がる。
もう一度。
もう一度。
考えるより先に、手が動いていた。
気づけば、西日が傾き始めていた。
もう一度、左手を握りかけて、止めた。
息を一つ、深く入れる。
上がっていた熱が、ゆっくり引いていく。
視界の端へ表示を呼び出し、スキル欄を開く。
水魔法。
システム上の表記でしかないその文字が、ひどく生々しいものに感じられた。
できる。
その事実だけで、また頬が緩みかけた。
だが、加減も限界も分かっていない。
自分の指先なら、色と温度を見ながら止められる。それでも、見えない場所まで元どおりかを確かめる手段も、何か起きたときに元へ戻す手段もなかった。
まして、他人の身体で試すことはできない。
昼間、セイが話していたことを思い出した。
腕に重さが残った。
温かかった身体が、ゆっくり冷たくなった。
次の日、市場へ行けば、いつもの場所だけが空いていた。
俺がこれまでNPCだと思っていた者たちが、本当は何なのか。
まだ分からない。
だが、セイの腕に残った重さまで知った今、人間ではないものとして扱うことはできなかった。
血の流れは分かる。
それで十分だ。
これ以上動かすのは、必要になるまでやめておこう。
そう結論を出してから、口元へ手を当てた。
指先の下で、俺の口の端がまた持ち上がっていた。
俺は岩へ座り直し、しばらく時間を置いた。
何度か指先を曲げ伸ばし、左右の色と温度を比べる。
違和感は戻らない。
脈も変わっていない。
それを確認してから、川の水を両手ですくい、顔を洗った。
冷たさが火照った皮膚を抜けていく。
顔を上げると、西の空はもう茜色へ変わり始めていた。
思っていたより長く、指先を確かめていたらしい。
帰る方法は、まだ分からない。
それでも、今夜の飯を食べ、宿へ戻って寝る。
明日のことは、その後で考えればいい。
街へ戻る前に、もう一度だけ左手の人差し指を確かめた。
色も温度も、もう左右で違いはなかった。
◆
宿へ戻った頃には、日が沈みかけていた。
水の形を確かめ、指先の血の流れを何度も確かめる。
それだけの時間に、思ったより体力と気力を使っていた。
夕飯を済ませ、水で身体を拭き、部屋へ戻る頃には、ようやく一日分の疲れが肩に乗ってきた。
寝台へ腰を下ろす。
藁のマットレスが、小さく鳴った。
鍵を取り出し、扉にかける。
ガチャリ、と重い音がした。
その音を聞いた瞬間、昼間は押し込めていたものが急に近くなった。
鼓動が速い。
手首へ指を当てると、鼓動が返ってきた。
数えるつもりはなかったのに、頭が勝手に脈を拾う。
普段より、明らかに速い。
セイの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
前触れなく消えた落人。
戻ってきた者はいない。
婆さんは残った。
全部、他人の話として聞いたつもりだった。
今も、多分そう思っている。
それでも、身体は勝手に反応していた。
一週間の休暇。
旅行へ行くとは言っていない。
誰かと会う約束もない。
家でゆっくりするとだけ伝えて、食料も先に買ってある。
一週間、部屋から出なくても不自然ではないように、自分で整えてきた。
病院から連絡が来ることもない。
休暇中なのだから、来ないようにしてきた。
誰にも邪魔されずに遊ぶための一週間だった。
その意味が、今になって裏返る。
誰も来ない。
機器の異常が外へ伝わらなければ、休暇が終わるまで、俺が動かなくなったことに誰も気づかないかもしれない。
職場のロッカーには白衣を置いたままだ。
休暇明けの勤務表もある。
申し送りの時に「ゆっくりしてください」と言った同僚の顔まで浮かんだ。
休暇明けに出勤しなければ、俺へ電話がかかる。
返事がなければ、何かあったのではと誰かが考える。
そこまでだ。
今夜ではない。
明日でもない。
手が、わずかに震えていた。
深く息を吸う。
うまく入らず、途中で止まる。
もう一度、ゆっくり吸う。
一週間後の現実側の身体がどうなるか。
考えようとすれば、具体的に想像できた。
だから、そこで止めた。
見えないものを考え続けるな。
落人が消えたことも、婆さんが残ったことも、今夜すぐに答えの出ることではない。
枕元へ鍵を置いた。
手を伸ばせば触れられる場所だ。
しばらく、震えが収まるのを待った。
......こんなものは、慣れている。
病棟で、急変の一報を受けた直後もそうだった。
手は震えても、足は動く。
動きながら整えればいい。
自分以外の誰かの命に関わることではない。
そう考えると、呼吸が少し楽になった。
帰る方法を探して、ダンジョンを潜っている落人たちがいる。
セイは、帰ることを一番に考えるなら、そいつらを探して話を聞くのも手だと言っていた。
明日、ギルドで聞けばいい。
どこにいるのか。
どこまで潜ったのか。
何を手掛かりにしているのか。
聞こうと思えば、聞ける。
そこまで考えて、今日の自分を思い返した。
俺がセイに聞いたのは、消えた落人のことや、死んだ者のことだった。
帰る方法を探している連中については、それ以上尋ねなかった。
その後に考えていたのも、宿代をどうするか、水魔法をどう使うか、今夜は何を食べるかだった。
帰りたくないと決めたわけではない。
帰れるなら、その方法は知りたい。
ただ、今すぐそこへ向かわなければならないとも思っていなかった。
今夜、俺を呼ぶ者はいない。
ナースコールも、内線も、廊下を走る靴音もない。
それが、妙に皮肉に思えた。
水を一口飲んだ。
冷たさが舌を通り、喉へ落ちる。
飲んだ感覚だけは、はっきりしていた。
目を閉じると、部屋の匂いが濃く感じられた。
古い木。
乾いた藁。
窓から入る夜風。
消毒液の匂いは、どこにもなかった。
朝になれば、また腹が減る。
起きたら、まず飯を食おう。
そう決めて、俺は無理やり眠りについた。