第5話 生きな
地上へ出ても、「婆さんは残った」というセイの言葉と、杯を置く手が止まった時の沈黙が頭から離れなかった。
ギルドの前には、朝より人が増えていた。
依頼を終えて戻ってきたらしい冒険者が、泥のついた靴で入口を塞いでいる。受付から呼ぶ声がして、荷物を抱えた男が慌てて脇へ寄った。
俺は人の流れを避けて道の端へ立った。
ここで立ち去れば、分からないことを分からないまま飲み込むことになる。
セイはもう行けと言った。言いたくない話なのだろう。
それでも、婆さんが残ったという言葉を聞いたまま、分かったつもりで帰るのも違う気がした。
聞くかどうかは、俺が決められる。答えるかどうかは、セイが決めればいい。
「......もう一度だけ」
誰に言うでもなく呟き、俺はギルドへ足を引き返した。
◆
半地下へ続く階段は、先ほどより暗く感じられた。
酒場へ降りると、客が一人増えていた。
入口近くの卓で、赤ら顔の男が遅い朝食を食べている。奥の壁際では、セイが先ほどと同じ席に座っていた。
俺が近づくと、セイは顔を上げずに鼻で短く息を吐いた。
空だったはずの杯には、また酒が入っている。
「忘れ物かい、坊や」
「いえ」
「じゃあ、物好きだね」
さっきまで座っていた椅子は、そのままになっていた。俺はすぐには引かず、卓の脇に立った。
「もう少しだけ、お婆さんのことを聞いてもいいですか」
セイの指が杯の縁で止まった。返事はない。断られたなら、それで帰ろうと思った。
酒場の奥で、木の器が卓へ置かれる音がした。入口近くの男が、店主へパンをもう一つ頼んでいる。
静けさの中に、生活の雑音が遠く混ざっていた。
セイは杯を一度持ち上げ、飲まずに戻した。
「......座りな」
「ありがとうございます」
「だから、礼は早いって言ってるだろ」
椅子を引くと、脚が石床を擦って低い音を立てた。セイはそれを嫌そうに見てから、視線を杯へ戻した。
「何が聞きたい」
「お婆さんが、残ったということです」
「そのままの意味さ」
「落人ではなかったんですか」
「ああ。この街で生まれて、この街で年を取った婆さんだよ」
セイは杯を指先で回した。中の酒が、縁に沿ってゆっくり揺れる。
「あたしがここへ来て、まだふた月も経ってなかった頃だったかね。金がなくなって、何日かまともに食べてなかった」
「依頼は受けていなかったんですか」
「失敗続きさ。今みたいに剣が使えたわけでもない。帰り方ばかり探して、食うことを後回しにしてた」
口元だけが笑った。だが、声には笑いがなかった。
「路地で座り込んでたら、籠を持った婆さんに見つかった」
「そこで助けられたんですか」
「助けたなんて大層な顔はしてなかったよ。立てるかって聞かれて、無理だって言ったら、頭をひっぱたかれた」
「......なぜでしょう」
「立てないなら最初からそう言え、だとさ」
その言葉だけ、さっきまでより声が柔らかかった。
「汚い小屋へ連れていかれて、一週間、寝かされた。薄いスープと、ちぎったパンを食わされたよ。吐いた日は、食えるまで量を減らして、嫌がってもまた出してきた」
「どうして助けたのか、聞いたんですか」
「聞いたよ」
セイは肩をすくめた。
「放っておけなかった。それだけだとさ」
「それだけ」
「ああ。それだけ」
セイは杯へ口をつけた。今度は一口だけ飲んだ。
「落人だからでも、珍しかったからでもない。あの婆さんには、あたしがどこから来たかなんてどうでもよかったんだろうね。腹を空かせた馬鹿が転がってた。だから拾った」
「一週間の後はどうしたんですか」
「追い出されたよ」
思わずセイを見ると、片方の眉が上がった。
「いつまで寝てる、働けってね」
「厳しい方ですね」
「飯代を返せとも言われたさ」
「返したんですか」
「婆さんが市場へ持っていく重い野菜籠を、何度も運んでやったよ」
「それで足りましたか」
「足りないって言われた」
「いつまで返してたんですか」
「去年まで返してた」
セイは、そこで黙った。俺も言葉を止めた。
去年。
正式サービスが始まって、現実ではまだ一か月ほどのはずだった。
セイはサービス開始の三日目か四日目にここへ来た。それなのに、この世界では、前年と呼べる時間が過ぎている。
季節の数え方が違うだけでは説明できないのかもしれない。
だが、どれほど違うのかは分からない。今ここで数字を組み立てても、材料が足りなかった。
「お婆さんは、去年亡くなったんですね」
「ああ」
セイの返事は短かった。
「病気ですか」
「寿命だったんだろうね」
杯を回していた指が止まる。
「冬になる前から、随分小さくなってた。飯も減った。立つのに時間がかかるようになって、それでも市場へ行くと言い張ってね」
老衰。現実の病棟でも、一つの病名だけでは説明できない衰えを何度も見てきた。
「最期は、小屋で?」
「あたしの腕の中だ」
セイは杯を見ていた。
「息が浅くなって、間が空いて。それでも、目だけは開いてた」
俺は何も言わずに待った。こういう時に、続きを促す言葉が役に立たないことは知っていた。
「手を握ったら、握り返された」
セイの右手が、卓の上でゆっくり閉じた。
「それで、笑って言ったんだよ」
声が一度途切れた。
酒場の入口から、外の光が細く差し込んでいる。舞った埃が、その中をゆっくり落ちていた。
「......生きな、ってね」
セイは笑わなかった。俺も、慰めの言葉を探さなかった。
似た場面には、仕事で何度も立ち会ってきた。だからといって、分かりますとは言えない。その人が失った相手は、一人しかいない。
「......そうでしたか」
それだけを返した。セイは顔を背けた。
「落人なら、そこで光になって消える」
「はい」
「婆さんは消えなかった」
セイの声は静かだった。
「腕に重さが残った。温かかった身体が、ゆっくり冷たくなった。目を閉じても、そこにいた」
俺は膝の上で手を組んだ。
遺体が残る。現実では当たり前だったことが、この世界では落人との明確な違いになる。
理由は分からない。落人だから消えるのか。この世界で生まれた者だから残るのか。別の条件があるのか。
ただ、セイが腕に抱いた身体は、演出のようには消えなかった。その重さの話を、今もこうして口にしている。
「この世界をゲームだと思えなくなった理由ですか」
尋ねてから、踏み込みすぎたと思った。セイはすぐには答えなかった。
「さあね」
やがて、乾いた声が返ってきた。
「ただ、婆さんを埋めた次の日も腹は減った。市場へ行けば、いつもの場所だけ空いてた。それだけさ」
現実で見てきたものと、何も変わらなかった。
俺がこれまでNPCだと思っていた者たちが何なのかは、まだ分からない。だが、お婆さんがセイに残したものまで、作り物だと決める理由はなかった。
俺は椅子へ座ったまま、深く頭を下げた。
「話してくださって、ありがとうございました」
「重い話を聞いて満足したかい」
「いいえ」
「じゃあ、何しに戻ってきた」
「知らないまま、勝手に意味を決めたくなかったので」
セイがこちらを見た。灰色の目が細くなる。
「面倒な坊やだねぇ」
「自覚はあります」
「そういうのは、もっと年を取ってから言うもんだよ」
「五十歳です」とは言えなかった。代わりに笑った。
セイは露骨に嫌そうな顔をして、杯を空にした。
しばらく、どちらも口を開かなかった。セイは空になった杯を指先で回し、やがて手を止めた。
「それで、あんたはこれからどうする」
話を切り替えたのはセイだった。
「まずは稼ぎます。宿代がありますから」
「夢がないね」
「帰る方法だけ探して、食べることを後回しにした方の話を聞いたので」
セイの視線が止まった。まずかったかと思ったが、次の瞬間、鼻から短い息が漏れた。
「言うようになったじゃないか」
「先ほど伺ったばかりです」
「性格が悪いねぇ」
「よく言われます」
そう言われるのは、親しい者からだけだった。悪い気はしなかった。
セイは俺の返事を信じたのかどうか、酒のなくなった杯を眺めていた。
「戦うなら、何が使える」
「剣術と水魔法です」
「剣は?」
「初日に選んだだけです。剣を構えたことはありません」
「使えるとは言わないよ、それは」
「やっぱりそうですよね」
俺は苦笑する。俺と同じ意見だった。
「水は?」
「昨日、手のひらへ水球を作りました」
セイが呆れたように眉を寄せた。
「球か」
「駄目でしたか」
「駄目じゃない。つまらないだけさ」
「魔法に、面白さが必要ですか」
「生き残るには発想が要る」
セイは卓のナイフを指先で押し、向きを変えた。
「来たばかりの落人は、だいたい同じものを作る。火なら球。水なら球。風なら刃。見たことのある形へ押し込む」
「説明にある形だからでは?」
「それもある」
セイは俺を見た。
「魔法はね、使う奴の頭に引っぱられるんだよ」
「頭に?」
「何を出すかじゃない。何をさせると思ってるかだ」
俺が黙っていると、セイは面倒そうに言葉を探した。
「水は丸いもんだと思ってりゃ、球にしやすい。流すものだと思えば流れになる。薄く広がるところを思い描けるなら、膜にもなる」
「思い描けば、何でもできるんですか」
「そこまで都合よくない」
セイはすぐに否定した。
「水しか使えない奴が、頭の中で炎を考えたところで燃えやしない。扱える量も距離も、本人の腕を越えない。薄く広げれば、そのぶん破れやすくなる。普通に球を作るより難しい」
「できる範囲の中なら、形や使い方を変えられるんですね」
「そういうことだ」
セイはナイフを持ち上げた。
「これだって、突くものだと思ってる奴は突くことしか考えない。縄を切る、木を削る、蓋をこじ開ける。道具は同じでも、使い道は一つじゃない」
刃をこちらへ向けず、柄の方を軽く持ち上げる。
「魔法も似たようなもんさ。できないと思ってる使い方は、試そうとも思わない」
昨日作った水球を思い出した。手のひらの上へ浮かんだ、拳ほどの水。俺は水を出すと考えた時、何の疑いもなく球を思い浮かべた。ゲームの魔法とはそういうものだと思っていたからだ。
だが、現実の水は、球でいる時間の方が少ない。流れる。落ちる。染み込む。薄く広がる。細い隙間へ入り込む。
「試す場所はありますか」
「水魔法をかい?」
「ええ。街中で失敗すると、迷惑になりそうなので」
セイは顎へ指を当てた。
「南の外れに川がある。人通りの少ない場所まで下れば、多少水を散らしても怒られないだろうさ」
「ありがとうございます」
「調子に乗って流されるんじゃないよ」
「この身体で泳げるかは、まだ確かめていません。ちなみに、向こうではカナヅチでした」
「なら入るな」
返事が早かった。
「気をつけます」
椅子から立ち上がる。今度は、脚が石床を擦らないよう持ち上げて引いた。セイがそれを見て、口元をわずかに歪めた。
「変なところだけ細かいね」
「気になりましたので」
「さっさと行きな、坊や」
「はい」
頭を下げ、卓を離れる。階段へ向かいかけたところで、後ろから声が飛んだ。
「ノワール」
初めて名前で呼ばれた。振り返る。セイは新しい酒を頼むでもなく、空の杯へ手を添えていた。
「婆さんの話は、よそでするんじゃないよ」
「しません」
それだけ答えた。セイはもうこちらを見なかった。
◆
地上へ戻ると、昼の光が石畳へ落ちていた。朝より風が暖かい。
通りには買い物籠を下げた女がいて、荷車を引く男がいて、子どもが二人、何かを追いかけて走っている。今は、一人ずつに朝があり、食べる物があり、帰る場所があるのだと思った。
あの人たちが何者なのかは、まだ分からない。けれど、目の前で生きていることまで疑う理由はなかった。
お婆さんは、腹を空かせたセイを放っておけなかった。セイは、お婆さんがいなくなった後も生きている。
――生きな。
短い言葉だった。命令だったのか、願いだったのか、俺には分からない。
頭を切り替え、南へ向かう道を探しながら、手のひらを開いた。
水球。最初に作れたことが嬉しくて、それ以外の形を考えもしなかった。
水は、丸いだけではない。流れにもなる。帯にも、膜にも、細い筋にもなる。どこまでできるのか、試してみたかった。
まずは、流すところから試してみよう。
俺は街の南へ向かった。川の場所は、道を聞けば分かるだろう。
開いた手の上に、まだ水はなかった。それでも、さっきまでより多くの形が見える気がした。