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第5話 生きな


 地上へ出ても、「婆さんは残った」というセイの言葉と、杯を置く手が止まった時の沈黙が頭から離れなかった。

 ギルドの前には、朝より人が増えていた。

 依頼を終えて戻ってきたらしい冒険者が、泥のついた靴で入口を塞いでいる。受付から呼ぶ声がして、荷物を抱えた男が慌てて脇へ寄った。

 俺は人の流れを避けて道の端へ立った。

 ここで立ち去れば、分からないことを分からないまま飲み込むことになる。

 セイはもう行けと言った。言いたくない話なのだろう。

 それでも、婆さんが残ったという言葉を聞いたまま、分かったつもりで帰るのも違う気がした。

 聞くかどうかは、俺が決められる。答えるかどうかは、セイが決めればいい。

「......もう一度だけ」

 誰に言うでもなく呟き、俺はギルドへ足を引き返した。

◆

 半地下へ続く階段は、先ほどより暗く感じられた。

 酒場へ降りると、客が一人増えていた。

 入口近くの卓で、赤ら顔の男が遅い朝食を食べている。奥の壁際では、セイが先ほどと同じ席に座っていた。

 俺が近づくと、セイは顔を上げずに鼻で短く息を吐いた。

 空だったはずの杯には、また酒が入っている。

「忘れ物かい、坊や」

「いえ」

「じゃあ、物好きだね」

 さっきまで座っていた椅子は、そのままになっていた。俺はすぐには引かず、卓の脇に立った。

「もう少しだけ、お婆さんのことを聞いてもいいですか」

 セイの指が杯の縁で止まった。返事はない。断られたなら、それで帰ろうと思った。

 酒場の奥で、木の器が卓へ置かれる音がした。入口近くの男が、店主へパンをもう一つ頼んでいる。

 静けさの中に、生活の雑音が遠く混ざっていた。

 セイは杯を一度持ち上げ、飲まずに戻した。

「......座りな」

「ありがとうございます」

「だから、礼は早いって言ってるだろ」

 椅子を引くと、脚が石床を擦って低い音を立てた。セイはそれを嫌そうに見てから、視線を杯へ戻した。

「何が聞きたい」

「お婆さんが、残ったということです」

「そのままの意味さ」

「落人ではなかったんですか」

「ああ。この街で生まれて、この街で年を取った婆さんだよ」

 セイは杯を指先で回した。中の酒が、縁に沿ってゆっくり揺れる。

「あたしがここへ来て、まだふた月も経ってなかった頃だったかね。金がなくなって、何日かまともに食べてなかった」

「依頼は受けていなかったんですか」

「失敗続きさ。今みたいに剣が使えたわけでもない。帰り方ばかり探して、食うことを後回しにしてた」

 口元だけが笑った。だが、声には笑いがなかった。

「路地で座り込んでたら、籠を持った婆さんに見つかった」

「そこで助けられたんですか」

「助けたなんて大層な顔はしてなかったよ。立てるかって聞かれて、無理だって言ったら、頭をひっぱたかれた」

「......なぜでしょう」

「立てないなら最初からそう言え、だとさ」

 その言葉だけ、さっきまでより声が柔らかかった。

「汚い小屋へ連れていかれて、一週間、寝かされた。薄いスープと、ちぎったパンを食わされたよ。吐いた日は、食えるまで量を減らして、嫌がってもまた出してきた」

「どうして助けたのか、聞いたんですか」

「聞いたよ」

 セイは肩をすくめた。

「放っておけなかった。それだけだとさ」

「それだけ」

「ああ。それだけ」

 セイは杯へ口をつけた。今度は一口だけ飲んだ。

「落人だからでも、珍しかったからでもない。あの婆さんには、あたしがどこから来たかなんてどうでもよかったんだろうね。腹を空かせた馬鹿が転がってた。だから拾った」

「一週間の後はどうしたんですか」

「追い出されたよ」

 思わずセイを見ると、片方の眉が上がった。

「いつまで寝てる、働けってね」

「厳しい方ですね」

「飯代を返せとも言われたさ」

「返したんですか」

「婆さんが市場へ持っていく重い野菜籠を、何度も運んでやったよ」

「それで足りましたか」

「足りないって言われた」

「いつまで返してたんですか」

「去年まで返してた」

 セイは、そこで黙った。俺も言葉を止めた。

 去年。

 正式サービスが始まって、現実ではまだ一か月ほどのはずだった。

 セイはサービス開始の三日目か四日目にここへ来た。それなのに、この世界では、前年と呼べる時間が過ぎている。

 季節の数え方が違うだけでは説明できないのかもしれない。

 だが、どれほど違うのかは分からない。今ここで数字を組み立てても、材料が足りなかった。

「お婆さんは、去年亡くなったんですね」

「ああ」

 セイの返事は短かった。

「病気ですか」

「寿命だったんだろうね」

 杯を回していた指が止まる。

「冬になる前から、随分小さくなってた。飯も減った。立つのに時間がかかるようになって、それでも市場へ行くと言い張ってね」

 老衰。現実の病棟でも、一つの病名だけでは説明できない衰えを何度も見てきた。

「最期は、小屋で?」

「あたしの腕の中だ」

 セイは杯を見ていた。

「息が浅くなって、間が空いて。それでも、目だけは開いてた」

 俺は何も言わずに待った。こういう時に、続きを促す言葉が役に立たないことは知っていた。

「手を握ったら、握り返された」

 セイの右手が、卓の上でゆっくり閉じた。

「それで、笑って言ったんだよ」

 声が一度途切れた。

 酒場の入口から、外の光が細く差し込んでいる。舞った埃が、その中をゆっくり落ちていた。

「......生きな、ってね」

 セイは笑わなかった。俺も、慰めの言葉を探さなかった。

 似た場面には、仕事で何度も立ち会ってきた。だからといって、分かりますとは言えない。その人が失った相手は、一人しかいない。

「......そうでしたか」

 それだけを返した。セイは顔を背けた。

「落人なら、そこで光になって消える」

「はい」

「婆さんは消えなかった」

 セイの声は静かだった。

「腕に重さが残った。温かかった身体が、ゆっくり冷たくなった。目を閉じても、そこにいた」

 俺は膝の上で手を組んだ。

 遺体が残る。現実では当たり前だったことが、この世界では落人との明確な違いになる。

 理由は分からない。落人だから消えるのか。この世界で生まれた者だから残るのか。別の条件があるのか。

 ただ、セイが腕に抱いた身体は、演出のようには消えなかった。その重さの話を、今もこうして口にしている。

「この世界をゲームだと思えなくなった理由ですか」

 尋ねてから、踏み込みすぎたと思った。セイはすぐには答えなかった。

「さあね」

 やがて、乾いた声が返ってきた。

「ただ、婆さんを埋めた次の日も腹は減った。市場へ行けば、いつもの場所だけ空いてた。それだけさ」

 現実で見てきたものと、何も変わらなかった。

 俺がこれまでNPCだと思っていた者たちが何なのかは、まだ分からない。だが、お婆さんがセイに残したものまで、作り物だと決める理由はなかった。

 俺は椅子へ座ったまま、深く頭を下げた。

「話してくださって、ありがとうございました」

「重い話を聞いて満足したかい」

「いいえ」

「じゃあ、何しに戻ってきた」

「知らないまま、勝手に意味を決めたくなかったので」

 セイがこちらを見た。灰色の目が細くなる。

「面倒な坊やだねぇ」

「自覚はあります」

「そういうのは、もっと年を取ってから言うもんだよ」

 「五十歳です」とは言えなかった。代わりに笑った。

 セイは露骨に嫌そうな顔をして、杯を空にした。

 しばらく、どちらも口を開かなかった。セイは空になった杯を指先で回し、やがて手を止めた。

「それで、あんたはこれからどうする」

 話を切り替えたのはセイだった。

「まずは稼ぎます。宿代がありますから」

「夢がないね」

「帰る方法だけ探して、食べることを後回しにした方の話を聞いたので」

 セイの視線が止まった。まずかったかと思ったが、次の瞬間、鼻から短い息が漏れた。

「言うようになったじゃないか」

「先ほど伺ったばかりです」

「性格が悪いねぇ」

「よく言われます」

 そう言われるのは、親しい者からだけだった。悪い気はしなかった。

 セイは俺の返事を信じたのかどうか、酒のなくなった杯を眺めていた。

「戦うなら、何が使える」

「剣術と水魔法です」

「剣は?」

「初日に選んだだけです。剣を構えたことはありません」

「使えるとは言わないよ、それは」

「やっぱりそうですよね」

 俺は苦笑する。俺と同じ意見だった。

「水は?」

「昨日、手のひらへ水球を作りました」

 セイが呆れたように眉を寄せた。

「球か」

「駄目でしたか」

「駄目じゃない。つまらないだけさ」

「魔法に、面白さが必要ですか」

「生き残るには発想が要る」

 セイは卓のナイフを指先で押し、向きを変えた。

「来たばかりの落人は、だいたい同じものを作る。火なら球。水なら球。風なら刃。見たことのある形へ押し込む」

「説明にある形だからでは?」

「それもある」

 セイは俺を見た。

「魔法はね、使う奴の頭に引っぱられるんだよ」

「頭に?」

「何を出すかじゃない。何をさせると思ってるかだ」

 俺が黙っていると、セイは面倒そうに言葉を探した。

「水は丸いもんだと思ってりゃ、球にしやすい。流すものだと思えば流れになる。薄く広がるところを思い描けるなら、膜にもなる」

「思い描けば、何でもできるんですか」

「そこまで都合よくない」

 セイはすぐに否定した。

「水しか使えない奴が、頭の中で炎を考えたところで燃えやしない。扱える量も距離も、本人の腕を越えない。薄く広げれば、そのぶん破れやすくなる。普通に球を作るより難しい」

「できる範囲の中なら、形や使い方を変えられるんですね」

「そういうことだ」

 セイはナイフを持ち上げた。

「これだって、突くものだと思ってる奴は突くことしか考えない。縄を切る、木を削る、蓋をこじ開ける。道具は同じでも、使い道は一つじゃない」

 刃をこちらへ向けず、柄の方を軽く持ち上げる。

「魔法も似たようなもんさ。できないと思ってる使い方は、試そうとも思わない」

 昨日作った水球を思い出した。手のひらの上へ浮かんだ、拳ほどの水。俺は水を出すと考えた時、何の疑いもなく球を思い浮かべた。ゲームの魔法とはそういうものだと思っていたからだ。

 だが、現実の水は、球でいる時間の方が少ない。流れる。落ちる。染み込む。薄く広がる。細い隙間へ入り込む。

「試す場所はありますか」

「水魔法をかい?」

「ええ。街中で失敗すると、迷惑になりそうなので」

 セイは顎へ指を当てた。

「南の外れに川がある。人通りの少ない場所まで下れば、多少水を散らしても怒られないだろうさ」

「ありがとうございます」

「調子に乗って流されるんじゃないよ」

「この身体で泳げるかは、まだ確かめていません。ちなみに、向こうではカナヅチでした」

「なら入るな」

 返事が早かった。

「気をつけます」

 椅子から立ち上がる。今度は、脚が石床を擦らないよう持ち上げて引いた。セイがそれを見て、口元をわずかに歪めた。

「変なところだけ細かいね」

「気になりましたので」

「さっさと行きな、坊や」

「はい」

 頭を下げ、卓を離れる。階段へ向かいかけたところで、後ろから声が飛んだ。

「ノワール」

 初めて名前で呼ばれた。振り返る。セイは新しい酒を頼むでもなく、空の杯へ手を添えていた。

「婆さんの話は、よそでするんじゃないよ」

「しません」

 それだけ答えた。セイはもうこちらを見なかった。

◆

 地上へ戻ると、昼の光が石畳へ落ちていた。朝より風が暖かい。

 通りには買い物籠を下げた女がいて、荷車を引く男がいて、子どもが二人、何かを追いかけて走っている。今は、一人ずつに朝があり、食べる物があり、帰る場所があるのだと思った。

 あの人たちが何者なのかは、まだ分からない。けれど、目の前で生きていることまで疑う理由はなかった。

 お婆さんは、腹を空かせたセイを放っておけなかった。セイは、お婆さんがいなくなった後も生きている。

 ――生きな。

 短い言葉だった。命令だったのか、願いだったのか、俺には分からない。

 頭を切り替え、南へ向かう道を探しながら、手のひらを開いた。

 水球。最初に作れたことが嬉しくて、それ以外の形を考えもしなかった。

 水は、丸いだけではない。流れにもなる。帯にも、膜にも、細い筋にもなる。どこまでできるのか、試してみたかった。

 まずは、流すところから試してみよう。

 俺は街の南へ向かった。川の場所は、道を聞けば分かるだろう。

 開いた手の上に、まだ水はなかった。それでも、さっきまでより多くの形が見える気がした。
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第4話 灰かぶり(承前)
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明日も、ダンジョンへ。作者:為書結依
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第5話 生きな


 地上へ出ても、「婆さんは残った」というセイの言葉と、杯を置く手が止まった時の沈黙が頭から離れなかった。

 ギルドの前には、朝より人が増えていた。

 依頼を終えて戻ってきたらしい冒険者が、泥のついた靴で入口を塞いでいる。受付から呼ぶ声がして、荷物を抱えた男が慌てて脇へ寄った。

 俺は人の流れを避けて道の端へ立った。

 ここで立ち去れば、分からないことを分からないまま飲み込むことになる。

 セイはもう行けと言った。言いたくない話なのだろう。

 それでも、婆さんが残ったという言葉を聞いたまま、分かったつもりで帰るのも違う気がした。

 聞くかどうかは、俺が決められる。答えるかどうかは、セイが決めればいい。

「......もう一度だけ」

 誰に言うでもなく呟き、俺はギルドへ足を引き返した。

◆

 半地下へ続く階段は、先ほどより暗く感じられた。

 酒場へ降りると、客が一人増えていた。

 入口近くの卓で、赤ら顔の男が遅い朝食を食べている。奥の壁際では、セイが先ほどと同じ席に座っていた。

 俺が近づくと、セイは顔を上げずに鼻で短く息を吐いた。

 空だったはずの杯には、また酒が入っている。

「忘れ物かい、坊や」

「いえ」

「じゃあ、物好きだね」

 さっきまで座っていた椅子は、そのままになっていた。俺はすぐには引かず、卓の脇に立った。

「もう少しだけ、お婆さんのことを聞いてもいいですか」

 セイの指が杯の縁で止まった。返事はない。断られたなら、それで帰ろうと思った。

 酒場の奥で、木の器が卓へ置かれる音がした。入口近くの男が、店主へパンをもう一つ頼んでいる。

 静けさの中に、生活の雑音が遠く混ざっていた。

 セイは杯を一度持ち上げ、飲まずに戻した。

「......座りな」

「ありがとうございます」

「だから、礼は早いって言ってるだろ」

 椅子を引くと、脚が石床を擦って低い音を立てた。セイはそれを嫌そうに見てから、視線を杯へ戻した。

「何が聞きたい」

「お婆さんが、残ったということです」

「そのままの意味さ」

「落人ではなかったんですか」

「ああ。この街で生まれて、この街で年を取った婆さんだよ」

 セイは杯を指先で回した。中の酒が、縁に沿ってゆっくり揺れる。

「あたしがここへ来て、まだふた月も経ってなかった頃だったかね。金がなくなって、何日かまともに食べてなかった」

「依頼は受けていなかったんですか」

「失敗続きさ。今みたいに剣が使えたわけでもない。帰り方ばかり探して、食うことを後回しにしてた」

 口元だけが笑った。だが、声には笑いがなかった。

「路地で座り込んでたら、籠を持った婆さんに見つかった」

「そこで助けられたんですか」

「助けたなんて大層な顔はしてなかったよ。立てるかって聞かれて、無理だって言ったら、頭をひっぱたかれた」

「......なぜでしょう」

「立てないなら最初からそう言え、だとさ」

 その言葉だけ、さっきまでより声が柔らかかった。

「汚い小屋へ連れていかれて、一週間、寝かされた。薄いスープと、ちぎったパンを食わされたよ。吐いた日は、食えるまで量を減らして、嫌がってもまた出してきた」

「どうして助けたのか、聞いたんですか」

「聞いたよ」

 セイは肩をすくめた。

「放っておけなかった。それだけだとさ」

「それだけ」

「ああ。それだけ」

 セイは杯へ口をつけた。今度は一口だけ飲んだ。

「落人だからでも、珍しかったからでもない。あの婆さんには、あたしがどこから来たかなんてどうでもよかったんだろうね。腹を空かせた馬鹿が転がってた。だから拾った」

「一週間の後はどうしたんですか」

「追い出されたよ」

 思わずセイを見ると、片方の眉が上がった。

「いつまで寝てる、働けってね」

「厳しい方ですね」

「飯代を返せとも言われたさ」

「返したんですか」

「婆さんが市場へ持っていく重い野菜籠を、何度も運んでやったよ」

「それで足りましたか」

「足りないって言われた」

「いつまで返してたんですか」

「去年まで返してた」

 セイは、そこで黙った。俺も言葉を止めた。

 去年。

 正式サービスが始まって、現実ではまだ一か月ほどのはずだった。

 セイはサービス開始の三日目か四日目にここへ来た。それなのに、この世界では、前年と呼べる時間が過ぎている。

 季節の数え方が違うだけでは説明できないのかもしれない。

 だが、どれほど違うのかは分からない。今ここで数字を組み立てても、材料が足りなかった。

「お婆さんは、去年亡くなったんですね」

「ああ」

 セイの返事は短かった。

「病気ですか」

「寿命だったんだろうね」

 杯を回していた指が止まる。

「冬になる前から、随分小さくなってた。飯も減った。立つのに時間がかかるようになって、それでも市場へ行くと言い張ってね」

 老衰。現実の病棟でも、一つの病名だけでは説明できない衰えを何度も見てきた。

「最期は、小屋で?」

「あたしの腕の中だ」

 セイは杯を見ていた。

「息が浅くなって、間が空いて。それでも、目だけは開いてた」

 俺は何も言わずに待った。こういう時に、続きを促す言葉が役に立たないことは知っていた。

「手を握ったら、握り返された」

 セイの右手が、卓の上でゆっくり閉じた。

「それで、笑って言ったんだよ」

 声が一度途切れた。

 酒場の入口から、外の光が細く差し込んでいる。舞った埃が、その中をゆっくり落ちていた。

「......生きな、ってね」

 セイは笑わなかった。俺も、慰めの言葉を探さなかった。

 似た場面には、仕事で何度も立ち会ってきた。だからといって、分かりますとは言えない。その人が失った相手は、一人しかいない。

「......そうでしたか」

 それだけを返した。セイは顔を背けた。

「落人なら、そこで光になって消える」

「はい」

「婆さんは消えなかった」

 セイの声は静かだった。

「腕に重さが残った。温かかった身体が、ゆっくり冷たくなった。目を閉じても、そこにいた」

 俺は膝の上で手を組んだ。

 遺体が残る。現実では当たり前だったことが、この世界では落人との明確な違いになる。

 理由は分からない。落人だから消えるのか。この世界で生まれた者だから残るのか。別の条件があるのか。

 ただ、セイが腕に抱いた身体は、演出のようには消えなかった。その重さの話を、今もこうして口にしている。

「この世界をゲームだと思えなくなった理由ですか」

 尋ねてから、踏み込みすぎたと思った。セイはすぐには答えなかった。

「さあね」

 やがて、乾いた声が返ってきた。

「ただ、婆さんを埋めた次の日も腹は減った。市場へ行けば、いつもの場所だけ空いてた。それだけさ」

 現実で見てきたものと、何も変わらなかった。

 俺がこれまでNPCだと思っていた者たちが何なのかは、まだ分からない。だが、お婆さんがセイに残したものまで、作り物だと決める理由はなかった。

 俺は椅子へ座ったまま、深く頭を下げた。

「話してくださって、ありがとうございました」

「重い話を聞いて満足したかい」

「いいえ」

「じゃあ、何しに戻ってきた」

「知らないまま、勝手に意味を決めたくなかったので」

 セイがこちらを見た。灰色の目が細くなる。

「面倒な坊やだねぇ」

「自覚はあります」

「そういうのは、もっと年を取ってから言うもんだよ」

 「五十歳です」とは言えなかった。代わりに笑った。

 セイは露骨に嫌そうな顔をして、杯を空にした。

 しばらく、どちらも口を開かなかった。セイは空になった杯を指先で回し、やがて手を止めた。

「それで、あんたはこれからどうする」

 話を切り替えたのはセイだった。

「まずは稼ぎます。宿代がありますから」

「夢がないね」

「帰る方法だけ探して、食べることを後回しにした方の話を聞いたので」

 セイの視線が止まった。まずかったかと思ったが、次の瞬間、鼻から短い息が漏れた。

「言うようになったじゃないか」

「先ほど伺ったばかりです」

「性格が悪いねぇ」

「よく言われます」

 そう言われるのは、親しい者からだけだった。悪い気はしなかった。

 セイは俺の返事を信じたのかどうか、酒のなくなった杯を眺めていた。

「戦うなら、何が使える」

「剣術と水魔法です」

「剣は?」

「初日に選んだだけです。剣を構えたことはありません」

「使えるとは言わないよ、それは」

「やっぱりそうですよね」

 俺は苦笑する。俺と同じ意見だった。

「水は?」

「昨日、手のひらへ水球を作りました」

 セイが呆れたように眉を寄せた。

「球か」

「駄目でしたか」

「駄目じゃない。つまらないだけさ」

「魔法に、面白さが必要ですか」

「生き残るには発想が要る」

 セイは卓のナイフを指先で押し、向きを変えた。

「来たばかりの落人は、だいたい同じものを作る。火なら球。水なら球。風なら刃。見たことのある形へ押し込む」

「説明にある形だからでは?」

「それもある」

 セイは俺を見た。

「魔法はね、使う奴の頭に引っぱられるんだよ」

「頭に?」

「何を出すかじゃない。何をさせると思ってるかだ」

 俺が黙っていると、セイは面倒そうに言葉を探した。

「水は丸いもんだと思ってりゃ、球にしやすい。流すものだと思えば流れになる。薄く広がるところを思い描けるなら、膜にもなる」

「思い描けば、何でもできるんですか」

「そこまで都合よくない」

 セイはすぐに否定した。

「水しか使えない奴が、頭の中で炎を考えたところで燃えやしない。扱える量も距離も、本人の腕を越えない。薄く広げれば、そのぶん破れやすくなる。普通に球を作るより難しい」

「できる範囲の中なら、形や使い方を変えられるんですね」

「そういうことだ」

 セイはナイフを持ち上げた。

「これだって、突くものだと思ってる奴は突くことしか考えない。縄を切る、木を削る、蓋をこじ開ける。道具は同じでも、使い道は一つじゃない」

 刃をこちらへ向けず、柄の方を軽く持ち上げる。

「魔法も似たようなもんさ。できないと思ってる使い方は、試そうとも思わない」

 昨日作った水球を思い出した。手のひらの上へ浮かんだ、拳ほどの水。俺は水を出すと考えた時、何の疑いもなく球を思い浮かべた。ゲームの魔法とはそういうものだと思っていたからだ。

 だが、現実の水は、球でいる時間の方が少ない。流れる。落ちる。染み込む。薄く広がる。細い隙間へ入り込む。

「試す場所はありますか」

「水魔法をかい?」

「ええ。街中で失敗すると、迷惑になりそうなので」

 セイは顎へ指を当てた。

「南の外れに川がある。人通りの少ない場所まで下れば、多少水を散らしても怒られないだろうさ」

「ありがとうございます」

「調子に乗って流されるんじゃないよ」

「この身体で泳げるかは、まだ確かめていません。ちなみに、向こうではカナヅチでした」

「なら入るな」

 返事が早かった。

「気をつけます」

 椅子から立ち上がる。今度は、脚が石床を擦らないよう持ち上げて引いた。セイがそれを見て、口元をわずかに歪めた。

「変なところだけ細かいね」

「気になりましたので」

「さっさと行きな、坊や」

「はい」

 頭を下げ、卓を離れる。階段へ向かいかけたところで、後ろから声が飛んだ。

「ノワール」

 初めて名前で呼ばれた。振り返る。セイは新しい酒を頼むでもなく、空の杯へ手を添えていた。

「婆さんの話は、よそでするんじゃないよ」

「しません」

 それだけ答えた。セイはもうこちらを見なかった。

◆

 地上へ戻ると、昼の光が石畳へ落ちていた。朝より風が暖かい。

 通りには買い物籠を下げた女がいて、荷車を引く男がいて、子どもが二人、何かを追いかけて走っている。今は、一人ずつに朝があり、食べる物があり、帰る場所があるのだと思った。

 あの人たちが何者なのかは、まだ分からない。けれど、目の前で生きていることまで疑う理由はなかった。

 お婆さんは、腹を空かせたセイを放っておけなかった。セイは、お婆さんがいなくなった後も生きている。

 ――生きな。

 短い言葉だった。命令だったのか、願いだったのか、俺には分からない。

 頭を切り替え、南へ向かう道を探しながら、手のひらを開いた。

 水球。最初に作れたことが嬉しくて、それ以外の形を考えもしなかった。

 水は、丸いだけではない。流れにもなる。帯にも、膜にも、細い筋にもなる。どこまでできるのか、試してみたかった。

 まずは、流すところから試してみよう。

 俺は街の南へ向かった。川の場所は、道を聞けば分かるだろう。

 開いた手の上に、まだ水はなかった。それでも、さっきまでより多くの形が見える気がした。
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