

第4話 灰かぶり(承前)
女は杯を持ち上げたまま、ようやく俺を見る。視線が、顔から服、腰の袋、立ち方までを順にたどった。申し送りの途中で、隠していた疲れまで見抜いてくる古参の同僚に似た目だった。
「〈鈍色亭〉の女将さんから聞きました」
「あいつか」
女は鼻で息をついた。
「座るなら勝手にしな、坊や」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早いよ」
向かいの椅子を引いた。脚が石床を擦る。
「ノワールと言います」
「セイだ」
セイはそれだけ言って、杯へ口をつけた。
「俺と同じ落人だと聞きました」
「同じかどうかは知らない。ただ、あたしもここへ来た時は何も知らなかった」
さっきの言葉が気になったので聞いてみることにした。
「さっき、帰り方を知らないと言いました?」
「そうだよ。あたしは知らない」
セイは杯を卓へ戻した。
帰り方。
女将に、実際に帰った人を見たことはないかと聞いた。その直後に紹介された相手が、ここで言う「帰る」。
街からの帰り道を指しているとは思えなかった。
「それって、この街から出る道じゃなくて――ログアウトのことですか?」
セイはちらりと俺を見ると、これ見よがしにため息をついた。
「そう呼ぶなら、それだよ」
指先が止まった。
「俺は、メニューにログアウトの項目が見当たらないんです」
「だからあたしは帰り方を知らないと言っただろう。人の話は聞くものだよ」
すぐには次の言葉が出なかった。
「......セイさんも、ログアウトの項目がないんですか?」
「ここに来た時から一度も見てないね」
膝の上で、指先がわずかに動いた。
「......帰れない」
思わず呟いていた。
沈黙が流れる。
セイは何も言わず俺を見ていた。
俺は深く息をつくと質問を続けた。
「......帰り方を知っている人はいないんですか?」
「知っている奴がいたとしても、既にここにいないだろうね」
セイはそう言ってから、杯へ指をかけた。
「ただ、探してる連中ならいるよ」
「探している?」
「ダンジョンを潜ってる落人たちさ。最後まで攻略すれば、帰れるんじゃないかってね」
杯が少し傾いた。
「最後まで行けば、本当に帰れるんですか?」
「さあね。あたしが知ってるなら、最初からそう言ってるよ」
「......それもそうですね」
「帰ることを一番に考えるなら、そいつらを探して話を聞くのも手だろうさ」
そういう落人たちがいる。
覚えておくことにした。
酒場の奥で、誰かが笑った。この卓の周りだけ、音が遠かった。
「ログアウトするために色々試したんですよね」
「試した」
「どんなことを」
セイは面倒そうに目を細めた。
「メニューを探す。声で呼ぶ。変な言葉を並べる」
俺と同じことを試していた。
「高い所から飛んだ奴。毒を飲む奴もいた」
最後の二つだけ、声が少し低くなった。
酒場の奥で椅子を引く音がした。セイは杯へ触れたまま、しばらく口を開かなかった。
「戻れた人は?」
「いないだろうね」
俺は膝の上で手を組んだ。返事を聞くたび、重ねた指へ力が入っていった。
「高い所から飛んだり、毒を飲んだ人は、どうなりましたか」
セイの指が、杯の縁で止まった。
「落人が死ぬと、光になる」
「光?」
「粒になって消える。身体は残らない」
言葉は平坦だった。
「生き返った人は」
「いない」
「現実へ戻った可能性は?」
「そうかもしれない。確かめようがない」
セイは俺を見た。
「ここから消えた。それきりだ」
すぐには息を吐けなかった。昨日までなら、死ねばゲームの外へ戻れる可能性も考えた。今は、その考えを口へ出す気になれなかった。
「セイさんは、長いんですか」
「ずいぶんになるね」
「サービス開始から?」
「三日目か四日目だったと思うよ」
俺は顔を上げた。
「こちらへ来たのが?」
「ああ」
正式サービスが始まって、現実ではまだ一か月ほどだった。
「ずいぶんというのは」
「数えるのをやめるくらいには、だ」
セイは酒杯を回した。
「季節の数え方も、ここと向こうじゃ同じとは限らないよ。」
聞いても、考えても答えは出なかった。
少なくとも、現実とこちらで同じ時間が流れているとは思えない。そして、それがどれほど違うのかも分からない。
分からない数字を頭の中で組み始めたところで、セイが言った。
「顔色が悪いよ」
「少し、考えていました」
「いくら考えても帰れないよ」
セイは杯を回したまま、こちらを見なかった。俺は息を吐いた。
「もう一つだけ」
「まだあるのかい」
「死んだわけでもなく、突然消えた落人はいますか」
セイの目が細くなった。
「なぜ、そんなことを聞く」
「ログアウトできた落人もいるのかと思いまして」
セイはしばらく黙った。ナイフの柄を、指先で一度だけ叩く。
「消えた奴はいたよ」
「前触れなく?」
「立って話してた。次の瞬間には、光になった」
背筋がわずかに強張った。
「一人だけですか」
「一人じゃない」
「原因は」
「知らない」
セイは杯の底を見た。
現実側の身体に異変が起きたか、あるいは外から機器を外されたのかもしれない。
その瞬間に接続が切れ、こちらでは光になって消える。
それなら説明はつく。少なくとも、何の理由もなく消えるよりは。だが、それが生還なのか、死なのかは分からない。
「......なるほど」
口に出すと、セイが不機嫌そうに眉を上げた。
「勝手に納得するんじゃないよ、坊や」
「仮説です」
「その仮説で安心できるなら、好きにしな」
「安心はしていません」
「そう見える」
俺は考えた。
「分からないままよりは、仮説があった方がましです」
セイは何も言わなかった。酒杯を持ち上げたが、飲まずに戻す。
「聞きたかったことは、聞けました」
立ち上がる。椅子の脚が、また石床を擦った。
「ありがとうございました」
「礼を言われるような話じゃない」
背を向けかけて、卓の上のナイフが目に入った。刃は曇っていない。革鎧も古いが、補修されている。
さっき、高い所から飛んだ奴や毒を飲んだ奴の話をした時だけ、セイの声が低くなった。そのことが、まだ引っかかっていた。
「セイさん」
「なんだい」
「誰かを見送ったことがありますか」
杯を置く手が止まった。酒場の奥で怒鳴り声がした。喧嘩だろうか。セイはそちらを見なかった。
「落人は、死ねば消える」
低い声だった。
「はい」
「でも、婆さんは残ったよ」
俺は何も言えなかった。セイは空の杯を見たまま、こちらを見なかった。
「もう行きな」
それ以上、聞くべきではなかった。一度だけ頭を下げ、卓を離れた。
階段を上る。一段ごとに酒と煙草の匂いが薄れ、代わりにギルドのざわめきが戻ってくる。
地上へ出ると、夏の光が眩しかった。同じ街なのに、来た時とは違って見えた。
帰る方法は、まだ分からない。死んだ落人は消え、前触れなく消えた者もいる。その理由までは、誰にも分からない。
俺はギルドの入口を離れた。昨夜より、足は前へ出た。
セイの最後の言葉だけが、頭に残っていた。
婆さんは残った。