第3話 灰かぶり
何度見直しても、ログアウトの項目はなかった。
メニューウィンドウを呼び出し、選べる項目を上から順に確かめる。
名前。装備。所持金。スキル。
昼間と同じ、必要最低限の項目しか並んでいない。
経験値も能力値も表示されず、そのどこにも終了を意味する言葉はなかった。
ウィンドウを閉じ、もう一度開いた。
項目の端へ指を滑らせる。下へ送る。横へ引く。表示そのものを押し広げようとする。
指先は淡い光を抜けただけだった。
「ログアウト」
狭い部屋へ、自分の声が落ちた。
低く、かすれている。キャラクターを作った時に聞いた、十八歳の俺の声だ。
返事はなかった。
「システム終了」
さっきよりはっきり言う。
窓の外で、誰かが笑った。
遠くで金物の触れ合う音がして、それきりだった。
「ヘルプ。運営連絡」
表示は変わらない。
現実の身体を動かそうとしてみた。
午前二時を過ぎた部屋。ベッド。頭へ着けた機器。そこに横たわっているはずの自分。
腕を上げる。
機器を外す。
そう念じても、たぶん動いたのはこちらの右手だけだった。若い指が、何もない空間を掴んでいる。
現実側の身体がどうなっているのか、輪郭すら感じられなかった。
「......参ったな」
思ったより穏やかな声が出た。落ち着いているわけではない。
だが、騒いだところで、ログアウトの項目が増えるわけでもない。
立ち上がり、窓へ向かった。木枠へ手を置く。表面は冷たく、細かなささくれが指へ引っかかった。
窓の外では、街が夜を続けていた。石畳を歩く足音。店を閉める戸板の音。どこかの食堂から漏れる話し声。
俺が帰れないことなど知らないまま、人々はそれぞれの一日を終えようとしている。
風が木枠の隙間から入り、頬へ触れ、髪を揺らした。
よくできたゲームだと思っていた。今も、それは変わらない。手応えがありすぎることを除けば。
もう一度、メニューウィンドウを呼び出した。
見落としがあるのかもしれない。
一時的な不具合かもしれない。
正式サービスが始まって一か月ほどだ。障害が起きることくらいはあるだろう。
しばらく待てば、運営が気づいて切断してくれるかもしれない。
そう考えようとした。
だが、運営がいつ気づくかは、誰にも分からない。
数時間後かもしれないし、丸一日かかるかもしれない。
現実の身体はゲームに入った時のまま、ただベッドに寝ているだけのはずだ。
見えないものだけを考え続けないようにしよう。
ログアウトの項目はない。運営へ連絡する手段も見つからない。
今、分かるのはそれだけだ。
少なくとも今は、ゲームからログアウトできない。それだけだ。
分からないことを、想像で埋めても仕方がない。
窓から離れた。
今日から休みだ。何も予定はない。復旧を気長に待とう。
それ以上は、明日起きてから考えることにした。
俺はベッドへ横になった。
明日は、まず何をするか。
そちらを考えているうちに、いつの間にか眠っていた。
◆
目を開けると、粗く削られた天井の板の節が、朝の薄い光の中に浮かんでいる。
枕元へ手を伸ばすと、指先に冷たい鉄が触れた。
昨夜、自分で鍵をかけた。そのずっしりとした感触を、手の中で確かめる。
俺は鍵を握ったまま、しばらく天井を見ていた。
帰れなかった。目が覚めても、俺はここにいる。
メニューウィンドウを開いてみる。
ログアウトの項目はない。
だが、想定内だ。
「......よし」
声に出してから身体を起こした。
藁の寝台は硬かったが、腰は痛まなかった。脚にも昨日の疲れはほとんど残っていない。
十八歳の身体は、一晩眠っただけで驚くほど疲れが抜ける。
顔を洗い、服を整え、鍵を持って階下へ降りた。
食堂には朝の匂いが満ちていた。焼いたパン、煮込んだ野菜、昨日の脂の名残。
窓から入る冷たい風が、それらを少しずつ混ぜ合わせている。
女将は大きな鍋を木べらでかき回していた。俺の足音に気づくと、手を止めずに言った。
「おはよう。眠れたかい」
「ええ。思ったよりは」
「若いのは、それだけで得だね」
本当にそう思う。
平皿にパンと野菜の煮込みが置かれた。
「朝飯。個室代に入ってるよ」
「ありがとうございます」
カウンターの端へ座る。パンは固かったが、煮込みへ浸すとようやく歯が通った。
周りの客へ目を向ける。みんな、いつもの朝を過ごしているようで、ログアウトという言葉も聞こえなかった。
よくあることなのだろうか。それとも落人がここにはいないのかもしれない。
しばらく黙って食べた。温かいものが腹へ入ると、木さじを握っていた指から少し力が抜けた。半分ほど食べたところで、木さじを置いた。
「女将さん」
「なんだい」
「昨日、俺のことを落人と呼びましたよね」
鍋をかき回していた手が、一度だけ止まった。女将は振り返り、俺の顔を見た。
「それを聞くのも、落人らしいね」
「どういう人を、そう呼ぶんですか」
女将は木べらを鍋の縁へ置いた。
「何も知らずに広場へ立ってる連中さ」
「俺みたいに?」
「あんたみたいに」
それだけ言って、女将は布巾を取った。カウンターの端へついた水滴を拭いていく。
「どこから来たのか分からない。街の金も、道も、仕事も知らない。なのに、自分じゃ別の場所から来たって言う。そういうのが、前から時々いるんだよ」
プレイヤーは、NPCにとってそういう存在なのか。
布巾が木目の上を往復する。その手つきには、同じ質問を何度も受けてきたような、手慣れた雑さがあった。
「帰った人は?」
その手が止まった。女将は眉を寄せた。
「帰りたがってた奴なら、見たことはあるね」
何か引っかかる言葉だった。
「帰りたがってた奴ですか......実際帰った人を見たことはありませんか?」
「詳しく知りたいなら、同類に聞きな」
女将は顎で、ギルドのある方角を示した。
「ギルドにある半地下の酒場に、灰色の髪の女がいる。昔からいる落人だ。昼前から酒を飲んでるようなやつだが、あたしよりは詳しいよ」
「昔からですか......? 名前は?」
「セイ」
それだけだった。女将は鍋へ戻った。
「冷めるよ」
俺は残りを食べた。パンを煮込みへ沈め、柔らかくなったところで口へ運ぶ。
落人から詳しい話が聞ける。
それで安心していいのかは、まだ分からなかった。
昔から、という言葉も引っかかった。
この世界でいう昔がどれほどの長さなのか、俺にはまだ分からない。
◆
朝の大通りは明るかった。店先では戸板が外され、荷車が石畳を鳴らしている。
通りを行き交う者たちの顔を、つい見てしまう。
この中に落人がいるのかもしれない。だが、見ただけでは分からなかった。
籠を抱えた女も、荷を担いだ男も、眠そうに歩く若者も、それぞれの行き先へ向かっている。
俺だけが、誰かを探す目で歩いている気がした。
冒険者ギルドへ入り、受付の脇にある階段を下りる。
一段ごとに、空気が変わった。
上の広間に満ちていた声が遠くなり、代わりに安酒と煙草、それから湿った石の匂いが濃くなる。
半地下の酒場は、昼前のせいか空いていた。隅の卓で、男が二人、小声で話している。
奥の壁際に、一人だけ女がいた。
使い込まれた革鎧。くすんだ灰色のマント。肩まで伸びた灰銀の髪。
卓の上には酒杯が一つと、よく研がれたナイフが一本。
女将の言う「詳しい」が、別の意味に見えた。
俺は卓から二歩ほど離れたところで止まった。
「すみません」
女は顔を上げなかった。
「少し、お話を聞いてもいいでしょうか」
「帰り方なら知らないよ」
低く、かすれた声だった。俺は一瞬、言葉を失った。