ホーム›明日も、ダンジョンへ。›第2話 串焼きと、宿の鍵
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第2話 串焼きと、宿の鍵

 五十年近く染みついた身体の動かし方が、十八歳の筋肉とうまく噛み合っていなかった。

 歩幅が違う。腕の振れ方も違う。普段と同じつもりで踏み出すと、身体が思ったより前へ出てしまう。

 慌てて速度を落とし、もう一度歩き直した。

 思った場所へ足を置くだけなのに、いくらか調整がいる。それが妙に面白かった。

 人通りの多い大通りへ出る。石造りの建物が両側に並び、露店の幌が風に揺れていた。

 行き交う者たちの言葉は、意識しなくても意味が分かる。そのあたりの設計は、さすがに丁寧だった。

 通りを見回していると、炭火の匂いが鼻をくすぐった。

 屋台の上で、串に刺された肉の塊が脂を落としながら焼けている。脂が炭へ落ちるたび、小さく炎が上がった。

 身体の方が、先に反応した。

「一本、いくらですか」

「鉄貨六枚だ」

 腰の袋を探り、初期資金として入っていた硬貨の中から、それらしいものを六枚出した。

 店主は何も言わずに受け取ったので、間違ってはいないらしい。差し出された串焼きは、片手に余るほど大きかった。

 安い、と思う。その直後、この世界の物価を何一つ知らないことに気づいた。

 何と比べて安いのか、自分でも分からない。可笑しくなりながら、肉へ齧りついた。

 焼けた脂と肉汁が口の中へ広がる。塩気は強いが、香草の匂いがよく合っていた。

「美味い......」

 思わず口に出た。屋台の男が、当然だろうという顔をする。

 味覚まで再現されることは知っていた。

 紹介記事にも書かれていたし、先行体験者の感想でも何度も見た。それでも、知っていることと、実際に食べることは別だった。

 五十歳の身体なら、塩分や脂を少し気にしたかもしれない。

 しかし、今の身体はもう一口食べろと素直に訴えてくる。その要求に従う。罪悪感はなかった。

 冒険者ギルドは、一本入った通りにあった。剣と盾を描いた大きな看板が掲げられている。

 分かりやすい。初めて来た人間を迷わせないという点では、現実の病院も見習ってほしいところだった。

 中へ入ると、天井の高い広間に長机が並び、奥の壁を大きな掲示板が占めていた。

 紙が何枚も貼られ、その前を武装した男女が行き交っている。受付のカウンターでは、揃いの上着を着た若い女性が書類を整えていた。

 俺が近づくと、女性は顔を上げる。

「いらっしゃいませ。ご依頼ですか、登録ですか」

「えっと......登録をお願いしたいんですが」

「初めての方ですね。こちらへどうぞ」

 胸元の名札には、ミラと書かれていた。窓口へ案内され、名前や出身、扱える武器と魔法を尋ねられる。

「名前はノワールです」

 自分で付けた名前だが、他人へ名乗ると少し恥ずかしい。

「ご出身は?」

 何と答えるべきか少し悩んだが、世界観を崩さない方向でいくことにした。

「遠方です」

「遠方」

 ミラが筆を止め、顔を上げた。どうやら、説明としては足りなかったらしい。

「かなり遠いところです」

「そうですか」

 詳しくなってはいないが、ミラはそれ以上聞かなかった。空気が読める受付嬢だ。

「扱える武器や魔法はありますか」

「剣術と水魔法です」

「実戦経験は?」

「ありません」

「剣を使った経験も?」

「ありません」

 ミラの手が止まる。

「水魔法は使えますか」

「まだ試していません」

「......分かりました」

 少し間があった。

 使ったこともないものを扱えると言っているのだから、おかしい奴と思われて当然だ。

 そんなおかしい奴にでも受付嬢は淡々と説明を続ける。

「登録は石級からになります。一番下の等級です。依頼の受注と報告、報酬の受け取りは、基本的にこちらを通してください」

「石の次は何ですか」

「鉄です。実績を積み、審査を通れば上がれます。その先は銅、銀と続きますが、まずは石級の仕事からですね」

「わかりました、頑張ります」

 先の話まで聞くには、早かったらしい。ほどなくして、名前と登録番号の入った薄い証書を渡された。端には、石を表す簡素な印が押されている。

「冒険者証です。紛失すると再発行に費用がかかりますので、気をつけてください」

「気をつけます」

 両面を確認してから、腰の袋へしまう。

「一つ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「石級の人は、今も多いんですか」

 ミラが瞬きをした。

「ええ。登録したばかりの方は皆さん石級ですし、昇級には実績と審査が必要ですから」

「そうですか。先に始めた人は、もう上へ行っているのかと思いまして」

 ミラの返事が、ほんの少し遅れた。

「石は踏まれても、壊れませんから。悪くはありませんよ」

「ひょっとして慰められていますか」

「説明です」

 表情は真面目だった。本気なのか、からかわれたのかは分からない。NPCらしい受け答えなのかもしれない。

「ありがとうございます」

 礼を言うと、ミラは今度こそ、わずかに笑った。

 登録しただけで帰るのも惜しい。

「今日受けられる仕事はありますか」

「掲示板の下段が石級向けです。初めてでしたら、採取か運搬をお勧めします」

 言われた通り、掲示板の下側を見る。討伐、配達、清掃、採取。討伐依頼には心が動いた。

 せっかく剣術を選んだのだから、魔物と戦ってみたい。

 ただ、俺は剣を持っていない。水魔法も使ったことがない。初日から素手で魔物へ向かうほど、精神まで十八歳になったわけではなかった。

 ゲームの中でも、できることなら死ぬのは避けたい。

 東門の外で〈癒し草〉を集める依頼票を、掲示板から外す。

「これをお願いします」

 ミラは依頼票へ目を通した。

「東門の外、草原の縁に生えています。似た草がありますから、見本をよく覚えてください。」

 依頼票の下へ、葉と茎の絵が描かれている。葉は細長く、根元が赤い。縁には小さな切れ込みがある。

「この紙は持っていけますか」

「持っていけません」

「覚えるんですね」

「はい」

 簡単に言われた。もう一度、見本を見る。

「たぶん大丈夫です」

「自信がなさそうですね」

「似た草が、どれくらい似ているのか分からないので」

「実物を見ると、もう少し自信がなくなると思います」

 安心させるつもりはないらしい。

「他に注意点はありますか?」

「触るとかぶれる毒草もありますので、気をつけてください」

「......それは先に聞きたかったです」

「今、聞かれましたから」

 正しい。意地が悪い気もしたが、先ほどより話しやすくなった。

「日が落ちる前には戻ってください」

「分かりました」

 ギルド内の冒険者を見渡す。先達に聞いてみるのも選択肢だが、誰がプレイヤーで誰がNPCなのかわからない。

 仕事で人と関わるのは慣れている。

 だが、看護師という役割のない今の俺には、見知らぬ相手へ質問するのはハードルが高かった。

◆

 ギルドを出て、東門へ向かう。門には槍を持った衛兵が二人立っていた。

 年上に見える方が、通り抜けようとした俺を呼び止める。

「初めて見る顔だな。落人か」

 聞き慣れない言葉だった。

「落人という言葉を、今初めて聞きました」

「なら落人だろうな」

「そうなんですか」

 プレイヤーの別称だろうか。

 衛兵は隣の若い男を見た。若い方も、困った顔をする。

「外から急に来て、街のことを何も知らない。大体そうだ」

「では、たぶん落人です」

「素直だな」

 年上の衛兵が笑った。

「どこまで行くつもりだ?」

「薬草採取の依頼を受けたので、草原で〈癒し草〉を採ります」

「そうか。〈癒し草〉のある草原なら、大した危険はない。ただしホーンラビットでも群れれば厄介だ。追いかけるなよ」

「ホーンラビットですか......向こうから来た場合は?」

「逃げろ」

 分かりやすい忠告だった。

「剣はあるか」

「ありません」

「魔法は」

「今日、初めて使う予定です」

 二人は短く顔を見合わせた。

 今度は、若い方が口を開く。年上が呆れ半分で言うのとは違い、どこか本当に案じているような声だった。俺みたいな奴には慣れているのだろうか。

「......無理はしないでください。危ないと思ったら、その場で採るのをやめて、戻ってきてください」

「先ほど、逃げろと言われましたが」

「それも、そうしてください」

 念を押された。同じ忠告を二人がかりで言われるのなら、従った方がよさそうだ。

◆

 城壁を抜けると、視界が一気に開けた。背の低い草が、遠くまで続いている。風が通るたび、草原の表面に波のような揺れが走った。

 遠くには森が見える。南には、陽を反射する細い線があった。おそらく川だろう。

 土の道を、荷物を積んだ馬車が近づいてくる。端へ寄ると、御者が軽く頭を下げた。俺も同じように返す。

 街の外へ出た。ゲームを始めて、初めてのフィールドだ。顔には出さないつもりだったが、口元は緩んでいたかもしれない。

 草原の縁まで歩き、人の姿がないことを確認する。依頼を始める前に、水魔法を試してみたかった。

 手のひらを前へ向ける。水を出す。頭の中でそう考えた。

 何も起きない。もう少し意識を集中すると、指先が冷たくなった。薄い水の膜が皮膚を覆っている。

「おお」

 思ったより素直な声が出た。さらに力を込めると、水が手の前へ集まり、拳ほどの球になった。

 宙に浮いている。手で支えているわけでもないのに、落ちない。右へ動かそうと考える。水球が右へずれた。

 もう一つ作る。二つを並べ、大きさを変える。

 まとめようとすると、形が崩れて半分ほど地面へ落ちた。失敗した。それすら面白かった。

 近くの岩へ向けて、水球を飛ばす。

 勢いをつけた途端、途中で形が崩れ、水しぶきになって草へ落ちた。

 今度は速度を落とす。

 水球はゆっくり岩へ届いたが、当たったというより、表面を濡らしただけだった。

 威力と形の維持が、両立しない。そういう仕様なのか、俺が下手なのか。

 初めて使ったばかりなのだから、おそらく後者だろう。現実の仕事でも、初めから手が動いたわけではない。

 採血一つでも、手順を覚え、失敗し、繰り返すうちに迷わなくなった。

 魔法も同じかもしれない。違うのは、ここなら失敗しても誰かを傷つける心配がない代わりに、手順を教えてくれる人もいないことだ。

 加減の見当だけをつけ、魔力を解き、水を地面へ落とす。

 少し頭が重い感じがする。

 魔法を使った影響かもしれない。

 本来の仕事へ戻ろう。

 見本にあった〈癒し草〉を思い出し、しゃがみ込む。細い葉。赤い根元。葉の縁の切れ込み。草原を見渡すと、細い葉の草ばかりだった。

「これは難しいな」

 一株ずつ確かめる。根元は赤いが、葉の縁が違う。葉は似ているが、茎が緑色。絵で見た時は簡単そうだった。

 しかし、実物になるとどれもよく似ている。自信のあるものだけを選び、それでも規定量より多めに集めることにした。

 途中、離れたところの草が大きく揺れた。すぐに立ち上がる。ホーンラビットかもしれない。

 門の方向を確認したところで、草の中から小さな灰色の鳥が飛び出した。

 鳥はこちらを一度見て、そのまま飛び去った。しばらく見送ってから、息を吐く。

 剣も持っていないのに、気分だけ先に冒険者になっていたらしい。

 もう一度しゃがむ。

 今度は、似ている草を一株ずつ比べるのではなく、違うところだけを見ることにした。茎の色まで含めて比べると、少しずつ見分けがついてくる。

 どうやら、湿り気のある土を選ぶように生えている。

 一株見つけると、次にありそうな場所が分かった。

 目を移した先に、同じ特徴の株がある。さらにその先にもあった。予想が当たるたび、口元が緩む。

 分からなかったものに規則が見えてくる。それが、妙に楽しい。

 気づけば、風に鳴る草の音も、遠くを通る馬車の音も薄くなっていた。

◆

 採取袋の重みで我に返り、顔を上げる。先ほど鳥が飛び出した場所より、ずいぶん先まで来ていた。

 どれだけ時間が経ったのだろう。まだ時計を見たことのないこの世界では、それすらはっきりと分からない。

 その時間の曖昧さが、思いのほか心地よかった。

 もう一度しゃがむ。

 長くその姿勢でいても、膝が痛まない。腰を上げる時も、腿へ手をつく必要がない。

 何株か採るたび、立ち上がって身体を確かめた。痛みはない。

 浮かれている自覚はあったが、初日くらいは、その程度の浮かれ方を許してもいいだろう。

◆

 日が傾く前に街へ戻った。門の前では、先ほどの衛兵たちがまだ立っていた。若い方が採取袋を見る。

「逃げてきたわけじゃなさそうですね」

「はい、鳥に驚いただけでした」

「ホーンラビットはいましたか?」

「見ていません」

「運が良かったですね」

 会わなくてよかった。

◆

 冒険者ギルドへ戻ると、ミラが採取袋の中身を机へ広げた。一株ずつ確認し、二本を脇へ避ける。

「こちらは別の草です」

「二本だけですか」

 意外に間違えていなかったようだ。

「もっと間違えていると思っていました?」

「途中から、みんな同じ草に見えてきました」

 ミラは避けた一本を裏返した。

「こちらは葉の裏が白いです」

 言われて初めて違いが分かる。

「見本では分かりませんでした」

「描いてありましたよ」

「小さすぎます」

「皆さん、最初はそう言います」

 改善される予定はなさそうだった。

「残りで規定量には届いています。依頼達成です」

 手続きの後、銅貨五枚が並べられた。

「初めてにしては上出来ですよ。最初は、半分違うものを持ってくる方もいます」

「本当に?」

「いるんです」

 慰めなのか、事実なのか。聞き返すと、ミラは真面目な顔で頷いた。俺は礼を言い、報酬を受け取った。

 初期資金も金には違いない。だが、自分で歩き、自分で草を選び、仕事として受け取った五枚は、初期資金とは違って見えた。

 手のひらへ載せると、硬貨の重さまで増したように感じる。もちろん気のせいだ。それでも、悪い気はしなかった。

「ありがとうございます。ところで宿を探しているんですが、どこか良い所はありますか」

「そうですね......静かなところでしたら、〈鈍色亭〉が良いと思います。西寄りにあります」

「あと、剣を買える店も知りたいんですが」

「大通りの角に〈鉄床亭〉があります。金槌の看板です」

「ありがとうございます」

◆

 ギルドを出ると、金槌の看板はすぐに見つかった。店先には剣、革鎧、水袋、縄、採取用の道具が並んでいる。奥にいた太い腕の男が、こちらを見た。

「おう、兄ちゃん。何を探してるんだ」

「剣を見たいんですが」

 ファンタジーな道具が並ぶ光景に、つい頬が緩む。

「剣なら、先に予算を聞かせてもらえるか」

 いきなり難しい質問だった。

「今日、石級になったばかりなので手持ちが少ないのですが」

「石級になったばかりか。それなら、まだ足りないだろうな」

「まだ金額を言っていませんが」

「石級になったばかりなら、大体は分かるさ」

 壁へ掛けられた剣を一本指される。

「安い物なら、そこに掛けてあるのが一番下だ」

 値札を見る。今日の報酬の、何倍もした。

「全然足りませんね」

「だろうな。今の手持ちじゃ、剣まで回らないだろ」

 身も蓋もない。俺は肩を落とす。

「何日くらい働けば買えますか」

「飯と宿を抜けばすぐだが、そういう買い方は勧めない」

「死んでしまいます」

「そうだろ。だから、焦らず貯めた方がいい」

 正論だった。剣を持たせてもらう。思っていたより重い。今の身体なら振ることはできそうだが、振れることと扱えることは違う。

「初心者には重いですか」

「今のあんたには少し重いな。振ることはできても、止める時に剣へ持っていかれる」

 素振りをしてみた。振った後の剣の重さに腕が持っていかれる感覚がある。

「止める時......なるほど」

 愛想はないが、売るために都合のいいことを言っている様子でもなかった。

 革鎧や水袋も見る。必要な物が、見るたびに増えていく。剣一本あれば冒険者になれるわけではないらしい。

「今日は見るだけにします」

「それがいい。買うのは、扱える物が分かってからでも遅くない」

「嫌な顔をしないんですね」

「金のない奴に無理やり売っても、後で困るだけだ」

 その通りだった。

「また来ます」

「ああ。買えるだけ貯まった頃には、買いたい剣がわかるだろうさ」

「それも楽しみにしておきます」

 店を出た。店主は無愛想ではあったが、不親切ではないように思えた。

 また来よう。

◆

 〈鈍色亭〉は、大通りを外れた通りにあった。建物は古い。

 入口の周囲はきれいに掃かれ、窓枠にも目立った傷みはない。扉を開けると、木と、かすかな薬草の匂いがした。

 カウンターの奥から、恰幅のいい中年の女性が顔を出す。

「あら、お客さん。宿泊かい?」

「はい。部屋は空いていますか」

「空いてるよ。素泊まりなら銅貨三枚。朝晩の食事つきなら四枚。個室にするなら、そこへ二枚追加」

 食事つきの個室なら六枚。今日の報酬は五枚。

 毎日同じ程度しか稼げなければ、少しずつ手持ちが減っていく。相部屋にする方が堅実だった。

 それでも今日は、一人で落ち着ける場所が欲しかった。

「食事つきの個室でお願いします」

「毎度あり」

 女将は料金を受け取り、カウンターの下から鉄の鍵を出した。

 手へ載せられた鍵は、ずしりと重い。

 ゲーム内で部屋を借りるだけなのに、本当に宿泊客になったような感触があった。

「食事は朝と晩、下の食堂で。湯を使いたい時は声をかけな」

 鍵を渡し終えても、女将はすぐには奥へ引っ込まなかった。俺の顔から、服や靴、腰の荷へと視線を動かした。

「あんた、落人だね」

 衛兵と同じ言葉だった。今日、二度目だ。

「やっぱり分かりますか」

「何でも珍しそうに見る顔をしてる。長いことこの商売をしてりゃ、来たばかりの顔くらい分かるさ」

 否定はできなかった。

「落人というのは、遠くから来た人間という意味ですか」

「まあ、そんなところだよ」

 女将はそれ以上は言わず、布巾を手に取ってカウンターを拭き始めた。落人が何なのかは、今夜ログアウトしてから調べればいい。

 鍵をしまいかけて、一つだけ聞くことにした。

「剣を習える人を知りませんか。冒険者になったんですが、扱ったことがなくて」

 拭く手が止まった。女将は目を見開いたが、笑いはしなかった。

「剣も持たずに登録したのかい。......まあ、あんたみたいなのも、たまに来るよ」

 呆れられて当然だと思っていたが、そういう声ではなかった。

「まずギルドで木剣でも借りて、素振りから覚えな。町に一人、腕の立つのがいる。見てもらうのは、それからだ」

「その人に教えてもらえますか」

 チュートリアルNPCなのだろうか。

「機嫌によるね。悪けりゃ、木剣で叩き出される」

 習いに行って叩き出されるのは勘弁してほしい。

 もっとも、機嫌ひとつで態度の変わる相手なら、現実の職場にも覚えがあった。心構えだけはしておこう。

 礼を言うと、女将はもう一度こちらを見た。

「あまり気張って、怪我して帰ってくるんじゃないよ」

「......気をつけます」

「そうしな」

 女将は、ようやく奥へ引っ込んだ。

 部屋へ荷物を置き、階下で夕食を取った。

 獣肉のシチューと、硬いパンだった。パンをそのまま齧る。

 硬い。二度噛んだところで、隣の卓へ目が向いた。

 男たちは、パンを小さく割り、シチューへ沈めてから口へ運んでいる。

 真似をしてみると、ずっと食べやすくなった。

 向こうの一人がこちらを見て、口元だけで笑った。たぶん、最初から見られていたのだろう。

 卓の向こうでは、ダンジョンや素材の相場、誰かが負った怪我の話が途切れず続いていた。

 彼らにとって冒険は、特別な催しではない。仕事であり、生活なのだろう。

 食事を終え、部屋へ戻る。個室は狭かった。

 木の床、簡素な寝台、小さな卓と椅子。窓の外には街灯の光があり、通りを歩く者の声が時々聞こえた。

 荷物を置き、鉄の鍵を卓へ載せる。硬い音がした。

 今日一日を思い返す。

 串焼きを食べた。冒険者になった。水魔法を使った。時間を忘れて薬草採取をした。薬草を二本間違えた。

 報酬を受け取った。剣は高くて買えなかった。硬いパンの食べ方を、知らない男に笑われた。

 剣と魔法の世界へ来た初日としては、ずいぶん地味だ。

 それでも、いい一日だった。

 ゲーム初日の浮かれた気持ちは落ち着き始めている。女将に教えられた、剣術指南役は明日探せばいい。

「さて」

 今夜は、これで終わりにするか。なんとなくメニューを開く。昼間と同じ、必要最低限の項目だけが並んだ。

 名前。装備。所持金。スキル。

 いくつかの項目を流し、ふとログアウトの文字を探した。見つからない。別の場所にあるのだろうと思い、一つ前へ戻る。もう一度、上から見る。

 名前。装備。所持金。スキル。

 ない。

 そういえば、ログアウトしようとしたのは、これが初めてだった。広場へ降りてから今まで、一度も考えなかった。

 現実では、今は何時なのだろう。額へ当てた機器の下で、俺の身体はどうなっている。

 窓の外の街灯は、変わらず光っている。

 卓の上に置いた鉄の鍵も、先ほどと同じ場所にある。
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明日も、ダンジョンへ。作者:為書結依
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第2話 串焼きと、宿の鍵

 五十年近く染みついた身体の動かし方が、十八歳の筋肉とうまく噛み合っていなかった。

 歩幅が違う。腕の振れ方も違う。普段と同じつもりで踏み出すと、身体が思ったより前へ出てしまう。

 慌てて速度を落とし、もう一度歩き直した。

 思った場所へ足を置くだけなのに、いくらか調整がいる。それが妙に面白かった。

 人通りの多い大通りへ出る。石造りの建物が両側に並び、露店の幌が風に揺れていた。

 行き交う者たちの言葉は、意識しなくても意味が分かる。そのあたりの設計は、さすがに丁寧だった。

 通りを見回していると、炭火の匂いが鼻をくすぐった。

 屋台の上で、串に刺された肉の塊が脂を落としながら焼けている。脂が炭へ落ちるたび、小さく炎が上がった。

 身体の方が、先に反応した。

「一本、いくらですか」

「鉄貨六枚だ」

 腰の袋を探り、初期資金として入っていた硬貨の中から、それらしいものを六枚出した。

 店主は何も言わずに受け取ったので、間違ってはいないらしい。差し出された串焼きは、片手に余るほど大きかった。

 安い、と思う。その直後、この世界の物価を何一つ知らないことに気づいた。

 何と比べて安いのか、自分でも分からない。可笑しくなりながら、肉へ齧りついた。

 焼けた脂と肉汁が口の中へ広がる。塩気は強いが、香草の匂いがよく合っていた。

「美味い......」

 思わず口に出た。屋台の男が、当然だろうという顔をする。

 味覚まで再現されることは知っていた。

 紹介記事にも書かれていたし、先行体験者の感想でも何度も見た。それでも、知っていることと、実際に食べることは別だった。

 五十歳の身体なら、塩分や脂を少し気にしたかもしれない。

 しかし、今の身体はもう一口食べろと素直に訴えてくる。その要求に従う。罪悪感はなかった。

 冒険者ギルドは、一本入った通りにあった。剣と盾を描いた大きな看板が掲げられている。

 分かりやすい。初めて来た人間を迷わせないという点では、現実の病院も見習ってほしいところだった。

 中へ入ると、天井の高い広間に長机が並び、奥の壁を大きな掲示板が占めていた。

 紙が何枚も貼られ、その前を武装した男女が行き交っている。受付のカウンターでは、揃いの上着を着た若い女性が書類を整えていた。

 俺が近づくと、女性は顔を上げる。

「いらっしゃいませ。ご依頼ですか、登録ですか」

「えっと......登録をお願いしたいんですが」

「初めての方ですね。こちらへどうぞ」

 胸元の名札には、ミラと書かれていた。窓口へ案内され、名前や出身、扱える武器と魔法を尋ねられる。

「名前はノワールです」

 自分で付けた名前だが、他人へ名乗ると少し恥ずかしい。

「ご出身は?」

 何と答えるべきか少し悩んだが、世界観を崩さない方向でいくことにした。

「遠方です」

「遠方」

 ミラが筆を止め、顔を上げた。どうやら、説明としては足りなかったらしい。

「かなり遠いところです」

「そうですか」

 詳しくなってはいないが、ミラはそれ以上聞かなかった。空気が読める受付嬢だ。

「扱える武器や魔法はありますか」

「剣術と水魔法です」

「実戦経験は?」

「ありません」

「剣を使った経験も?」

「ありません」

 ミラの手が止まる。

「水魔法は使えますか」

「まだ試していません」

「......分かりました」

 少し間があった。

 使ったこともないものを扱えると言っているのだから、おかしい奴と思われて当然だ。

 そんなおかしい奴にでも受付嬢は淡々と説明を続ける。

「登録は石級からになります。一番下の等級です。依頼の受注と報告、報酬の受け取りは、基本的にこちらを通してください」

「石の次は何ですか」

「鉄です。実績を積み、審査を通れば上がれます。その先は銅、銀と続きますが、まずは石級の仕事からですね」

「わかりました、頑張ります」

 先の話まで聞くには、早かったらしい。ほどなくして、名前と登録番号の入った薄い証書を渡された。端には、石を表す簡素な印が押されている。

「冒険者証です。紛失すると再発行に費用がかかりますので、気をつけてください」

「気をつけます」

 両面を確認してから、腰の袋へしまう。

「一つ聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「石級の人は、今も多いんですか」

 ミラが瞬きをした。

「ええ。登録したばかりの方は皆さん石級ですし、昇級には実績と審査が必要ですから」

「そうですか。先に始めた人は、もう上へ行っているのかと思いまして」

 ミラの返事が、ほんの少し遅れた。

「石は踏まれても、壊れませんから。悪くはありませんよ」

「ひょっとして慰められていますか」

「説明です」

 表情は真面目だった。本気なのか、からかわれたのかは分からない。NPCらしい受け答えなのかもしれない。

「ありがとうございます」

 礼を言うと、ミラは今度こそ、わずかに笑った。

 登録しただけで帰るのも惜しい。

「今日受けられる仕事はありますか」

「掲示板の下段が石級向けです。初めてでしたら、採取か運搬をお勧めします」

 言われた通り、掲示板の下側を見る。討伐、配達、清掃、採取。討伐依頼には心が動いた。

 せっかく剣術を選んだのだから、魔物と戦ってみたい。

 ただ、俺は剣を持っていない。水魔法も使ったことがない。初日から素手で魔物へ向かうほど、精神まで十八歳になったわけではなかった。

 ゲームの中でも、できることなら死ぬのは避けたい。

 東門の外で〈癒し草〉を集める依頼票を、掲示板から外す。

「これをお願いします」

 ミラは依頼票へ目を通した。

「東門の外、草原の縁に生えています。似た草がありますから、見本をよく覚えてください。」

 依頼票の下へ、葉と茎の絵が描かれている。葉は細長く、根元が赤い。縁には小さな切れ込みがある。

「この紙は持っていけますか」

「持っていけません」

「覚えるんですね」

「はい」

 簡単に言われた。もう一度、見本を見る。

「たぶん大丈夫です」

「自信がなさそうですね」

「似た草が、どれくらい似ているのか分からないので」

「実物を見ると、もう少し自信がなくなると思います」

 安心させるつもりはないらしい。

「他に注意点はありますか?」

「触るとかぶれる毒草もありますので、気をつけてください」

「......それは先に聞きたかったです」

「今、聞かれましたから」

 正しい。意地が悪い気もしたが、先ほどより話しやすくなった。

「日が落ちる前には戻ってください」

「分かりました」

 ギルド内の冒険者を見渡す。先達に聞いてみるのも選択肢だが、誰がプレイヤーで誰がNPCなのかわからない。

 仕事で人と関わるのは慣れている。

 だが、看護師という役割のない今の俺には、見知らぬ相手へ質問するのはハードルが高かった。

◆

 ギルドを出て、東門へ向かう。門には槍を持った衛兵が二人立っていた。

 年上に見える方が、通り抜けようとした俺を呼び止める。

「初めて見る顔だな。落人か」

 聞き慣れない言葉だった。

「落人という言葉を、今初めて聞きました」

「なら落人だろうな」

「そうなんですか」

 プレイヤーの別称だろうか。

 衛兵は隣の若い男を見た。若い方も、困った顔をする。

「外から急に来て、街のことを何も知らない。大体そうだ」

「では、たぶん落人です」

「素直だな」

 年上の衛兵が笑った。

「どこまで行くつもりだ?」

「薬草採取の依頼を受けたので、草原で〈癒し草〉を採ります」

「そうか。〈癒し草〉のある草原なら、大した危険はない。ただしホーンラビットでも群れれば厄介だ。追いかけるなよ」

「ホーンラビットですか......向こうから来た場合は?」

「逃げろ」

 分かりやすい忠告だった。

「剣はあるか」

「ありません」

「魔法は」

「今日、初めて使う予定です」

 二人は短く顔を見合わせた。

 今度は、若い方が口を開く。年上が呆れ半分で言うのとは違い、どこか本当に案じているような声だった。俺みたいな奴には慣れているのだろうか。

「......無理はしないでください。危ないと思ったら、その場で採るのをやめて、戻ってきてください」

「先ほど、逃げろと言われましたが」

「それも、そうしてください」

 念を押された。同じ忠告を二人がかりで言われるのなら、従った方がよさそうだ。

◆

 城壁を抜けると、視界が一気に開けた。背の低い草が、遠くまで続いている。風が通るたび、草原の表面に波のような揺れが走った。

 遠くには森が見える。南には、陽を反射する細い線があった。おそらく川だろう。

 土の道を、荷物を積んだ馬車が近づいてくる。端へ寄ると、御者が軽く頭を下げた。俺も同じように返す。

 街の外へ出た。ゲームを始めて、初めてのフィールドだ。顔には出さないつもりだったが、口元は緩んでいたかもしれない。

 草原の縁まで歩き、人の姿がないことを確認する。依頼を始める前に、水魔法を試してみたかった。

 手のひらを前へ向ける。水を出す。頭の中でそう考えた。

 何も起きない。もう少し意識を集中すると、指先が冷たくなった。薄い水の膜が皮膚を覆っている。

「おお」

 思ったより素直な声が出た。さらに力を込めると、水が手の前へ集まり、拳ほどの球になった。

 宙に浮いている。手で支えているわけでもないのに、落ちない。右へ動かそうと考える。水球が右へずれた。

 もう一つ作る。二つを並べ、大きさを変える。

 まとめようとすると、形が崩れて半分ほど地面へ落ちた。失敗した。それすら面白かった。

 近くの岩へ向けて、水球を飛ばす。

 勢いをつけた途端、途中で形が崩れ、水しぶきになって草へ落ちた。

 今度は速度を落とす。

 水球はゆっくり岩へ届いたが、当たったというより、表面を濡らしただけだった。

 威力と形の維持が、両立しない。そういう仕様なのか、俺が下手なのか。

 初めて使ったばかりなのだから、おそらく後者だろう。現実の仕事でも、初めから手が動いたわけではない。

 採血一つでも、手順を覚え、失敗し、繰り返すうちに迷わなくなった。

 魔法も同じかもしれない。違うのは、ここなら失敗しても誰かを傷つける心配がない代わりに、手順を教えてくれる人もいないことだ。

 加減の見当だけをつけ、魔力を解き、水を地面へ落とす。

 少し頭が重い感じがする。

 魔法を使った影響かもしれない。

 本来の仕事へ戻ろう。

 見本にあった〈癒し草〉を思い出し、しゃがみ込む。細い葉。赤い根元。葉の縁の切れ込み。草原を見渡すと、細い葉の草ばかりだった。

「これは難しいな」

 一株ずつ確かめる。根元は赤いが、葉の縁が違う。葉は似ているが、茎が緑色。絵で見た時は簡単そうだった。

 しかし、実物になるとどれもよく似ている。自信のあるものだけを選び、それでも規定量より多めに集めることにした。

 途中、離れたところの草が大きく揺れた。すぐに立ち上がる。ホーンラビットかもしれない。

 門の方向を確認したところで、草の中から小さな灰色の鳥が飛び出した。

 鳥はこちらを一度見て、そのまま飛び去った。しばらく見送ってから、息を吐く。

 剣も持っていないのに、気分だけ先に冒険者になっていたらしい。

 もう一度しゃがむ。

 今度は、似ている草を一株ずつ比べるのではなく、違うところだけを見ることにした。茎の色まで含めて比べると、少しずつ見分けがついてくる。

 どうやら、湿り気のある土を選ぶように生えている。

 一株見つけると、次にありそうな場所が分かった。

 目を移した先に、同じ特徴の株がある。さらにその先にもあった。予想が当たるたび、口元が緩む。

 分からなかったものに規則が見えてくる。それが、妙に楽しい。

 気づけば、風に鳴る草の音も、遠くを通る馬車の音も薄くなっていた。

◆

 採取袋の重みで我に返り、顔を上げる。先ほど鳥が飛び出した場所より、ずいぶん先まで来ていた。

 どれだけ時間が経ったのだろう。まだ時計を見たことのないこの世界では、それすらはっきりと分からない。

 その時間の曖昧さが、思いのほか心地よかった。

 もう一度しゃがむ。

 長くその姿勢でいても、膝が痛まない。腰を上げる時も、腿へ手をつく必要がない。

 何株か採るたび、立ち上がって身体を確かめた。痛みはない。

 浮かれている自覚はあったが、初日くらいは、その程度の浮かれ方を許してもいいだろう。

◆

 日が傾く前に街へ戻った。門の前では、先ほどの衛兵たちがまだ立っていた。若い方が採取袋を見る。

「逃げてきたわけじゃなさそうですね」

「はい、鳥に驚いただけでした」

「ホーンラビットはいましたか?」

「見ていません」

「運が良かったですね」

 会わなくてよかった。

◆

 冒険者ギルドへ戻ると、ミラが採取袋の中身を机へ広げた。一株ずつ確認し、二本を脇へ避ける。

「こちらは別の草です」

「二本だけですか」

 意外に間違えていなかったようだ。

「もっと間違えていると思っていました?」

「途中から、みんな同じ草に見えてきました」

 ミラは避けた一本を裏返した。

「こちらは葉の裏が白いです」

 言われて初めて違いが分かる。

「見本では分かりませんでした」

「描いてありましたよ」

「小さすぎます」

「皆さん、最初はそう言います」

 改善される予定はなさそうだった。

「残りで規定量には届いています。依頼達成です」

 手続きの後、銅貨五枚が並べられた。

「初めてにしては上出来ですよ。最初は、半分違うものを持ってくる方もいます」

「本当に?」

「いるんです」

 慰めなのか、事実なのか。聞き返すと、ミラは真面目な顔で頷いた。俺は礼を言い、報酬を受け取った。

 初期資金も金には違いない。だが、自分で歩き、自分で草を選び、仕事として受け取った五枚は、初期資金とは違って見えた。

 手のひらへ載せると、硬貨の重さまで増したように感じる。もちろん気のせいだ。それでも、悪い気はしなかった。

「ありがとうございます。ところで宿を探しているんですが、どこか良い所はありますか」

「そうですね......静かなところでしたら、〈鈍色亭〉が良いと思います。西寄りにあります」

「あと、剣を買える店も知りたいんですが」

「大通りの角に〈鉄床亭〉があります。金槌の看板です」

「ありがとうございます」

◆

 ギルドを出ると、金槌の看板はすぐに見つかった。店先には剣、革鎧、水袋、縄、採取用の道具が並んでいる。奥にいた太い腕の男が、こちらを見た。

「おう、兄ちゃん。何を探してるんだ」

「剣を見たいんですが」

 ファンタジーな道具が並ぶ光景に、つい頬が緩む。

「剣なら、先に予算を聞かせてもらえるか」

 いきなり難しい質問だった。

「今日、石級になったばかりなので手持ちが少ないのですが」

「石級になったばかりか。それなら、まだ足りないだろうな」

「まだ金額を言っていませんが」

「石級になったばかりなら、大体は分かるさ」

 壁へ掛けられた剣を一本指される。

「安い物なら、そこに掛けてあるのが一番下だ」

 値札を見る。今日の報酬の、何倍もした。

「全然足りませんね」

「だろうな。今の手持ちじゃ、剣まで回らないだろ」

 身も蓋もない。俺は肩を落とす。

「何日くらい働けば買えますか」

「飯と宿を抜けばすぐだが、そういう買い方は勧めない」

「死んでしまいます」

「そうだろ。だから、焦らず貯めた方がいい」

 正論だった。剣を持たせてもらう。思っていたより重い。今の身体なら振ることはできそうだが、振れることと扱えることは違う。

「初心者には重いですか」

「今のあんたには少し重いな。振ることはできても、止める時に剣へ持っていかれる」

 素振りをしてみた。振った後の剣の重さに腕が持っていかれる感覚がある。

「止める時......なるほど」

 愛想はないが、売るために都合のいいことを言っている様子でもなかった。

 革鎧や水袋も見る。必要な物が、見るたびに増えていく。剣一本あれば冒険者になれるわけではないらしい。

「今日は見るだけにします」

「それがいい。買うのは、扱える物が分かってからでも遅くない」

「嫌な顔をしないんですね」

「金のない奴に無理やり売っても、後で困るだけだ」

 その通りだった。

「また来ます」

「ああ。買えるだけ貯まった頃には、買いたい剣がわかるだろうさ」

「それも楽しみにしておきます」

 店を出た。店主は無愛想ではあったが、不親切ではないように思えた。

 また来よう。

◆

 〈鈍色亭〉は、大通りを外れた通りにあった。建物は古い。

 入口の周囲はきれいに掃かれ、窓枠にも目立った傷みはない。扉を開けると、木と、かすかな薬草の匂いがした。

 カウンターの奥から、恰幅のいい中年の女性が顔を出す。

「あら、お客さん。宿泊かい?」

「はい。部屋は空いていますか」

「空いてるよ。素泊まりなら銅貨三枚。朝晩の食事つきなら四枚。個室にするなら、そこへ二枚追加」

 食事つきの個室なら六枚。今日の報酬は五枚。

 毎日同じ程度しか稼げなければ、少しずつ手持ちが減っていく。相部屋にする方が堅実だった。

 それでも今日は、一人で落ち着ける場所が欲しかった。

「食事つきの個室でお願いします」

「毎度あり」

 女将は料金を受け取り、カウンターの下から鉄の鍵を出した。

 手へ載せられた鍵は、ずしりと重い。

 ゲーム内で部屋を借りるだけなのに、本当に宿泊客になったような感触があった。

「食事は朝と晩、下の食堂で。湯を使いたい時は声をかけな」

 鍵を渡し終えても、女将はすぐには奥へ引っ込まなかった。俺の顔から、服や靴、腰の荷へと視線を動かした。

「あんた、落人だね」

 衛兵と同じ言葉だった。今日、二度目だ。

「やっぱり分かりますか」

「何でも珍しそうに見る顔をしてる。長いことこの商売をしてりゃ、来たばかりの顔くらい分かるさ」

 否定はできなかった。

「落人というのは、遠くから来た人間という意味ですか」

「まあ、そんなところだよ」

 女将はそれ以上は言わず、布巾を手に取ってカウンターを拭き始めた。落人が何なのかは、今夜ログアウトしてから調べればいい。

 鍵をしまいかけて、一つだけ聞くことにした。

「剣を習える人を知りませんか。冒険者になったんですが、扱ったことがなくて」

 拭く手が止まった。女将は目を見開いたが、笑いはしなかった。

「剣も持たずに登録したのかい。......まあ、あんたみたいなのも、たまに来るよ」

 呆れられて当然だと思っていたが、そういう声ではなかった。

「まずギルドで木剣でも借りて、素振りから覚えな。町に一人、腕の立つのがいる。見てもらうのは、それからだ」

「その人に教えてもらえますか」

 チュートリアルNPCなのだろうか。

「機嫌によるね。悪けりゃ、木剣で叩き出される」

 習いに行って叩き出されるのは勘弁してほしい。

 もっとも、機嫌ひとつで態度の変わる相手なら、現実の職場にも覚えがあった。心構えだけはしておこう。

 礼を言うと、女将はもう一度こちらを見た。

「あまり気張って、怪我して帰ってくるんじゃないよ」

「......気をつけます」

「そうしな」

 女将は、ようやく奥へ引っ込んだ。

 部屋へ荷物を置き、階下で夕食を取った。

 獣肉のシチューと、硬いパンだった。パンをそのまま齧る。

 硬い。二度噛んだところで、隣の卓へ目が向いた。

 男たちは、パンを小さく割り、シチューへ沈めてから口へ運んでいる。

 真似をしてみると、ずっと食べやすくなった。

 向こうの一人がこちらを見て、口元だけで笑った。たぶん、最初から見られていたのだろう。

 卓の向こうでは、ダンジョンや素材の相場、誰かが負った怪我の話が途切れず続いていた。

 彼らにとって冒険は、特別な催しではない。仕事であり、生活なのだろう。

 食事を終え、部屋へ戻る。個室は狭かった。

 木の床、簡素な寝台、小さな卓と椅子。窓の外には街灯の光があり、通りを歩く者の声が時々聞こえた。

 荷物を置き、鉄の鍵を卓へ載せる。硬い音がした。

 今日一日を思い返す。

 串焼きを食べた。冒険者になった。水魔法を使った。時間を忘れて薬草採取をした。薬草を二本間違えた。

 報酬を受け取った。剣は高くて買えなかった。硬いパンの食べ方を、知らない男に笑われた。

 剣と魔法の世界へ来た初日としては、ずいぶん地味だ。

 それでも、いい一日だった。

 ゲーム初日の浮かれた気持ちは落ち着き始めている。女将に教えられた、剣術指南役は明日探せばいい。

「さて」

 今夜は、これで終わりにするか。なんとなくメニューを開く。昼間と同じ、必要最低限の項目だけが並んだ。

 名前。装備。所持金。スキル。

 いくつかの項目を流し、ふとログアウトの文字を探した。見つからない。別の場所にあるのだろうと思い、一つ前へ戻る。もう一度、上から見る。

 名前。装備。所持金。スキル。

 ない。

 そういえば、ログアウトしようとしたのは、これが初めてだった。広場へ降りてから今まで、一度も考えなかった。

 現実では、今は何時なのだろう。額へ当てた機器の下で、俺の身体はどうなっている。

 窓の外の街灯は、変わらず光っている。

 卓の上に置いた鉄の鍵も、先ほどと同じ場所にある。
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次の話第3話 灰かぶり
明日も、ダンジョンへ。作者:為書結依
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