第2話 串焼きと、宿の鍵
五十年近く染みついた身体の動かし方が、十八歳の筋肉とうまく噛み合っていなかった。
歩幅が違う。腕の振れ方も違う。普段と同じつもりで踏み出すと、身体が思ったより前へ出てしまう。
慌てて速度を落とし、もう一度歩き直した。
思った場所へ足を置くだけなのに、いくらか調整がいる。それが妙に面白かった。
人通りの多い大通りへ出る。石造りの建物が両側に並び、露店の幌が風に揺れていた。
行き交う者たちの言葉は、意識しなくても意味が分かる。そのあたりの設計は、さすがに丁寧だった。
通りを見回していると、炭火の匂いが鼻をくすぐった。
屋台の上で、串に刺された肉の塊が脂を落としながら焼けている。脂が炭へ落ちるたび、小さく炎が上がった。
身体の方が、先に反応した。
「一本、いくらですか」
「鉄貨六枚だ」
腰の袋を探り、初期資金として入っていた硬貨の中から、それらしいものを六枚出した。
店主は何も言わずに受け取ったので、間違ってはいないらしい。差し出された串焼きは、片手に余るほど大きかった。
安い、と思う。その直後、この世界の物価を何一つ知らないことに気づいた。
何と比べて安いのか、自分でも分からない。可笑しくなりながら、肉へ齧りついた。
焼けた脂と肉汁が口の中へ広がる。塩気は強いが、香草の匂いがよく合っていた。
「美味い......」
思わず口に出た。屋台の男が、当然だろうという顔をする。
味覚まで再現されることは知っていた。
紹介記事にも書かれていたし、先行体験者の感想でも何度も見た。それでも、知っていることと、実際に食べることは別だった。
五十歳の身体なら、塩分や脂を少し気にしたかもしれない。
しかし、今の身体はもう一口食べろと素直に訴えてくる。その要求に従う。罪悪感はなかった。
冒険者ギルドは、一本入った通りにあった。剣と盾を描いた大きな看板が掲げられている。
分かりやすい。初めて来た人間を迷わせないという点では、現実の病院も見習ってほしいところだった。
中へ入ると、天井の高い広間に長机が並び、奥の壁を大きな掲示板が占めていた。
紙が何枚も貼られ、その前を武装した男女が行き交っている。受付のカウンターでは、揃いの上着を着た若い女性が書類を整えていた。
俺が近づくと、女性は顔を上げる。
「いらっしゃいませ。ご依頼ですか、登録ですか」
「えっと......登録をお願いしたいんですが」
「初めての方ですね。こちらへどうぞ」
胸元の名札には、ミラと書かれていた。窓口へ案内され、名前や出身、扱える武器と魔法を尋ねられる。
「名前はノワールです」
自分で付けた名前だが、他人へ名乗ると少し恥ずかしい。
「ご出身は?」
何と答えるべきか少し悩んだが、世界観を崩さない方向でいくことにした。
「遠方です」
「遠方」
ミラが筆を止め、顔を上げた。どうやら、説明としては足りなかったらしい。
「かなり遠いところです」
「そうですか」
詳しくなってはいないが、ミラはそれ以上聞かなかった。空気が読める受付嬢だ。
「扱える武器や魔法はありますか」
「剣術と水魔法です」
「実戦経験は?」
「ありません」
「剣を使った経験も?」
「ありません」
ミラの手が止まる。
「水魔法は使えますか」
「まだ試していません」
「......分かりました」
少し間があった。
使ったこともないものを扱えると言っているのだから、おかしい奴と思われて当然だ。
そんなおかしい奴にでも受付嬢は淡々と説明を続ける。
「登録は石級からになります。一番下の等級です。依頼の受注と報告、報酬の受け取りは、基本的にこちらを通してください」
「石の次は何ですか」
「鉄です。実績を積み、審査を通れば上がれます。その先は銅、銀と続きますが、まずは石級の仕事からですね」
「わかりました、頑張ります」
先の話まで聞くには、早かったらしい。ほどなくして、名前と登録番号の入った薄い証書を渡された。端には、石を表す簡素な印が押されている。
「冒険者証です。紛失すると再発行に費用がかかりますので、気をつけてください」
「気をつけます」
両面を確認してから、腰の袋へしまう。
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「石級の人は、今も多いんですか」
ミラが瞬きをした。
「ええ。登録したばかりの方は皆さん石級ですし、昇級には実績と審査が必要ですから」
「そうですか。先に始めた人は、もう上へ行っているのかと思いまして」
ミラの返事が、ほんの少し遅れた。
「石は踏まれても、壊れませんから。悪くはありませんよ」
「ひょっとして慰められていますか」
「説明です」
表情は真面目だった。本気なのか、からかわれたのかは分からない。NPCらしい受け答えなのかもしれない。
「ありがとうございます」
礼を言うと、ミラは今度こそ、わずかに笑った。
登録しただけで帰るのも惜しい。
「今日受けられる仕事はありますか」
「掲示板の下段が石級向けです。初めてでしたら、採取か運搬をお勧めします」
言われた通り、掲示板の下側を見る。討伐、配達、清掃、採取。討伐依頼には心が動いた。
せっかく剣術を選んだのだから、魔物と戦ってみたい。
ただ、俺は剣を持っていない。水魔法も使ったことがない。初日から素手で魔物へ向かうほど、精神まで十八歳になったわけではなかった。
ゲームの中でも、できることなら死ぬのは避けたい。
東門の外で〈癒し草〉を集める依頼票を、掲示板から外す。
「これをお願いします」
ミラは依頼票へ目を通した。
「東門の外、草原の縁に生えています。似た草がありますから、見本をよく覚えてください。」
依頼票の下へ、葉と茎の絵が描かれている。葉は細長く、根元が赤い。縁には小さな切れ込みがある。
「この紙は持っていけますか」
「持っていけません」
「覚えるんですね」
「はい」
簡単に言われた。もう一度、見本を見る。
「たぶん大丈夫です」
「自信がなさそうですね」
「似た草が、どれくらい似ているのか分からないので」
「実物を見ると、もう少し自信がなくなると思います」
安心させるつもりはないらしい。
「他に注意点はありますか?」
「触るとかぶれる毒草もありますので、気をつけてください」
「......それは先に聞きたかったです」
「今、聞かれましたから」
正しい。意地が悪い気もしたが、先ほどより話しやすくなった。
「日が落ちる前には戻ってください」
「分かりました」
ギルド内の冒険者を見渡す。先達に聞いてみるのも選択肢だが、誰がプレイヤーで誰がNPCなのかわからない。
仕事で人と関わるのは慣れている。
だが、看護師という役割のない今の俺には、見知らぬ相手へ質問するのはハードルが高かった。
◆
ギルドを出て、東門へ向かう。門には槍を持った衛兵が二人立っていた。
年上に見える方が、通り抜けようとした俺を呼び止める。
「初めて見る顔だな。落人か」
聞き慣れない言葉だった。
「落人という言葉を、今初めて聞きました」
「なら落人だろうな」
「そうなんですか」
プレイヤーの別称だろうか。
衛兵は隣の若い男を見た。若い方も、困った顔をする。
「外から急に来て、街のことを何も知らない。大体そうだ」
「では、たぶん落人です」
「素直だな」
年上の衛兵が笑った。
「どこまで行くつもりだ?」
「薬草採取の依頼を受けたので、草原で〈癒し草〉を採ります」
「そうか。〈癒し草〉のある草原なら、大した危険はない。ただしホーンラビットでも群れれば厄介だ。追いかけるなよ」
「ホーンラビットですか......向こうから来た場合は?」
「逃げろ」
分かりやすい忠告だった。
「剣はあるか」
「ありません」
「魔法は」
「今日、初めて使う予定です」
二人は短く顔を見合わせた。
今度は、若い方が口を開く。年上が呆れ半分で言うのとは違い、どこか本当に案じているような声だった。俺みたいな奴には慣れているのだろうか。
「......無理はしないでください。危ないと思ったら、その場で採るのをやめて、戻ってきてください」
「先ほど、逃げろと言われましたが」
「それも、そうしてください」
念を押された。同じ忠告を二人がかりで言われるのなら、従った方がよさそうだ。
◆
城壁を抜けると、視界が一気に開けた。背の低い草が、遠くまで続いている。風が通るたび、草原の表面に波のような揺れが走った。
遠くには森が見える。南には、陽を反射する細い線があった。おそらく川だろう。
土の道を、荷物を積んだ馬車が近づいてくる。端へ寄ると、御者が軽く頭を下げた。俺も同じように返す。
街の外へ出た。ゲームを始めて、初めてのフィールドだ。顔には出さないつもりだったが、口元は緩んでいたかもしれない。
草原の縁まで歩き、人の姿がないことを確認する。依頼を始める前に、水魔法を試してみたかった。
手のひらを前へ向ける。水を出す。頭の中でそう考えた。
何も起きない。もう少し意識を集中すると、指先が冷たくなった。薄い水の膜が皮膚を覆っている。
「おお」
思ったより素直な声が出た。さらに力を込めると、水が手の前へ集まり、拳ほどの球になった。
宙に浮いている。手で支えているわけでもないのに、落ちない。右へ動かそうと考える。水球が右へずれた。
もう一つ作る。二つを並べ、大きさを変える。
まとめようとすると、形が崩れて半分ほど地面へ落ちた。失敗した。それすら面白かった。
近くの岩へ向けて、水球を飛ばす。
勢いをつけた途端、途中で形が崩れ、水しぶきになって草へ落ちた。
今度は速度を落とす。
水球はゆっくり岩へ届いたが、当たったというより、表面を濡らしただけだった。
威力と形の維持が、両立しない。そういう仕様なのか、俺が下手なのか。
初めて使ったばかりなのだから、おそらく後者だろう。現実の仕事でも、初めから手が動いたわけではない。
採血一つでも、手順を覚え、失敗し、繰り返すうちに迷わなくなった。
魔法も同じかもしれない。違うのは、ここなら失敗しても誰かを傷つける心配がない代わりに、手順を教えてくれる人もいないことだ。
加減の見当だけをつけ、魔力を解き、水を地面へ落とす。
少し頭が重い感じがする。
魔法を使った影響かもしれない。
本来の仕事へ戻ろう。
見本にあった〈癒し草〉を思い出し、しゃがみ込む。細い葉。赤い根元。葉の縁の切れ込み。草原を見渡すと、細い葉の草ばかりだった。
「これは難しいな」
一株ずつ確かめる。根元は赤いが、葉の縁が違う。葉は似ているが、茎が緑色。絵で見た時は簡単そうだった。
しかし、実物になるとどれもよく似ている。自信のあるものだけを選び、それでも規定量より多めに集めることにした。
途中、離れたところの草が大きく揺れた。すぐに立ち上がる。ホーンラビットかもしれない。
門の方向を確認したところで、草の中から小さな灰色の鳥が飛び出した。
鳥はこちらを一度見て、そのまま飛び去った。しばらく見送ってから、息を吐く。
剣も持っていないのに、気分だけ先に冒険者になっていたらしい。
もう一度しゃがむ。
今度は、似ている草を一株ずつ比べるのではなく、違うところだけを見ることにした。茎の色まで含めて比べると、少しずつ見分けがついてくる。
どうやら、湿り気のある土を選ぶように生えている。
一株見つけると、次にありそうな場所が分かった。
目を移した先に、同じ特徴の株がある。さらにその先にもあった。予想が当たるたび、口元が緩む。
分からなかったものに規則が見えてくる。それが、妙に楽しい。
気づけば、風に鳴る草の音も、遠くを通る馬車の音も薄くなっていた。
◆
採取袋の重みで我に返り、顔を上げる。先ほど鳥が飛び出した場所より、ずいぶん先まで来ていた。
どれだけ時間が経ったのだろう。まだ時計を見たことのないこの世界では、それすらはっきりと分からない。
その時間の曖昧さが、思いのほか心地よかった。
もう一度しゃがむ。
長くその姿勢でいても、膝が痛まない。腰を上げる時も、腿へ手をつく必要がない。
何株か採るたび、立ち上がって身体を確かめた。痛みはない。
浮かれている自覚はあったが、初日くらいは、その程度の浮かれ方を許してもいいだろう。
◆
日が傾く前に街へ戻った。門の前では、先ほどの衛兵たちがまだ立っていた。若い方が採取袋を見る。
「逃げてきたわけじゃなさそうですね」
「はい、鳥に驚いただけでした」
「ホーンラビットはいましたか?」
「見ていません」
「運が良かったですね」
会わなくてよかった。
◆
冒険者ギルドへ戻ると、ミラが採取袋の中身を机へ広げた。一株ずつ確認し、二本を脇へ避ける。
「こちらは別の草です」
「二本だけですか」
意外に間違えていなかったようだ。
「もっと間違えていると思っていました?」
「途中から、みんな同じ草に見えてきました」
ミラは避けた一本を裏返した。
「こちらは葉の裏が白いです」
言われて初めて違いが分かる。
「見本では分かりませんでした」
「描いてありましたよ」
「小さすぎます」
「皆さん、最初はそう言います」
改善される予定はなさそうだった。
「残りで規定量には届いています。依頼達成です」
手続きの後、銅貨五枚が並べられた。
「初めてにしては上出来ですよ。最初は、半分違うものを持ってくる方もいます」
「本当に?」
「いるんです」
慰めなのか、事実なのか。聞き返すと、ミラは真面目な顔で頷いた。俺は礼を言い、報酬を受け取った。
初期資金も金には違いない。だが、自分で歩き、自分で草を選び、仕事として受け取った五枚は、初期資金とは違って見えた。
手のひらへ載せると、硬貨の重さまで増したように感じる。もちろん気のせいだ。それでも、悪い気はしなかった。
「ありがとうございます。ところで宿を探しているんですが、どこか良い所はありますか」
「そうですね......静かなところでしたら、〈鈍色亭〉が良いと思います。西寄りにあります」
「あと、剣を買える店も知りたいんですが」
「大通りの角に〈鉄床亭〉があります。金槌の看板です」
「ありがとうございます」
◆
ギルドを出ると、金槌の看板はすぐに見つかった。店先には剣、革鎧、水袋、縄、採取用の道具が並んでいる。奥にいた太い腕の男が、こちらを見た。
「おう、兄ちゃん。何を探してるんだ」
「剣を見たいんですが」
ファンタジーな道具が並ぶ光景に、つい頬が緩む。
「剣なら、先に予算を聞かせてもらえるか」
いきなり難しい質問だった。
「今日、石級になったばかりなので手持ちが少ないのですが」
「石級になったばかりか。それなら、まだ足りないだろうな」
「まだ金額を言っていませんが」
「石級になったばかりなら、大体は分かるさ」
壁へ掛けられた剣を一本指される。
「安い物なら、そこに掛けてあるのが一番下だ」
値札を見る。今日の報酬の、何倍もした。
「全然足りませんね」
「だろうな。今の手持ちじゃ、剣まで回らないだろ」
身も蓋もない。俺は肩を落とす。
「何日くらい働けば買えますか」
「飯と宿を抜けばすぐだが、そういう買い方は勧めない」
「死んでしまいます」
「そうだろ。だから、焦らず貯めた方がいい」
正論だった。剣を持たせてもらう。思っていたより重い。今の身体なら振ることはできそうだが、振れることと扱えることは違う。
「初心者には重いですか」
「今のあんたには少し重いな。振ることはできても、止める時に剣へ持っていかれる」
素振りをしてみた。振った後の剣の重さに腕が持っていかれる感覚がある。
「止める時......なるほど」
愛想はないが、売るために都合のいいことを言っている様子でもなかった。
革鎧や水袋も見る。必要な物が、見るたびに増えていく。剣一本あれば冒険者になれるわけではないらしい。
「今日は見るだけにします」
「それがいい。買うのは、扱える物が分かってからでも遅くない」
「嫌な顔をしないんですね」
「金のない奴に無理やり売っても、後で困るだけだ」
その通りだった。
「また来ます」
「ああ。買えるだけ貯まった頃には、買いたい剣がわかるだろうさ」
「それも楽しみにしておきます」
店を出た。店主は無愛想ではあったが、不親切ではないように思えた。
また来よう。
◆
〈鈍色亭〉は、大通りを外れた通りにあった。建物は古い。
入口の周囲はきれいに掃かれ、窓枠にも目立った傷みはない。扉を開けると、木と、かすかな薬草の匂いがした。
カウンターの奥から、恰幅のいい中年の女性が顔を出す。
「あら、お客さん。宿泊かい?」
「はい。部屋は空いていますか」
「空いてるよ。素泊まりなら銅貨三枚。朝晩の食事つきなら四枚。個室にするなら、そこへ二枚追加」
食事つきの個室なら六枚。今日の報酬は五枚。
毎日同じ程度しか稼げなければ、少しずつ手持ちが減っていく。相部屋にする方が堅実だった。
それでも今日は、一人で落ち着ける場所が欲しかった。
「食事つきの個室でお願いします」
「毎度あり」
女将は料金を受け取り、カウンターの下から鉄の鍵を出した。
手へ載せられた鍵は、ずしりと重い。
ゲーム内で部屋を借りるだけなのに、本当に宿泊客になったような感触があった。
「食事は朝と晩、下の食堂で。湯を使いたい時は声をかけな」
鍵を渡し終えても、女将はすぐには奥へ引っ込まなかった。俺の顔から、服や靴、腰の荷へと視線を動かした。
「あんた、落人だね」
衛兵と同じ言葉だった。今日、二度目だ。
「やっぱり分かりますか」
「何でも珍しそうに見る顔をしてる。長いことこの商売をしてりゃ、来たばかりの顔くらい分かるさ」
否定はできなかった。
「落人というのは、遠くから来た人間という意味ですか」
「まあ、そんなところだよ」
女将はそれ以上は言わず、布巾を手に取ってカウンターを拭き始めた。落人が何なのかは、今夜ログアウトしてから調べればいい。
鍵をしまいかけて、一つだけ聞くことにした。
「剣を習える人を知りませんか。冒険者になったんですが、扱ったことがなくて」
拭く手が止まった。女将は目を見開いたが、笑いはしなかった。
「剣も持たずに登録したのかい。......まあ、あんたみたいなのも、たまに来るよ」
呆れられて当然だと思っていたが、そういう声ではなかった。
「まずギルドで木剣でも借りて、素振りから覚えな。町に一人、腕の立つのがいる。見てもらうのは、それからだ」
「その人に教えてもらえますか」
チュートリアルNPCなのだろうか。
「機嫌によるね。悪けりゃ、木剣で叩き出される」
習いに行って叩き出されるのは勘弁してほしい。
もっとも、機嫌ひとつで態度の変わる相手なら、現実の職場にも覚えがあった。心構えだけはしておこう。
礼を言うと、女将はもう一度こちらを見た。
「あまり気張って、怪我して帰ってくるんじゃないよ」
「......気をつけます」
「そうしな」
女将は、ようやく奥へ引っ込んだ。
部屋へ荷物を置き、階下で夕食を取った。
獣肉のシチューと、硬いパンだった。パンをそのまま齧る。
硬い。二度噛んだところで、隣の卓へ目が向いた。
男たちは、パンを小さく割り、シチューへ沈めてから口へ運んでいる。
真似をしてみると、ずっと食べやすくなった。
向こうの一人がこちらを見て、口元だけで笑った。たぶん、最初から見られていたのだろう。
卓の向こうでは、ダンジョンや素材の相場、誰かが負った怪我の話が途切れず続いていた。
彼らにとって冒険は、特別な催しではない。仕事であり、生活なのだろう。
食事を終え、部屋へ戻る。個室は狭かった。
木の床、簡素な寝台、小さな卓と椅子。窓の外には街灯の光があり、通りを歩く者の声が時々聞こえた。
荷物を置き、鉄の鍵を卓へ載せる。硬い音がした。
今日一日を思い返す。
串焼きを食べた。冒険者になった。水魔法を使った。時間を忘れて薬草採取をした。薬草を二本間違えた。
報酬を受け取った。剣は高くて買えなかった。硬いパンの食べ方を、知らない男に笑われた。
剣と魔法の世界へ来た初日としては、ずいぶん地味だ。
それでも、いい一日だった。
ゲーム初日の浮かれた気持ちは落ち着き始めている。女将に教えられた、剣術指南役は明日探せばいい。
「さて」
今夜は、これで終わりにするか。なんとなくメニューを開く。昼間と同じ、必要最低限の項目だけが並んだ。
名前。装備。所持金。スキル。
いくつかの項目を流し、ふとログアウトの文字を探した。見つからない。別の場所にあるのだろうと思い、一つ前へ戻る。もう一度、上から見る。
名前。装備。所持金。スキル。
ない。
そういえば、ログアウトしようとしたのは、これが初めてだった。広場へ降りてから今まで、一度も考えなかった。
現実では、今は何時なのだろう。額へ当てた機器の下で、俺の身体はどうなっている。
窓の外の街灯は、変わらず光っている。
卓の上に置いた鉄の鍵も、先ほどと同じ場所にある。