第1話 休暇の初日
自分のために何かをした日を思い出そうとして、うまくいかなかった。
病院を出た時には、もう日付が変わりかけていた。
自動ドアが背後で閉じ、消毒液の匂いが夜の湿った空気へ薄まっていく。
三十年も嗅いでいると、この匂いが消える瞬間だけは、いまだに肩の力が抜ける。
五十歳。
准看護師として現場へ出て、働きながら正看護師になった。人を看る仕事に就いてからなら、もう三十年になる。
ずっと誰かの具合を先に考えて生きてきた。
患者の。家族の。友人の。
自分の予定は、いつも一番後ろへ回してきた。
「......終わった」
誰に聞かせるでもなく呟いて、固くなった首を回した。
今日は予定外の入院が重なった。夕方には帰れるはずだった勤務が延びに延び、結局こんな時間だ。
疲れた。腹も減った。風呂にも入りたい。
それでも足取りは、いつもの帰り道より軽かった。
明日から一週間、夏季休暇だった。
旅行の予定も、実家へ帰る予定も、誰かと会う約束もない。
一人暮らしの部屋に籠もって、好きな時間に眠り、好きな時間に起きる。
目覚まし時計も、翌日の勤務表もいらない。
職場で予定を尋ねられた時には、家でゆっくりします、とだけ答えておいた。
嘘ではない。
剣を振り、魔法を使い、見知らぬ土地を歩き回ることを、世間が「ゆっくりする」と呼ぶかどうかは知らないが。
《アステルナ・オンライン》。
正式サービスが始まって、そろそろ一か月になるフルダイブ型のVRMMORPGだ。
開始前から随分と話題になっていたが、俺はまだ一度もログインしていない。
興味がなかったわけではない。むしろ逆だ。
仕事から帰って数時間だけ触る程度では、かえって物足りなくなる気がしていた。
子供の頃、家庭用のゲーム機が出始めた時期があった。
俺も周囲の友人たちと同じように夢中になった。少なくとも、当時の自分はそう思っていた。
だが、同じようにゲームを遊んでいたはずの連中から、いつの間にか「ゲーム狂い」と呼ばれるようになっていた。
からかい半分の呼び名だったし、その頃は自分でも笑っていた。
大人になってから振り返れば、説明書を読む時間も惜しんで、朝から晩までゲームに没頭していた俺は周囲と同じではなかったのだと思う。
始めると、食事も時間も周りの声も、ひどく遠くなる。
区切りをつけようと思っていた場所を過ぎても、次が気になって手を止められない。
好きなだけでは説明しきれないものが、自分にはあった。
それに気づいてからは、のめり込みそうなものほど、始める時期と終える条件を先に決めるようにしてきた。
仕事のある日に新しいゲームへ手を出さないのも、その一つだった。
どうせ始めるなら、時計を気にせず沈み込みたい。
そう考えて、この一週間に合わせて初めて入ることにした。
機器も、ゲームも、必要なデータの準備も、すべて済ませてある。
あとは帰って、キャラクターを作って、世界へ入るだけだった。
駅前へ差しかかると、ビルの壁面を覆う街頭スクリーンが、夜の歩道を白く照らしていた。
『――次世代仮想社会基盤について、長期運用を前提とした研究計画が発表されました』
ニュースキャスターの声が、車の走行音に混じって流れてくる。
画面には、記者に囲まれた女性が映っていた。研究責任者、とでもいうのだろう。
肩までの黒髪。襟元へ、深い緑を一筋。
仕立ての良いスーツの上からでも、姿勢の良さと相まって、体つきの均整が漠然と伝わってきた。
疲れていても、そういうところだけは目に入る。我ながらどうかと思う。
数本のマイクを向けられても、その立ち姿には揺らぎがなかった。
『人の判断や経験を次の世代へ残し、個人の不在によって社会機能が失われない仕組みを構築する。それが、私たちの目指すものです』
記者から次の問いが飛ぶ。
女性はすぐには答えず、ほんの一拍だけ間を置いた。
迷ったようには見えなかった。
決まっている答えを、相手が受け取りやすい形へ整えるための間に見えた。
現場で、そういう間の取り方をする人間を、俺は何人か知っている。
――看護師に向いていそうだ
信号が青に変わる。
俺は画面から目を離し、横断歩道を渡り始めた。
人の経験を残すだとか、社会を維持するだとか。そういう大きなことを考えるのは、画面の中にいるような立派な人間の仕事だ。
俺の仕事は、目の前の患者が明日の朝まで無事に過ごせるよう、今日できることを積み重ねること。
それだけで、いつも手いっぱいだった。
早く帰りたい。
風呂に入って、冷蔵庫の食料を適当に腹へ収める。
食料も飲み物も、昨日のうちに買い込んである。急ぎの用事もない。
「さて、どんなキャラにするかな」
口にすると、さっきまでより気分が上向いた。
俺はそのまま歩調を速めた。
◆
風呂を済ませ、食料を腹へ詰め込み、寝室のベッドに横になったのは、午前二時を回った頃だった。
枕元の機器を手に取る。
軽い。
これを額へ当てて目を閉じるだけで、意識が別の場所へ運ばれるらしい。
分厚い説明書は軽く流し読みをして、攻略まとめサイトを見るのは我慢していた。ゲーム内の体験を全て新鮮なものにしたかった。
一つ息を吐いて、機器を装着した。年甲斐もなくワクワクする。
視界が、白へ落ちる。
◆
目を開けると、白い部屋だった。
床も壁も天井も見当たらないのに、立っているという感覚だけがある。
目の前には、姿見のような鏡が一枚。
映っているのは、いつもの自分だった。白髪の混じった頭。目の下の隈。夜勤明けの、五十歳の男。いつまでたっても好きになれない顔だ。
『キャラクターを作成してください』
どこからともなく、感情のない声が響いた。
鏡の横に、いくつかの項目が浮かび上がる。
名前。外見。初期スキル。シンプルだ。
性別は変えられない。理由は色々と察する。
まず、名前の欄に触れた。
ここだけは、もう決めてある。
ノワール。
深い理由はない。黒という響きが好きだったし、剣を持つなら、それらしい名前の方が気分も出る。
二十年ほど前、大学ノートに書き殴った小説の主人公が、たしか同じ名前だったような気もする。
だが、それはもう関係のない話だ。
断じて、違う。
文字を確定させると、鏡の中の男は何も言わずにこちらを見返していた。
問題は見た目だ。
せっかく現実とは違う世界へ行くのだから、五十歳の自分をそのまま持ち込むつもりはなかった。
若くする。
十八歳くらいでいいだろう。できれば、剣を持っても様になる姿がいい。
美形にしすぎるのも落ち着かないが、わざわざ現実より好きになれない顔を作る理由もない。
この加減が、思いのほか難しい。
鏡の中の男が、みるみる皺を失っていく。
白いものが髪から消え、背筋が伸び、隈が薄れ、肩に乗っていた重さがそっくり抜け落ちていく。
最後に残ったのは、黒髪の、線の細い青年だった。
しばらく、その顔を眺めた。
見事に似ていない。
当たり前だ。似せていないのだから。
それでも、瞬きの速さだけは自分のものだった。
「......まあ、こんなものか」
声が違う。
思っていたより低く、少し掠れている。悪くない。むしろ、この見た目にしては落ち着きすぎているくらいだ。
最後に、初期スキル。
確か、近接スキルと魔法スキルを一つずつ選べる仕様だ。
剣術は外せない。
まったく心得はないが、ゲームの中では一度くらい、思い切り剣を振ってみたかった。この世界なら、聖剣や魔剣だってあるかもしれない。
魔法は何がいいだろう。
炎や雷は見栄えがしそうだが、少し派手すぎる気がする。
水なら、攻撃だけでなく生活や探索にも使えそうだった。傷口を洗ったり、飲み水を確保したりもできるかもしれない。
ヒーラーは遠慮したい。
人の命を預かるのは、仕事だけで十分だった。ゲームの中でまで、誰かの生死を背負う役を選ぶ気にはなれない。
炎や雷より先に、傷口を洗えるかどうかが浮かぶ。
三十年は長い。
剣術。
水魔法。
二つを選び、確定へ触れる。
『登録が完了しました。世界へ転送します』
鏡が消えた。
白が、溶けていく。
白の中に、薄い窓が浮かんだ。
『アステルナ・オンラインへようこそ』
その文字へ、ざ、と黒い筋が走る。
一瞬だけ、別の文字が重なった。
――命。
その前後にも文字らしきものが並んでいたが、形が崩れていて読み取れない。
次の瞬間には、それも窓ごと白へ溶けた。
◆
最初に届いたのは、匂いだった。
埃と、焼けた石と、どこかで煮ている何かの匂い。
消毒液の匂いは、どこにもなかった。
目を開ける。
空が、高い。
俺は石畳の広場に立っていた。
正面には、見上げるほどの城壁。その向こうに、白い尖塔が幾つも突き出している。
説明書で見た、開始地点の王都だろう。
人が、流れていた。
鎧を鳴らして歩く者。籠を担いだ女。荷車を引く老人。剣を背負った二人組が、笑いながら脇をすり抜けていく。
石段の端では、片脚を庇うように歩く男が、荷を背負い直していた。
俺の目は反射的に足の運びへ向いたが、すぐに視線を外した。
足を悪くしている設定のNPCなのだろう。
ここは病棟ではない。
声をかける理由もない。
どこかで金物を叩く音。鳥の声。誰かの怒鳴り声と、それを笑う声。
風が、頬を撫でていった。
温い。夏の風だ。
俺は、しばらくその場から動かなかった。
(――すごいな)
本当に、来てしまった。
剣と魔法の街に、自分の足で立っている。あの大学ノートの落書きが、目の前で息をしている。
叫び出したい衝動を、静かに飲み込んだ。
顔には、何も出さない。
この年になって、広場のど真ん中で奇声を上げるわけにもいかない。
ゆっくりと息を吸って、吐いた。
肺が動く。
風の温度が分かる。石畳の硬さが、靴底を通して伝わってくる。
肩も、腰も、どこも痛まない。
二十年ぶりに味わう身体の軽さに、戸惑うくらいだった。
よくできている。
そう思ってから、可笑しくなった。
よくできている、も何もない。
自分の身体が、もうここにあるのだ。
視界の隅へ意識を向けると、メニューウィンドウが開く。
名前。装備。所持金。スキルが二つ。
それだけだった。
説明書には、経験値や能力値、次の段階までの目安など、もっと多くの項目が表示されると明記されていた。
指先で表示に触れ、押し広げるように動かしてみたが、それ以上は何も出てこない。
薄い。
紙一枚のような表示が、風に晒されているような頼りなさがある。
仕様が、まだ固まっていないのかもしれない。
正式サービスが始まって、まだ一か月だ。表示周りが更新で変わっていても不思議はない。
名前も所持金も見える。身体も問題なく動く。今すぐ困るわけでもない。
数字が出ないなら、体で覚えればいい。現実で三十年、そうやってきた。
表示を閉じ、広場を見回す。
冒険者になるための場所が、どこかにあるはずだ。
金を稼いで、剣を買って、装備を整えて、それから外へ出る。
一週間ある。
時間は、たっぷりあった。