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第7話 明日の予定


 目覚めは、思ったより軽かった。右手の二本指が、寝ぼけたまま左手首へ伸びていた。トックン、トックン、トックン。

 落ち着いた拍動だ。昨夜のような速さはない。それを確かめてから、ようやく身体から力が抜けた。

 メニューを開き、ログアウトの項目がないのを確かめて閉じる。もう見慣れた手順だった。夜に考えたことも、朝になると距離を置いて見られる。夜勤明けの申し送りでも、記録を昼の目で読み返すと、書いた時とは違う見え方をすることがあった。

 昨夜の不安が消えたわけではない。帰る方法を探して、ダンジョンを潜っている落人たちがいる。ギルドで聞けば、居場所くらいは分かるかもしれない。そのことは、もう知っている。

 それでも、朝になって最初に考えたのは、そいつらを探すことではなかった。左手を開き、閉じる。指先に、昨日の水の重さがまだ薄く残っている気がした。血の流れをたどった、あの生々しい手応えも。

 まずは、この身体で何ができるのかを知りたい。剣術を選んでおきながら、構え方ひとつ知らないままなのも気になっていた。枕元の鍵を確かめ、木目の浮いた天井を見る。まだ三日目なのに、寝起きの手順まで決まってくるらしい。

 今日は、剣の指南役を探してみよう。初日に女将から聞いて、そのままになっていた。階下へ降りると、女将は大きな鍋をかき混ぜていた。

 並んだ木の椀が触れ合う音、椅子を引く音。そのにぎやかさの中に、焼けたパンの匂いが混じっている。

「おはよう、お客さん。よく眠れたかい」

「ええ、よく眠れました」

「そりゃよかった。今日はよく食べそうな顔をしてるよ」

 女将はそう言って、昨日よりひとまわり大きなパンと、具の多いスープを目の前へ置いた。俺が礼を言う間にも、もう次の皿へスープをよそっている。煮込みへパンを浸しながら、昨夜決めたことを切り出した。

「女将さん。初日に伺った、腕の立つ剣の指南役の件ですが......どこへ行けば会えるか、教えていただけますか」

 女将は布巾を持ったまま、手を止めてこちらを見た。

「剣を習う気になったのかい」

「ええ。構え方ひとつ知りませんから。教わりたいんです」

「......なら、ギルドの地下でセイに聞きな。あの女なら、奴がどこで転がってるか知ってるはずだ」

「セイさんが?」

「あの二人は前から知り合いだよ。セイには、あたしから聞いたと言えば、話も早いだろうさ」

 女将はそれ以上説明せず、鍋へ向き直った。

 朝食を終え、礼を言って宿を出た。朝の通りでは、荷車を押す商人が声を掛け合い、職人が店先へ道具を並べていた。冒険者ギルドへ入る。半地下へ向かう前に、昨夜考えていたことを思い出した。

 受付を見ると、ミラが帳簿を広げていた。客が途切れたところで近づく。

「ミラさん。少し聞いてもいいですか」

「はい。何でしょうか」

「ダンジョンへ入る依頼というのも、ここで受けられるんですよね」

 帳簿へ向けていたミラの目が上がった。

「あります」

「石級でも受けられますか?」

 返事までに、わずかな間があった。

「依頼の内容によります。階級だけで一律に禁止されているわけではありません」

「そうですか」

 思っていたより、完全に閉ざされているわけではないらしい。掲示板の方へ目を向ける。今朝も下段には、採取や運搬、街の外での簡単な仕事が並んでいた。

「行ってみたいんですか?」

 ミラに聞かれ、視線を戻した。

「ええ。一度は」

 帰る手掛かりがあるかもしれない。それとは別に、この世界へ来る前から、ダンジョンという場所そのものに興味がなかったわけでもない。ミラは俺の顔を見たあと、受付台の上で指を組んだ。

「でしたら、今はおすすめしません」

 ずいぶんはっきりした返事だった。

「やはり早いですか」

「ノワールさんは、こちらへ来てまだ数日ですよね」

「はい」

「これまで受けた依頼で、魔物と戦ったことは?」

「ありません」

「一緒に継続して動いている方はいますか?」

「いませんね」

「でしたら、なおさらです」

 ミラは淡々と答える。

「地上の依頼なら、道を戻れば街へ帰れることも多いです。ダンジョンでは、そうならない場所があります。怪我をした後、自分で出口まで戻らなければならないこともあります」

「なるほど」

「まずは外での依頼に慣れてください。戦う必要が出た時に、自分が何をできるのかも分からない状態で、こちらから地下の依頼を勧めることはできません」

 受付としては、当然の判断なのだろう。

 考えてみれば、剣をまともに握ったことすらない。

「分かりました。ありがとうございます」

「はい」

 ミラはそれ以上引き止めず、また帳簿へ視線を戻した。俺は受付を離れ、半地下へ続く階段を下りた。

◆

 セイは昨日と同じ壁際の卓に座っていた。空の杯へ手を添えたまま、こちらを見る。

「また来たのかい、坊や。今度は何の用だ」

「女将さんに教えてもらって来ました。剣の指南役を探していまして」

 セイは面倒そうに眉を寄せた。

「あのババア、何でもかんでもあたしに振るんじゃないよ。......ドランのことかい」

「ドランさん、ですか」

「〈片刃のドラン〉さ。北の職人区のはずれで、古い小屋を借りてる。朝なら、だいたいそこにいるよ。昔から朝だけは妙にきっちりしてる奴だからね」

「昔から?」

「気難しい奴だが、教えることは間違っちゃいないってことさ」

 セイは顎で北の方角を示した。

「行くだけ行ってみな。あたしの名前を出せば、話くらいは聞くだろうさ」

「ありがとうございます」

「礼は教わってからにしな」

「では、追い返されたら文句を言いに来ます」

 セイの口元が、わずかに歪んだ。

「本当に生意気な坊やだね」

 席を離れようとして、もう一つ聞いておくことを思い出した。

「そういえば、セイさん」

「あん?」

「ダンジョンへ行くのは、今の俺には早いと思いますか?」

 セイの目が細くなった。

「......誰かに何か言われたのかい」

「さっき、ミラさんに聞いてみたんです。今は勧めないと言われました」

「なら、早いんだろ」

「セイさんなら違う意見もあるかと思いまして」

「聞く相手を変えたら、答えも変わると思ったのかい」

「少しくらいは期待しました」

 セイは呆れたように鼻から息を吐いた。

「剣もまともに振れないんだろ?」

「これから習いに行くところです」

「魔物とやり合ったことは?」

「ありません」

「一緒に潜る相手は?」

「いませんね」

「それで何を期待しろっていうんだい」

「やはり駄目ですか」

 軽く聞いたつもりだった。

 だが、セイはすぐには答えなかった。空の杯を指先で一度だけ回し、止める。

「帰ってこなかった奴を、あたしは何人も知ってる」

 酒場の奥で、皿が触れ合う音がした。

「......そうですか」

「あんたより剣が使えて、地下にも慣れてた奴もいたよ」

 セイは俺を脅すような口調ではなかった。

 ただ、知っていることを言っているだけだった。

「強けりゃ帰れるって場所じゃない。道を間違えることもある。足場が崩れることもある。怪我した仲間を連れて戻らなきゃならない時もある」

 空の杯から手を離す。

「行くなとは言わないさ。あんたの足はあんたのもんだ」

「はい」

「でも、今のあんたを送り込むほど、あたしは薄情じゃないよ」

 返す言葉を探す必要はなかった。

「分かりました」

「素直だね」

「二人に止められましたから。それに、これから剣を習おうという人間が反論しても説得力がありません」

「分かってるなら、さっさと行きな」

 セイが手を振る。

「はい。ありがとうございました」

「今度こそ礼は教わってからにしな」

「では、追い返されたら戻ってきます」

「来るんじゃないよ」

 俺は頭を下げ、半地下を出た。

◆

 北の職人区は、商業区とは違う音に満ちていた。金槌を打つ硬い音、鋸が木を引く音、石を削る乾いた音。通りには木屑と鉄の匂いが混ざっている。

 石敷きの崩れた路地を抜けると、板垣で囲まれた小さな敷地が見えた。地面は雑草が抜かれ、固く踏み締められている。奥の庇の下で、一人の男が低い腰掛けへ座り、短めの片刃剣を手入れしていた。

 年は五十前後に見える。白髪の混じった短い髪。右目の端から顎にかけて、古い傷痕が一本走っていた。

 使い込まれた革の胸当てをつけ、油の染みた布を刀身へ滑らせている。俺が敷地の縁で足を止めると、男の手が止まった。顔が上がる。

 鋭いが、騒がしくない目だった。威圧しようとしているのではなく、目の前のものをそのまま測ろうとしているように見えた。

「......何だ」

「すみません。セイさんに教えていただいて伺いました。ノワールと申します」

 俺は頭を下げた。

「剣を教えていただきたいと思いまして」

 男――ドランは腰掛けから動かず、俺の顔を見た。それから身体の上から下へ順に視線を落としていく。

「剣を持ったことは」

「ありません。ここへ来た時に剣術を選びましたが、実際に持ったことはありません」

「実戦は」

「一昨日、東の草原で薬草を摘みました。戦闘はありません」

 ドランは鼻から短く息を吐いた。

「まったくの素人か」

「はい」

 さっきまで二人に止められていた理由を、改めて確認した気がした。ドランはそこでようやく立ち上がった。背はそれほど高くないが、妙な迫力を感じる。庇の脇に立てかけてあった木剣を一本取り、こちらへ差し出す。

「持て」

 両手で受け取る。思っていたより重い。昔テレビで見た構えを頼りに、右手を上、左手を下へ置いた。脚を肩幅ほどに開き、正面へ構える。

 ドランは元の場所から、俺の肩と手元と足を見た。

「右肩が上がってる」

 ドランの指先で右肩を軽く叩かれる。力を抜こうとした。

「握りすぎだ。手首が死んでる」

 指の力を緩めた。その瞬間、柄が手の中で滑った。木剣が土の上へ落ち、乾いた音を立てる。

「......すみません」

「緩めろとは言った。離せとは言ってない」

「加減が難しいですね」

「だから習うんだ」

 言い返しようがなかった。木剣を拾い、もう一度構える。

「足が狭い」

 ドランが自分の足先で俺の右足を軽く押した。身体が揺れ、慌てて踏み直す。

「振れ」

 言われた通り、まっすぐ振り下ろす。腕へ力が入り、木剣の先が途中でぶれた。

「腕だけで振るな」

 もう一度。今度は足も動かそうとしたが、踏み込みと木剣が別々になり、勢いだけで前へ出た。ドランが木剣の先を片手で止める。

「足と剣が別々だ」

「先に足を決めた方がいいですか」

 ドランは俺の足元を見たまま、一拍置いた。

「今は、同じ動きを繰り返せ。考えるのはその後だ」

「分かりました」

「分かってない」

「はい」

 対応が難しい人だ。もう一度構える。三度目に振った時には、また右肩が上がった。

「肩」

 言われて下げる。次は踏み込みが遅れた。

「足」

 肩と足を同時に意識すると、今度は柄を強く握り込んでいた。

「手首」

 最初に言われたところへ、また戻っている。剣術という文字はある。それでも、木剣は俺の思った通りには動かなかった。同じ動きを繰り返すうち、手首と肩に鈍い痛みが溜まっていった。

 呼吸を整え、構え直すたびに、さっき直した場所がどこか一つ抜け落ちる。病院で採血を教えていた頃を思い出した。手順を覚えていても、実際に針を持つと手が震える。

 分かることと、できることは別だ。今度は俺が、教わる側だった。そのことが、妙に可笑しかった。

 ドランは俺の手元から木剣を取り上げた。

「今日はここまでだ」

「あ、ありがとうございました」

 息を整えながら頭を下げる。手のひらと肩に、じんとした重さが残っていた。ドランは木剣を庇の脇へ戻した。

「セイに、名前を出せと言われたのか」

「はい」

 ドランの眉が、わずかに寄った。

「......あいつが、自分の名前を使わせたのか」

 独り言のように呟き、少し間をおいてから俺を見る。

「なら、無下にはできん」

 理由はそれ以上語らず、ドランは俺へ視線を戻した。何かあるのだろうが、今聞くことではなかった。

「なら、明日から来い」

「よろしいんですか」

「毎朝、早い鐘から一刻。遅刻は許さん。休むなら最初から来るな。雨でも同じだ」

「費用は」

「一日銅貨三枚。前払いだ。今日は様子見だから要らん」

 一日銅貨三枚。〈鈍色亭〉の素泊まりと同じ金額だ。駆け出しの俺にとって軽い額ではない。

 それでも、今日の短い時間だけで、独学では気づけなかった癖をいくつも指摘された。

「分かりました。明日から、よろしくお願いいたします」

「礼は要らん。来なかったら、それまでだ」

 ドランは低い腰掛けへ戻り、剣の手入れを再開した。俺はもう一度頭を下げ、敷地を後にした。

◆

 職人区の通りへ出てから、何度か手を開いて閉じた。木剣の重さが、まだ掌に残っている。明日の朝から、毎朝ここへ通う。

 早い鐘から一刻は稽古。その後に依頼を探す。宿代とは別に、毎朝銅貨三枚が必要になる。

 ダンジョンへ行ってみたい気持ちは、なくなったわけではない。ただ、今の俺には木剣一本すら思った通りに振れない。さっきまでなら、人から止められた話だった。今は、自分でもよく分かる。

 明日の朝には、またあれを握る。そのための銅貨三枚を、今日のうちに稼いでおきたい。明日の予定ができると、今日の午後にやることまで決まった。ギルドへ向かう途中、大通りを外れた路地の奥から、掠れた声が漏れていた。

 座り込んだ人影があった。薄汚れた外套、伸びた無精髭。壁にもたれ、膝を抱えている。

「......なんでログアウトできないんだよ......」

 誰に言うでもなく、同じ言葉を繰り返していた。足が、一瞬だけ止まった。

 声をかけて、何を言えるわけでもなかった。俺も知らない。セイも知らない。

 俺は路地から目をそらし、大通りへ戻った。掠れた声が、しばらく耳に残った。今日の稼ぎはまだない。俺は依頼を探すため、再びギルドへ向けて歩き出した。
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明日も、ダンジョンへ。作者:為書結依
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第7話 明日の予定


 目覚めは、思ったより軽かった。右手の二本指が、寝ぼけたまま左手首へ伸びていた。トックン、トックン、トックン。

 落ち着いた拍動だ。昨夜のような速さはない。それを確かめてから、ようやく身体から力が抜けた。

 メニューを開き、ログアウトの項目がないのを確かめて閉じる。もう見慣れた手順だった。夜に考えたことも、朝になると距離を置いて見られる。夜勤明けの申し送りでも、記録を昼の目で読み返すと、書いた時とは違う見え方をすることがあった。

 昨夜の不安が消えたわけではない。帰る方法を探して、ダンジョンを潜っている落人たちがいる。ギルドで聞けば、居場所くらいは分かるかもしれない。そのことは、もう知っている。

 それでも、朝になって最初に考えたのは、そいつらを探すことではなかった。左手を開き、閉じる。指先に、昨日の水の重さがまだ薄く残っている気がした。血の流れをたどった、あの生々しい手応えも。

 まずは、この身体で何ができるのかを知りたい。剣術を選んでおきながら、構え方ひとつ知らないままなのも気になっていた。枕元の鍵を確かめ、木目の浮いた天井を見る。まだ三日目なのに、寝起きの手順まで決まってくるらしい。

 今日は、剣の指南役を探してみよう。初日に女将から聞いて、そのままになっていた。階下へ降りると、女将は大きな鍋をかき混ぜていた。

 並んだ木の椀が触れ合う音、椅子を引く音。そのにぎやかさの中に、焼けたパンの匂いが混じっている。

「おはよう、お客さん。よく眠れたかい」

「ええ、よく眠れました」

「そりゃよかった。今日はよく食べそうな顔をしてるよ」

 女将はそう言って、昨日よりひとまわり大きなパンと、具の多いスープを目の前へ置いた。俺が礼を言う間にも、もう次の皿へスープをよそっている。煮込みへパンを浸しながら、昨夜決めたことを切り出した。

「女将さん。初日に伺った、腕の立つ剣の指南役の件ですが......どこへ行けば会えるか、教えていただけますか」

 女将は布巾を持ったまま、手を止めてこちらを見た。

「剣を習う気になったのかい」

「ええ。構え方ひとつ知りませんから。教わりたいんです」

「......なら、ギルドの地下でセイに聞きな。あの女なら、奴がどこで転がってるか知ってるはずだ」

「セイさんが?」

「あの二人は前から知り合いだよ。セイには、あたしから聞いたと言えば、話も早いだろうさ」

 女将はそれ以上説明せず、鍋へ向き直った。

 朝食を終え、礼を言って宿を出た。朝の通りでは、荷車を押す商人が声を掛け合い、職人が店先へ道具を並べていた。冒険者ギルドへ入る。半地下へ向かう前に、昨夜考えていたことを思い出した。

 受付を見ると、ミラが帳簿を広げていた。客が途切れたところで近づく。

「ミラさん。少し聞いてもいいですか」

「はい。何でしょうか」

「ダンジョンへ入る依頼というのも、ここで受けられるんですよね」

 帳簿へ向けていたミラの目が上がった。

「あります」

「石級でも受けられますか?」

 返事までに、わずかな間があった。

「依頼の内容によります。階級だけで一律に禁止されているわけではありません」

「そうですか」

 思っていたより、完全に閉ざされているわけではないらしい。掲示板の方へ目を向ける。今朝も下段には、採取や運搬、街の外での簡単な仕事が並んでいた。

「行ってみたいんですか?」

 ミラに聞かれ、視線を戻した。

「ええ。一度は」

 帰る手掛かりがあるかもしれない。それとは別に、この世界へ来る前から、ダンジョンという場所そのものに興味がなかったわけでもない。ミラは俺の顔を見たあと、受付台の上で指を組んだ。

「でしたら、今はおすすめしません」

 ずいぶんはっきりした返事だった。

「やはり早いですか」

「ノワールさんは、こちらへ来てまだ数日ですよね」

「はい」

「これまで受けた依頼で、魔物と戦ったことは?」

「ありません」

「一緒に継続して動いている方はいますか?」

「いませんね」

「でしたら、なおさらです」

 ミラは淡々と答える。

「地上の依頼なら、道を戻れば街へ帰れることも多いです。ダンジョンでは、そうならない場所があります。怪我をした後、自分で出口まで戻らなければならないこともあります」

「なるほど」

「まずは外での依頼に慣れてください。戦う必要が出た時に、自分が何をできるのかも分からない状態で、こちらから地下の依頼を勧めることはできません」

 受付としては、当然の判断なのだろう。

 考えてみれば、剣をまともに握ったことすらない。

「分かりました。ありがとうございます」

「はい」

 ミラはそれ以上引き止めず、また帳簿へ視線を戻した。俺は受付を離れ、半地下へ続く階段を下りた。

◆

 セイは昨日と同じ壁際の卓に座っていた。空の杯へ手を添えたまま、こちらを見る。

「また来たのかい、坊や。今度は何の用だ」

「女将さんに教えてもらって来ました。剣の指南役を探していまして」

 セイは面倒そうに眉を寄せた。

「あのババア、何でもかんでもあたしに振るんじゃないよ。......ドランのことかい」

「ドランさん、ですか」

「〈片刃のドラン〉さ。北の職人区のはずれで、古い小屋を借りてる。朝なら、だいたいそこにいるよ。昔から朝だけは妙にきっちりしてる奴だからね」

「昔から?」

「気難しい奴だが、教えることは間違っちゃいないってことさ」

 セイは顎で北の方角を示した。

「行くだけ行ってみな。あたしの名前を出せば、話くらいは聞くだろうさ」

「ありがとうございます」

「礼は教わってからにしな」

「では、追い返されたら文句を言いに来ます」

 セイの口元が、わずかに歪んだ。

「本当に生意気な坊やだね」

 席を離れようとして、もう一つ聞いておくことを思い出した。

「そういえば、セイさん」

「あん?」

「ダンジョンへ行くのは、今の俺には早いと思いますか?」

 セイの目が細くなった。

「......誰かに何か言われたのかい」

「さっき、ミラさんに聞いてみたんです。今は勧めないと言われました」

「なら、早いんだろ」

「セイさんなら違う意見もあるかと思いまして」

「聞く相手を変えたら、答えも変わると思ったのかい」

「少しくらいは期待しました」

 セイは呆れたように鼻から息を吐いた。

「剣もまともに振れないんだろ?」

「これから習いに行くところです」

「魔物とやり合ったことは?」

「ありません」

「一緒に潜る相手は?」

「いませんね」

「それで何を期待しろっていうんだい」

「やはり駄目ですか」

 軽く聞いたつもりだった。

 だが、セイはすぐには答えなかった。空の杯を指先で一度だけ回し、止める。

「帰ってこなかった奴を、あたしは何人も知ってる」

 酒場の奥で、皿が触れ合う音がした。

「......そうですか」

「あんたより剣が使えて、地下にも慣れてた奴もいたよ」

 セイは俺を脅すような口調ではなかった。

 ただ、知っていることを言っているだけだった。

「強けりゃ帰れるって場所じゃない。道を間違えることもある。足場が崩れることもある。怪我した仲間を連れて戻らなきゃならない時もある」

 空の杯から手を離す。

「行くなとは言わないさ。あんたの足はあんたのもんだ」

「はい」

「でも、今のあんたを送り込むほど、あたしは薄情じゃないよ」

 返す言葉を探す必要はなかった。

「分かりました」

「素直だね」

「二人に止められましたから。それに、これから剣を習おうという人間が反論しても説得力がありません」

「分かってるなら、さっさと行きな」

 セイが手を振る。

「はい。ありがとうございました」

「今度こそ礼は教わってからにしな」

「では、追い返されたら戻ってきます」

「来るんじゃないよ」

 俺は頭を下げ、半地下を出た。

◆

 北の職人区は、商業区とは違う音に満ちていた。金槌を打つ硬い音、鋸が木を引く音、石を削る乾いた音。通りには木屑と鉄の匂いが混ざっている。

 石敷きの崩れた路地を抜けると、板垣で囲まれた小さな敷地が見えた。地面は雑草が抜かれ、固く踏み締められている。奥の庇の下で、一人の男が低い腰掛けへ座り、短めの片刃剣を手入れしていた。

 年は五十前後に見える。白髪の混じった短い髪。右目の端から顎にかけて、古い傷痕が一本走っていた。

 使い込まれた革の胸当てをつけ、油の染みた布を刀身へ滑らせている。俺が敷地の縁で足を止めると、男の手が止まった。顔が上がる。

 鋭いが、騒がしくない目だった。威圧しようとしているのではなく、目の前のものをそのまま測ろうとしているように見えた。

「......何だ」

「すみません。セイさんに教えていただいて伺いました。ノワールと申します」

 俺は頭を下げた。

「剣を教えていただきたいと思いまして」

 男――ドランは腰掛けから動かず、俺の顔を見た。それから身体の上から下へ順に視線を落としていく。

「剣を持ったことは」

「ありません。ここへ来た時に剣術を選びましたが、実際に持ったことはありません」

「実戦は」

「一昨日、東の草原で薬草を摘みました。戦闘はありません」

 ドランは鼻から短く息を吐いた。

「まったくの素人か」

「はい」

 さっきまで二人に止められていた理由を、改めて確認した気がした。ドランはそこでようやく立ち上がった。背はそれほど高くないが、妙な迫力を感じる。庇の脇に立てかけてあった木剣を一本取り、こちらへ差し出す。

「持て」

 両手で受け取る。思っていたより重い。昔テレビで見た構えを頼りに、右手を上、左手を下へ置いた。脚を肩幅ほどに開き、正面へ構える。

 ドランは元の場所から、俺の肩と手元と足を見た。

「右肩が上がってる」

 ドランの指先で右肩を軽く叩かれる。力を抜こうとした。

「握りすぎだ。手首が死んでる」

 指の力を緩めた。その瞬間、柄が手の中で滑った。木剣が土の上へ落ち、乾いた音を立てる。

「......すみません」

「緩めろとは言った。離せとは言ってない」

「加減が難しいですね」

「だから習うんだ」

 言い返しようがなかった。木剣を拾い、もう一度構える。

「足が狭い」

 ドランが自分の足先で俺の右足を軽く押した。身体が揺れ、慌てて踏み直す。

「振れ」

 言われた通り、まっすぐ振り下ろす。腕へ力が入り、木剣の先が途中でぶれた。

「腕だけで振るな」

 もう一度。今度は足も動かそうとしたが、踏み込みと木剣が別々になり、勢いだけで前へ出た。ドランが木剣の先を片手で止める。

「足と剣が別々だ」

「先に足を決めた方がいいですか」

 ドランは俺の足元を見たまま、一拍置いた。

「今は、同じ動きを繰り返せ。考えるのはその後だ」

「分かりました」

「分かってない」

「はい」

 対応が難しい人だ。もう一度構える。三度目に振った時には、また右肩が上がった。

「肩」

 言われて下げる。次は踏み込みが遅れた。

「足」

 肩と足を同時に意識すると、今度は柄を強く握り込んでいた。

「手首」

 最初に言われたところへ、また戻っている。剣術という文字はある。それでも、木剣は俺の思った通りには動かなかった。同じ動きを繰り返すうち、手首と肩に鈍い痛みが溜まっていった。

 呼吸を整え、構え直すたびに、さっき直した場所がどこか一つ抜け落ちる。病院で採血を教えていた頃を思い出した。手順を覚えていても、実際に針を持つと手が震える。

 分かることと、できることは別だ。今度は俺が、教わる側だった。そのことが、妙に可笑しかった。

 ドランは俺の手元から木剣を取り上げた。

「今日はここまでだ」

「あ、ありがとうございました」

 息を整えながら頭を下げる。手のひらと肩に、じんとした重さが残っていた。ドランは木剣を庇の脇へ戻した。

「セイに、名前を出せと言われたのか」

「はい」

 ドランの眉が、わずかに寄った。

「......あいつが、自分の名前を使わせたのか」

 独り言のように呟き、少し間をおいてから俺を見る。

「なら、無下にはできん」

 理由はそれ以上語らず、ドランは俺へ視線を戻した。何かあるのだろうが、今聞くことではなかった。

「なら、明日から来い」

「よろしいんですか」

「毎朝、早い鐘から一刻。遅刻は許さん。休むなら最初から来るな。雨でも同じだ」

「費用は」

「一日銅貨三枚。前払いだ。今日は様子見だから要らん」

 一日銅貨三枚。〈鈍色亭〉の素泊まりと同じ金額だ。駆け出しの俺にとって軽い額ではない。

 それでも、今日の短い時間だけで、独学では気づけなかった癖をいくつも指摘された。

「分かりました。明日から、よろしくお願いいたします」

「礼は要らん。来なかったら、それまでだ」

 ドランは低い腰掛けへ戻り、剣の手入れを再開した。俺はもう一度頭を下げ、敷地を後にした。

◆

 職人区の通りへ出てから、何度か手を開いて閉じた。木剣の重さが、まだ掌に残っている。明日の朝から、毎朝ここへ通う。

 早い鐘から一刻は稽古。その後に依頼を探す。宿代とは別に、毎朝銅貨三枚が必要になる。

 ダンジョンへ行ってみたい気持ちは、なくなったわけではない。ただ、今の俺には木剣一本すら思った通りに振れない。さっきまでなら、人から止められた話だった。今は、自分でもよく分かる。

 明日の朝には、またあれを握る。そのための銅貨三枚を、今日のうちに稼いでおきたい。明日の予定ができると、今日の午後にやることまで決まった。ギルドへ向かう途中、大通りを外れた路地の奥から、掠れた声が漏れていた。

 座り込んだ人影があった。薄汚れた外套、伸びた無精髭。壁にもたれ、膝を抱えている。

「......なんでログアウトできないんだよ......」

 誰に言うでもなく、同じ言葉を繰り返していた。足が、一瞬だけ止まった。

 声をかけて、何を言えるわけでもなかった。俺も知らない。セイも知らない。

 俺は路地から目をそらし、大通りへ戻った。掠れた声が、しばらく耳に残った。今日の稼ぎはまだない。俺は依頼を探すため、再びギルドへ向けて歩き出した。
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