第7話 明日の予定
目覚めは、思ったより軽かった。右手の二本指が、寝ぼけたまま左手首へ伸びていた。トックン、トックン、トックン。
落ち着いた拍動だ。昨夜のような速さはない。それを確かめてから、ようやく身体から力が抜けた。
メニューを開き、ログアウトの項目がないのを確かめて閉じる。もう見慣れた手順だった。夜に考えたことも、朝になると距離を置いて見られる。夜勤明けの申し送りでも、記録を昼の目で読み返すと、書いた時とは違う見え方をすることがあった。
昨夜の不安が消えたわけではない。帰る方法を探して、ダンジョンを潜っている落人たちがいる。ギルドで聞けば、居場所くらいは分かるかもしれない。そのことは、もう知っている。
それでも、朝になって最初に考えたのは、そいつらを探すことではなかった。左手を開き、閉じる。指先に、昨日の水の重さがまだ薄く残っている気がした。血の流れをたどった、あの生々しい手応えも。
まずは、この身体で何ができるのかを知りたい。剣術を選んでおきながら、構え方ひとつ知らないままなのも気になっていた。枕元の鍵を確かめ、木目の浮いた天井を見る。まだ三日目なのに、寝起きの手順まで決まってくるらしい。
今日は、剣の指南役を探してみよう。初日に女将から聞いて、そのままになっていた。階下へ降りると、女将は大きな鍋をかき混ぜていた。
並んだ木の椀が触れ合う音、椅子を引く音。そのにぎやかさの中に、焼けたパンの匂いが混じっている。
「おはよう、お客さん。よく眠れたかい」
「ええ、よく眠れました」
「そりゃよかった。今日はよく食べそうな顔をしてるよ」
女将はそう言って、昨日よりひとまわり大きなパンと、具の多いスープを目の前へ置いた。俺が礼を言う間にも、もう次の皿へスープをよそっている。煮込みへパンを浸しながら、昨夜決めたことを切り出した。
「女将さん。初日に伺った、腕の立つ剣の指南役の件ですが......どこへ行けば会えるか、教えていただけますか」
女将は布巾を持ったまま、手を止めてこちらを見た。
「剣を習う気になったのかい」
「ええ。構え方ひとつ知りませんから。教わりたいんです」
「......なら、ギルドの地下でセイに聞きな。あの女なら、奴がどこで転がってるか知ってるはずだ」
「セイさんが?」
「あの二人は前から知り合いだよ。セイには、あたしから聞いたと言えば、話も早いだろうさ」
女将はそれ以上説明せず、鍋へ向き直った。
朝食を終え、礼を言って宿を出た。朝の通りでは、荷車を押す商人が声を掛け合い、職人が店先へ道具を並べていた。冒険者ギルドへ入る。半地下へ向かう前に、昨夜考えていたことを思い出した。
受付を見ると、ミラが帳簿を広げていた。客が途切れたところで近づく。
「ミラさん。少し聞いてもいいですか」
「はい。何でしょうか」
「ダンジョンへ入る依頼というのも、ここで受けられるんですよね」
帳簿へ向けていたミラの目が上がった。
「あります」
「石級でも受けられますか?」
返事までに、わずかな間があった。
「依頼の内容によります。階級だけで一律に禁止されているわけではありません」
「そうですか」
思っていたより、完全に閉ざされているわけではないらしい。掲示板の方へ目を向ける。今朝も下段には、採取や運搬、街の外での簡単な仕事が並んでいた。
「行ってみたいんですか?」
ミラに聞かれ、視線を戻した。
「ええ。一度は」
帰る手掛かりがあるかもしれない。それとは別に、この世界へ来る前から、ダンジョンという場所そのものに興味がなかったわけでもない。ミラは俺の顔を見たあと、受付台の上で指を組んだ。
「でしたら、今はおすすめしません」
ずいぶんはっきりした返事だった。
「やはり早いですか」
「ノワールさんは、こちらへ来てまだ数日ですよね」
「はい」
「これまで受けた依頼で、魔物と戦ったことは?」
「ありません」
「一緒に継続して動いている方はいますか?」
「いませんね」
「でしたら、なおさらです」
ミラは淡々と答える。
「地上の依頼なら、道を戻れば街へ帰れることも多いです。ダンジョンでは、そうならない場所があります。怪我をした後、自分で出口まで戻らなければならないこともあります」
「なるほど」
「まずは外での依頼に慣れてください。戦う必要が出た時に、自分が何をできるのかも分からない状態で、こちらから地下の依頼を勧めることはできません」
受付としては、当然の判断なのだろう。
考えてみれば、剣をまともに握ったことすらない。
「分かりました。ありがとうございます」
「はい」
ミラはそれ以上引き止めず、また帳簿へ視線を戻した。俺は受付を離れ、半地下へ続く階段を下りた。
◆
セイは昨日と同じ壁際の卓に座っていた。空の杯へ手を添えたまま、こちらを見る。
「また来たのかい、坊や。今度は何の用だ」
「女将さんに教えてもらって来ました。剣の指南役を探していまして」
セイは面倒そうに眉を寄せた。
「あのババア、何でもかんでもあたしに振るんじゃないよ。......ドランのことかい」
「ドランさん、ですか」
「〈片刃のドラン〉さ。北の職人区のはずれで、古い小屋を借りてる。朝なら、だいたいそこにいるよ。昔から朝だけは妙にきっちりしてる奴だからね」
「昔から?」
「気難しい奴だが、教えることは間違っちゃいないってことさ」
セイは顎で北の方角を示した。
「行くだけ行ってみな。あたしの名前を出せば、話くらいは聞くだろうさ」
「ありがとうございます」
「礼は教わってからにしな」
「では、追い返されたら文句を言いに来ます」
セイの口元が、わずかに歪んだ。
「本当に生意気な坊やだね」
席を離れようとして、もう一つ聞いておくことを思い出した。
「そういえば、セイさん」
「あん?」
「ダンジョンへ行くのは、今の俺には早いと思いますか?」
セイの目が細くなった。
「......誰かに何か言われたのかい」
「さっき、ミラさんに聞いてみたんです。今は勧めないと言われました」
「なら、早いんだろ」
「セイさんなら違う意見もあるかと思いまして」
「聞く相手を変えたら、答えも変わると思ったのかい」
「少しくらいは期待しました」
セイは呆れたように鼻から息を吐いた。
「剣もまともに振れないんだろ?」
「これから習いに行くところです」
「魔物とやり合ったことは?」
「ありません」
「一緒に潜る相手は?」
「いませんね」
「それで何を期待しろっていうんだい」
「やはり駄目ですか」
軽く聞いたつもりだった。
だが、セイはすぐには答えなかった。空の杯を指先で一度だけ回し、止める。
「帰ってこなかった奴を、あたしは何人も知ってる」
酒場の奥で、皿が触れ合う音がした。
「......そうですか」
「あんたより剣が使えて、地下にも慣れてた奴もいたよ」
セイは俺を脅すような口調ではなかった。
ただ、知っていることを言っているだけだった。
「強けりゃ帰れるって場所じゃない。道を間違えることもある。足場が崩れることもある。怪我した仲間を連れて戻らなきゃならない時もある」
空の杯から手を離す。
「行くなとは言わないさ。あんたの足はあんたのもんだ」
「はい」
「でも、今のあんたを送り込むほど、あたしは薄情じゃないよ」
返す言葉を探す必要はなかった。
「分かりました」
「素直だね」
「二人に止められましたから。それに、これから剣を習おうという人間が反論しても説得力がありません」
「分かってるなら、さっさと行きな」
セイが手を振る。
「はい。ありがとうございました」
「今度こそ礼は教わってからにしな」
「では、追い返されたら戻ってきます」
「来るんじゃないよ」
俺は頭を下げ、半地下を出た。
◆
北の職人区は、商業区とは違う音に満ちていた。金槌を打つ硬い音、鋸が木を引く音、石を削る乾いた音。通りには木屑と鉄の匂いが混ざっている。
石敷きの崩れた路地を抜けると、板垣で囲まれた小さな敷地が見えた。地面は雑草が抜かれ、固く踏み締められている。奥の庇の下で、一人の男が低い腰掛けへ座り、短めの片刃剣を手入れしていた。
年は五十前後に見える。白髪の混じった短い髪。右目の端から顎にかけて、古い傷痕が一本走っていた。
使い込まれた革の胸当てをつけ、油の染みた布を刀身へ滑らせている。俺が敷地の縁で足を止めると、男の手が止まった。顔が上がる。
鋭いが、騒がしくない目だった。威圧しようとしているのではなく、目の前のものをそのまま測ろうとしているように見えた。
「......何だ」
「すみません。セイさんに教えていただいて伺いました。ノワールと申します」
俺は頭を下げた。
「剣を教えていただきたいと思いまして」
男――ドランは腰掛けから動かず、俺の顔を見た。それから身体の上から下へ順に視線を落としていく。
「剣を持ったことは」
「ありません。ここへ来た時に剣術を選びましたが、実際に持ったことはありません」
「実戦は」
「一昨日、東の草原で薬草を摘みました。戦闘はありません」
ドランは鼻から短く息を吐いた。
「まったくの素人か」
「はい」
さっきまで二人に止められていた理由を、改めて確認した気がした。ドランはそこでようやく立ち上がった。背はそれほど高くないが、妙な迫力を感じる。庇の脇に立てかけてあった木剣を一本取り、こちらへ差し出す。
「持て」
両手で受け取る。思っていたより重い。昔テレビで見た構えを頼りに、右手を上、左手を下へ置いた。脚を肩幅ほどに開き、正面へ構える。
ドランは元の場所から、俺の肩と手元と足を見た。
「右肩が上がってる」
ドランの指先で右肩を軽く叩かれる。力を抜こうとした。
「握りすぎだ。手首が死んでる」
指の力を緩めた。その瞬間、柄が手の中で滑った。木剣が土の上へ落ち、乾いた音を立てる。
「......すみません」
「緩めろとは言った。離せとは言ってない」
「加減が難しいですね」
「だから習うんだ」
言い返しようがなかった。木剣を拾い、もう一度構える。
「足が狭い」
ドランが自分の足先で俺の右足を軽く押した。身体が揺れ、慌てて踏み直す。
「振れ」
言われた通り、まっすぐ振り下ろす。腕へ力が入り、木剣の先が途中でぶれた。
「腕だけで振るな」
もう一度。今度は足も動かそうとしたが、踏み込みと木剣が別々になり、勢いだけで前へ出た。ドランが木剣の先を片手で止める。
「足と剣が別々だ」
「先に足を決めた方がいいですか」
ドランは俺の足元を見たまま、一拍置いた。
「今は、同じ動きを繰り返せ。考えるのはその後だ」
「分かりました」
「分かってない」
「はい」
対応が難しい人だ。もう一度構える。三度目に振った時には、また右肩が上がった。
「肩」
言われて下げる。次は踏み込みが遅れた。
「足」
肩と足を同時に意識すると、今度は柄を強く握り込んでいた。
「手首」
最初に言われたところへ、また戻っている。剣術という文字はある。それでも、木剣は俺の思った通りには動かなかった。同じ動きを繰り返すうち、手首と肩に鈍い痛みが溜まっていった。
呼吸を整え、構え直すたびに、さっき直した場所がどこか一つ抜け落ちる。病院で採血を教えていた頃を思い出した。手順を覚えていても、実際に針を持つと手が震える。
分かることと、できることは別だ。今度は俺が、教わる側だった。そのことが、妙に可笑しかった。
ドランは俺の手元から木剣を取り上げた。
「今日はここまでだ」
「あ、ありがとうございました」
息を整えながら頭を下げる。手のひらと肩に、じんとした重さが残っていた。ドランは木剣を庇の脇へ戻した。
「セイに、名前を出せと言われたのか」
「はい」
ドランの眉が、わずかに寄った。
「......あいつが、自分の名前を使わせたのか」
独り言のように呟き、少し間をおいてから俺を見る。
「なら、無下にはできん」
理由はそれ以上語らず、ドランは俺へ視線を戻した。何かあるのだろうが、今聞くことではなかった。
「なら、明日から来い」
「よろしいんですか」
「毎朝、早い鐘から一刻。遅刻は許さん。休むなら最初から来るな。雨でも同じだ」
「費用は」
「一日銅貨三枚。前払いだ。今日は様子見だから要らん」
一日銅貨三枚。〈鈍色亭〉の素泊まりと同じ金額だ。駆け出しの俺にとって軽い額ではない。
それでも、今日の短い時間だけで、独学では気づけなかった癖をいくつも指摘された。
「分かりました。明日から、よろしくお願いいたします」
「礼は要らん。来なかったら、それまでだ」
ドランは低い腰掛けへ戻り、剣の手入れを再開した。俺はもう一度頭を下げ、敷地を後にした。
◆
職人区の通りへ出てから、何度か手を開いて閉じた。木剣の重さが、まだ掌に残っている。明日の朝から、毎朝ここへ通う。
早い鐘から一刻は稽古。その後に依頼を探す。宿代とは別に、毎朝銅貨三枚が必要になる。
ダンジョンへ行ってみたい気持ちは、なくなったわけではない。ただ、今の俺には木剣一本すら思った通りに振れない。さっきまでなら、人から止められた話だった。今は、自分でもよく分かる。
明日の朝には、またあれを握る。そのための銅貨三枚を、今日のうちに稼いでおきたい。明日の予定ができると、今日の午後にやることまで決まった。ギルドへ向かう途中、大通りを外れた路地の奥から、掠れた声が漏れていた。
座り込んだ人影があった。薄汚れた外套、伸びた無精髭。壁にもたれ、膝を抱えている。
「......なんでログアウトできないんだよ......」
誰に言うでもなく、同じ言葉を繰り返していた。足が、一瞬だけ止まった。
声をかけて、何を言えるわけでもなかった。俺も知らない。セイも知らない。
俺は路地から目をそらし、大通りへ戻った。掠れた声が、しばらく耳に残った。今日の稼ぎはまだない。俺は依頼を探すため、再びギルドへ向けて歩き出した。