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第四話 れもん

 その日、パパは店に入る予定などなかった。マルチーズがいたら
見てみようと、それくらいのつもりで立ち寄っただけだった。

 ボクは眠っていた。足音で目が覚めたのか、声が聞こえたのか、
自分でもわからない。顔を上げると、パパの横顔があった。

 ボクはガラスにぶつかった。もう一度、ぶつかった。前足をかけて
立ち上がったけれど、パパは隣を見ていた。そっちじゃない。そこに
ボクはいない。

 パパが歩きだした。ボクは鳴いた。思っていたより甲高い声
だった。自分でも知らない声だった。パパが振り返った。目が
合った。ボクは口を開けたまま、しっぽを振った。パパが
しゃがんだ。ガラスの向こうに顔が来たので、ボクも頭を下げた。
パパが少し横へ動く。ボクはそっちを向いた。パパの口が動いた
けれど、何も聞こえなかった。

 札を見て、ボクを見て、また札を見た。ボクは待てなくなって、
ガラスを引っ掻いた。パパの指がすぐそこに来たのに、舐められ
なかった。

「この子、種類はなんですか?」

 店の人が何か答えている。パパはボクを見たまま聞いていた。
瞬きをするたびに、少しずつ目が赤くなっていく。どうして?と
ボクは思った。今日はまだ、触ってもいないのに。パパの指先を
追って、顔を上げた。

「抱いてみられますか」

 店の人が扉を開けた。抱き上げられるあいだも、ボクはパパを
見ていた。パパは手を服で拭いて、それから差し出した。その手に
お腹が乗った。痛くなかった。もう片方の手が、お尻を包んだ。
ボクは急いで向きを変えた。ずっと、やりたかったことがあった。
パパの肘の内側に顎を置いて、胸に身体をくっつける。顔を上げた。
パパの口元に鼻を寄せた。触れた。

 嬉しくて、うまく舐められなかった。鼻が歯に当たった。何度も
やり直した。パパは少しだけボクを離して、顔を覗き込んだ。ボクも
見上げた。パパの指が、目の下の毛に触れる。短い鼻の脇を、親指が
そっと撫でた。

「みるく」

 ボクは動くのをやめた。もう一度聞きたくて、顔を見た。パパも
ボクを見ていた。口が少し開いていた。背中にあった手が離れかけた
ので、ボクはその指を追いかけた。行かないで。違う声でもう一度
鳴いて、服を掴んだ。

「ああ、わかった。離さへん」

 パパの手が戻ってきた。ボクはその手を舐めた。指のあいだまで
舐めた。パパはボクを抱き直して、店の人に背中を向けた。肩が
揺れている。泣いているとわかって、ボクは顔へよじ登った。あの
お風呂で舐められなかったところに、やっと舌が届いた。頬にも、
鼻にも、目の下にも。舐めても濡れるので、何度も舐めた。

 その場で、パパは母と相談していた。

「この子、どう思う?」

 母は画面を覗き込んで、しばらく黙ってから言った。

「......みるくに似てるな」

「そっくりやろ」

「マルチーズと違うのに、この顔なんやろ」

 母はもう一度写真を見てから、頷いた。

「この子にしよか」

 母が抱くと、ボクはその腕からパパを見た。母が笑った。

「ほんまや。この顔やなあ」

 その場で、ボクを迎えると決まった。手続きが済んだあと、
店員さんがボクを連れてきて、パパが両手を出した。ボクも身体を
伸ばした。「落ちるで」と母が慌てる。腕に収まると、パパは何か
ひとつ言わなければいけない気がしたようだった。

「帰ろか」

 口から出たのは、それだった。

 家に着いてから、パパはボクを膝に載せて、母に言った。

「紅茶やったら、みるくか、れもんやろ?」

「ミルクティーとレモンティー?」

「そう。対になるやん」

 母が、「れもん」と呼んだ。ボクが振り向くと、今度はパパが
呼んだ。

「れもん」

 見上げると、パパは笑っていた。鼻の頭を指で撫でて、もう一度
呼んでくれた。紅茶がなんなのか、ボクにはまだわからない。でも、
その声がボクを呼んでいることだけは、ちゃんとわかった。呼ばれる
たびに走ったので、パパは用事もないのに何度も呼んだ。三度目に
行ったときは、「なんや?」と笑われた。パパが呼んだのに......。

 その日のうちに、ボクはもう、パパの鼻の穴を掃除したくなって、
鼻先に舌を突っ込んだ。「こら、くすぐったいて」とパパが笑う。
唾液がたくさんで口が臭くないのも、顔を強く引っ掻かずに向きだけ
調整するのも、扇風機の前を陣取るのが好きなのも、車に乗るとすぐ
元気になるのも――ぜんぶ、前の身体でも同じだった。パパはまだ
気づいていないみたいだったけれど、ボクにとっては、当たり前の
ことだった。
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紅茶色の約束作者:シラン
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第四話 れもん

 その日、パパは店に入る予定などなかった。マルチーズがいたら
見てみようと、それくらいのつもりで立ち寄っただけだった。

 ボクは眠っていた。足音で目が覚めたのか、声が聞こえたのか、
自分でもわからない。顔を上げると、パパの横顔があった。

 ボクはガラスにぶつかった。もう一度、ぶつかった。前足をかけて
立ち上がったけれど、パパは隣を見ていた。そっちじゃない。そこに
ボクはいない。

 パパが歩きだした。ボクは鳴いた。思っていたより甲高い声
だった。自分でも知らない声だった。パパが振り返った。目が
合った。ボクは口を開けたまま、しっぽを振った。パパが
しゃがんだ。ガラスの向こうに顔が来たので、ボクも頭を下げた。
パパが少し横へ動く。ボクはそっちを向いた。パパの口が動いた
けれど、何も聞こえなかった。

 札を見て、ボクを見て、また札を見た。ボクは待てなくなって、
ガラスを引っ掻いた。パパの指がすぐそこに来たのに、舐められ
なかった。

「この子、種類はなんですか?」

 店の人が何か答えている。パパはボクを見たまま聞いていた。
瞬きをするたびに、少しずつ目が赤くなっていく。どうして?と
ボクは思った。今日はまだ、触ってもいないのに。パパの指先を
追って、顔を上げた。

「抱いてみられますか」

 店の人が扉を開けた。抱き上げられるあいだも、ボクはパパを
見ていた。パパは手を服で拭いて、それから差し出した。その手に
お腹が乗った。痛くなかった。もう片方の手が、お尻を包んだ。
ボクは急いで向きを変えた。ずっと、やりたかったことがあった。
パパの肘の内側に顎を置いて、胸に身体をくっつける。顔を上げた。
パパの口元に鼻を寄せた。触れた。

 嬉しくて、うまく舐められなかった。鼻が歯に当たった。何度も
やり直した。パパは少しだけボクを離して、顔を覗き込んだ。ボクも
見上げた。パパの指が、目の下の毛に触れる。短い鼻の脇を、親指が
そっと撫でた。

「みるく」

 ボクは動くのをやめた。もう一度聞きたくて、顔を見た。パパも
ボクを見ていた。口が少し開いていた。背中にあった手が離れかけた
ので、ボクはその指を追いかけた。行かないで。違う声でもう一度
鳴いて、服を掴んだ。

「ああ、わかった。離さへん」

 パパの手が戻ってきた。ボクはその手を舐めた。指のあいだまで
舐めた。パパはボクを抱き直して、店の人に背中を向けた。肩が
揺れている。泣いているとわかって、ボクは顔へよじ登った。あの
お風呂で舐められなかったところに、やっと舌が届いた。頬にも、
鼻にも、目の下にも。舐めても濡れるので、何度も舐めた。

 その場で、パパは母と相談していた。

「この子、どう思う?」

 母は画面を覗き込んで、しばらく黙ってから言った。

「......みるくに似てるな」

「そっくりやろ」

「マルチーズと違うのに、この顔なんやろ」

 母はもう一度写真を見てから、頷いた。

「この子にしよか」

 母が抱くと、ボクはその腕からパパを見た。母が笑った。

「ほんまや。この顔やなあ」

 その場で、ボクを迎えると決まった。手続きが済んだあと、
店員さんがボクを連れてきて、パパが両手を出した。ボクも身体を
伸ばした。「落ちるで」と母が慌てる。腕に収まると、パパは何か
ひとつ言わなければいけない気がしたようだった。

「帰ろか」

 口から出たのは、それだった。

 家に着いてから、パパはボクを膝に載せて、母に言った。

「紅茶やったら、みるくか、れもんやろ?」

「ミルクティーとレモンティー?」

「そう。対になるやん」

 母が、「れもん」と呼んだ。ボクが振り向くと、今度はパパが
呼んだ。

「れもん」

 見上げると、パパは笑っていた。鼻の頭を指で撫でて、もう一度
呼んでくれた。紅茶がなんなのか、ボクにはまだわからない。でも、
その声がボクを呼んでいることだけは、ちゃんとわかった。呼ばれる
たびに走ったので、パパは用事もないのに何度も呼んだ。三度目に
行ったときは、「なんや?」と笑われた。パパが呼んだのに......。

 その日のうちに、ボクはもう、パパの鼻の穴を掃除したくなって、
鼻先に舌を突っ込んだ。「こら、くすぐったいて」とパパが笑う。
唾液がたくさんで口が臭くないのも、顔を強く引っ掻かずに向きだけ
調整するのも、扇風機の前を陣取るのが好きなのも、車に乗るとすぐ
元気になるのも――ぜんぶ、前の身体でも同じだった。パパはまだ
気づいていないみたいだったけれど、ボクにとっては、当たり前の
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