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第五話 また、家族に

 帰ってから初めてのお風呂で、ボクはパパの腕に顎を載せた。
お湯が胸の毛を揺らす。パパは長いこと、ボクのお腹を支えて
いた。ボクが顔を振ると、慌てて目をつぶる。

「うわ、こら」

 パパの顔から水が垂れた。ボクはしっぽを動かした。水の中
なので、いつもより重かった。パパは顔を拭ってから、ボクを
見た。濡れた毛を、額の真ん中で分けてくれる。

「気持ちええか」

 ボクは目を閉じた。支えてくれる手を頼りに、身体を伸ばす。
パパはもう、謝っていなかった。

 湯船に浸かりながら、パパはふと、遠くを見るような顔をした。
ボクにはわかった。パパは、二年前――いや、パパの中ではもっと
昔のことのように感じているかもしれない、あの旅行のことを思い
出している。

 京都を出発して、鳥取で一泊してから山陰道を経由して山口、
島根、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分と巡り、帰りは山陽道を
通って広島、岡山へ。九泊十日の、長い長い旅だった。長崎の
ハウステンボスでは、風車の下で写真を撮ってもらった。熊本の
小田温泉、離れの宿「花心」に泊まったときのことも覚えている。
その宿は部屋にも温泉があって、パパと一緒に入った。大分の
由布院では、金鱗湖の朝霧がまるで夢のようで、その中でパパが
写真を撮ってくれた。帰り道、岩国の錦帯橋も、パパと一緒に
渡った。広島では、パパひとりが楽しそうに大和ミュージアムに
出かけて行って、ボクはお留守番をした。岡山の宿では、大好きなかに雑炊を、たらふく食べさせてもらった。

 あれが、ボクとパパの最後の旅行だった。もう一度、あんな
ふうに遠くへ連れて行ってほしい。そう思いながら湯に浸かって
いると、パパがぽつりと言った。

「今度、れもんとも、どっか行こな」

 タオルを出そうとして、パパの手が引き出しの奥のあれに
触れた。少しはみ出していたそれに、パパは指を止めた。
足元でボクは鳴いて、まだ湿った前足をパパの足の甲に載せて、
見上げた。

「はいはい。今、拭く」

 別のタオルを広げると、ボクはその真ん中へ突っ込んだ。
包んでも頭が出る。頭を拭くと後ろ足が出る。ようやく抱き
上げられたとき、頬に濡れた鼻を押しつけた。パパが顔を寄せる。
石鹸の匂いの奥に、温かい獣の匂いがした。もう少し嗅いでいた
そうだったけれど、ボクはタオルの端を噛みはじめた。

 夜中に一度、パパの手が伸びてきた。暗いまま、指先が毛に
触れる。お腹に手のひらを当てられて、ゆっくり押し返した。
次の息も待ってくれる。もう一度、手が持ち上がった。ボクは
寝返りを打って、パパの指を後ろ足で蹴ってしまった。

「悪かった。寝ててええよ」

 手を引くパパを追うように、ボクは身体を寄せた。温かい
背中が、パパの脇腹に収まる。パパは掛け布団を少し持ち上げて、
冷たい空気が入らないように端を折ってくれた。引き出しには、
みるくのタオルがまだあった。腕の中には、明日も世話を
しなければいけない犬が――ボクがいた。

 パパと母とボクの三人で、淡路島へ旅行に行ったこともある。
鳴門のうずしおを一緒に見た。花さじきという花畑を、みんなで
歩いた。出口で売っていたソフトクリームを、パパとシェアして
食べた。パパがスマホを触っていると、なぜだかとても邪魔を
したくなる。あんな板より、ボクを見てほしいのに――そう
思いながら、パパの膝に頭をこすりつける。

 たくさん世話をしてくれるのは母なのに、ボクはなぜかパパに
ばかり懐いてしまう。顔もそっくりで、天邪鬼な態度もよく似て
いる。パパはまだ気づいていないふりをしているけれど、ボクには
わかる。パパも、もう気づいている。

 姿形が違っても、パパはボクを見つけてくれた。そして、また
家族にしてくれた。

 紅茶って、何だろう。ボクにはまだよくわからないけれど、
みるくとれもん、対になったこの名前を、ボクは誇らしく思って
いる。

 約束は、ちゃんと守られたんだ。
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第五話 また、家族に

 帰ってから初めてのお風呂で、ボクはパパの腕に顎を載せた。
お湯が胸の毛を揺らす。パパは長いこと、ボクのお腹を支えて
いた。ボクが顔を振ると、慌てて目をつぶる。

「うわ、こら」

 パパの顔から水が垂れた。ボクはしっぽを動かした。水の中
なので、いつもより重かった。パパは顔を拭ってから、ボクを
見た。濡れた毛を、額の真ん中で分けてくれる。

「気持ちええか」

 ボクは目を閉じた。支えてくれる手を頼りに、身体を伸ばす。
パパはもう、謝っていなかった。

 湯船に浸かりながら、パパはふと、遠くを見るような顔をした。
ボクにはわかった。パパは、二年前――いや、パパの中ではもっと
昔のことのように感じているかもしれない、あの旅行のことを思い
出している。

 京都を出発して、鳥取で一泊してから山陰道を経由して山口、
島根、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分と巡り、帰りは山陽道を
通って広島、岡山へ。九泊十日の、長い長い旅だった。長崎の
ハウステンボスでは、風車の下で写真を撮ってもらった。熊本の
小田温泉、離れの宿「花心」に泊まったときのことも覚えている。
その宿は部屋にも温泉があって、パパと一緒に入った。大分の
由布院では、金鱗湖の朝霧がまるで夢のようで、その中でパパが
写真を撮ってくれた。帰り道、岩国の錦帯橋も、パパと一緒に
渡った。広島では、パパひとりが楽しそうに大和ミュージアムに
出かけて行って、ボクはお留守番をした。岡山の宿では、大好きなかに雑炊を、たらふく食べさせてもらった。

 あれが、ボクとパパの最後の旅行だった。もう一度、あんな
ふうに遠くへ連れて行ってほしい。そう思いながら湯に浸かって
いると、パパがぽつりと言った。

「今度、れもんとも、どっか行こな」

 タオルを出そうとして、パパの手が引き出しの奥のあれに
触れた。少しはみ出していたそれに、パパは指を止めた。
足元でボクは鳴いて、まだ湿った前足をパパの足の甲に載せて、
見上げた。

「はいはい。今、拭く」

 別のタオルを広げると、ボクはその真ん中へ突っ込んだ。
包んでも頭が出る。頭を拭くと後ろ足が出る。ようやく抱き
上げられたとき、頬に濡れた鼻を押しつけた。パパが顔を寄せる。
石鹸の匂いの奥に、温かい獣の匂いがした。もう少し嗅いでいた
そうだったけれど、ボクはタオルの端を噛みはじめた。

 夜中に一度、パパの手が伸びてきた。暗いまま、指先が毛に
触れる。お腹に手のひらを当てられて、ゆっくり押し返した。
次の息も待ってくれる。もう一度、手が持ち上がった。ボクは
寝返りを打って、パパの指を後ろ足で蹴ってしまった。

「悪かった。寝ててええよ」

 手を引くパパを追うように、ボクは身体を寄せた。温かい
背中が、パパの脇腹に収まる。パパは掛け布団を少し持ち上げて、
冷たい空気が入らないように端を折ってくれた。引き出しには、
みるくのタオルがまだあった。腕の中には、明日も世話を
しなければいけない犬が――ボクがいた。

 パパと母とボクの三人で、淡路島へ旅行に行ったこともある。
鳴門のうずしおを一緒に見た。花さじきという花畑を、みんなで
歩いた。出口で売っていたソフトクリームを、パパとシェアして
食べた。パパがスマホを触っていると、なぜだかとても邪魔を
したくなる。あんな板より、ボクを見てほしいのに――そう
思いながら、パパの膝に頭をこすりつける。

 たくさん世話をしてくれるのは母なのに、ボクはなぜかパパに
ばかり懐いてしまう。顔もそっくりで、天邪鬼な態度もよく似て
いる。パパはまだ気づいていないふりをしているけれど、ボクには
わかる。パパも、もう気づいている。

 姿形が違っても、パパはボクを見つけてくれた。そして、また
家族にしてくれた。

 紅茶って、何だろう。ボクにはまだよくわからないけれど、
みるくとれもん、対になったこの名前を、ボクは誇らしく思って
いる。

 約束は、ちゃんと守られたんだ。
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