ホーム紅茶色の約束第二話 俺の話
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第二話 俺の話

 みるくを洗ったタオルを、俺は洗えなかった。

 母がほかの洗濯物と一緒に持っていこうとしたので、
「それ、置いといて」と言った。自分でも驚くくらい、
大きな声が出た。母は何も言わず、籠から抜いてくれた。

 受け取ったタオルには、白い毛がついていた。いつもなら、
黒い服につくと目立つからと、みるくを抱く前に着替えていた
くらいなのに。一本、指でつまんでみる。こんなものを気に
したことがなかった自分を、うまく思い出せなかった。畳み
直すと、内側だけがまだ少し湿っていた。顔を近づけても、石鹸の
匂いしかしなかった。俺が洗ったのだから、当たり前だった。

 あの夜、どうして見に行かなかったのか。物音がしなかった
からだ。静かに眠れているなら、そのほうがいいと思った。何度
考え直しても、同じところに戻ってしまう。静かだった。だから
行かなかった。苦しくて声も出なかったのかもしれない。俺が
行かなかったから、あいつはひとりだった。

 夜中に目が覚めるようになった。みるくの寝息が聞こえないと、
暗いまま手を伸ばして確かめる。その癖が、抜けずに残った。
布団を撫で、身体を起こして、ようやく思い出す。最初から
いないと分かっている昼間より、その何秒かのほうが、よほど
きつかった。

 机に向かっていると、足元で白いものが動いた気がして、
椅子を引く前に足を止めたことがある。落ちていたのは、ただの
レシートだった。拾って丸めて、捨てた。その日はそれで、何も
できなくなった。

 母が掃除機を持ってきたとき、俺は敷物の隅を見ていた。

「ここ、かけてもええ?」

 訊かせてしまったことが、申し訳なかった。「ええよ」
答えたのに、母がスイッチを入れるまでのあいだに、白い毛を
二本、指に絡めて拾っていた。どうするつもりもなく、しばらく
握っていた。掃除機が止まったあと、家は前より静かになった
気がした。

 あのタオルは、引き出しの奥にしまった。開けるたびに匂いを
確かめてしまう自分が嫌で、奥へ奥へと押し込んだ。それでも
夜にはこっそり出して、確かめた。みるくはお風呂が好きだった。
湯船に浸かると、俺の腕に顎を乗せて、まぶたを閉じてしまう。
滑らないように支えているうちに、自分がまだ髪も洗っていない
ことを忘れた。今は、湯を抜いてから、そのことに気づくことが
増えた。

 ゆずが逝ったときのことも思い出した。あの子はもっと早くに
逝った。みるくより七年も先に、七歳という若さで。みるくが
実の子のように可愛がっていた分、みるくの喪失感も深かった
はずだ。あのときのみるくの、どこか落ち着かない様子を、俺は
今になってようやく理解できる気がした。

 ある夜、マルチーズ、と入れて検索していた。一匹ずつ顔を
見ては、違う、と思う。何が違うのか考えると、画面を閉じる
しかなかった。みるくを探していたのだ。鼻が短くて、目が
大きかった。美人やな、と誰もが言うような顔ではなかったと
思う。きれいに毛を整えても、すぐに口の周りを濡らして、何か
言いたそうに見上げてくる。その顔が、なぜか一番好きだった。

 画面の中の子犬は、どの子もかわいかった。何枚見ても、指は
次の写真へ動く。みるくの写真まで戻ってくると、止まった。
この顔が、もう一度こちらを向くことはない。指先で大きくしても、
もっと大きくなるだけだった。

 ある夜、引き出しを開けたまま、母に訊いた。

「次の犬、飼うたら」

 その先が続かなかった。母は俺の手元を見た。

「それ、置いといたらええやん。捨てんでええやろ、別に」

 タオルをしまおうとしていた手が、止まった。俺は頷いた。
犬を飼うとも、飼わないとも、その日は決めなかった。ただ、
心のどこかで、もう一度あの顔に会いたいと、本気で願って
いる自分がいることには、気づいていた。
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紅茶色の約束作者:シラン
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 母がほかの洗濯物と一緒に持っていこうとしたので、
「それ、置いといて」と言った。自分でも驚くくらい、
大きな声が出た。母は何も言わず、籠から抜いてくれた。

 受け取ったタオルには、白い毛がついていた。いつもなら、
黒い服につくと目立つからと、みるくを抱く前に着替えていた
くらいなのに。一本、指でつまんでみる。こんなものを気に
したことがなかった自分を、うまく思い出せなかった。畳み
直すと、内側だけがまだ少し湿っていた。顔を近づけても、石鹸の
匂いしかしなかった。俺が洗ったのだから、当たり前だった。

 あの夜、どうして見に行かなかったのか。物音がしなかった
からだ。静かに眠れているなら、そのほうがいいと思った。何度
考え直しても、同じところに戻ってしまう。静かだった。だから
行かなかった。苦しくて声も出なかったのかもしれない。俺が
行かなかったから、あいつはひとりだった。

 夜中に目が覚めるようになった。みるくの寝息が聞こえないと、
暗いまま手を伸ばして確かめる。その癖が、抜けずに残った。
布団を撫で、身体を起こして、ようやく思い出す。最初から
いないと分かっている昼間より、その何秒かのほうが、よほど
きつかった。

 机に向かっていると、足元で白いものが動いた気がして、
椅子を引く前に足を止めたことがある。落ちていたのは、ただの
レシートだった。拾って丸めて、捨てた。その日はそれで、何も
できなくなった。

 母が掃除機を持ってきたとき、俺は敷物の隅を見ていた。

「ここ、かけてもええ?」

 訊かせてしまったことが、申し訳なかった。「ええよ」
答えたのに、母がスイッチを入れるまでのあいだに、白い毛を
二本、指に絡めて拾っていた。どうするつもりもなく、しばらく
握っていた。掃除機が止まったあと、家は前より静かになった
気がした。

 あのタオルは、引き出しの奥にしまった。開けるたびに匂いを
確かめてしまう自分が嫌で、奥へ奥へと押し込んだ。それでも
夜にはこっそり出して、確かめた。みるくはお風呂が好きだった。
湯船に浸かると、俺の腕に顎を乗せて、まぶたを閉じてしまう。
滑らないように支えているうちに、自分がまだ髪も洗っていない
ことを忘れた。今は、湯を抜いてから、そのことに気づくことが
増えた。

 ゆずが逝ったときのことも思い出した。あの子はもっと早くに
逝った。みるくより七年も先に、七歳という若さで。みるくが
実の子のように可愛がっていた分、みるくの喪失感も深かった
はずだ。あのときのみるくの、どこか落ち着かない様子を、俺は
今になってようやく理解できる気がした。

 ある夜、マルチーズ、と入れて検索していた。一匹ずつ顔を
見ては、違う、と思う。何が違うのか考えると、画面を閉じる
しかなかった。みるくを探していたのだ。鼻が短くて、目が
大きかった。美人やな、と誰もが言うような顔ではなかったと
思う。きれいに毛を整えても、すぐに口の周りを濡らして、何か
言いたそうに見上げてくる。その顔が、なぜか一番好きだった。

 画面の中の子犬は、どの子もかわいかった。何枚見ても、指は
次の写真へ動く。みるくの写真まで戻ってくると、止まった。
この顔が、もう一度こちらを向くことはない。指先で大きくしても、
もっと大きくなるだけだった。

 ある夜、引き出しを開けたまま、母に訊いた。

「次の犬、飼うたら」

 その先が続かなかった。母は俺の手元を見た。

「それ、置いといたらええやん。捨てんでええやろ、別に」

 タオルをしまおうとしていた手が、止まった。俺は頷いた。
犬を飼うとも、飼わないとも、その日は決めなかった。ただ、
心のどこかで、もう一度あの顔に会いたいと、本気で願って
いる自分がいることには、気づいていた。
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