第一話 虹の橋
縦書きで読むことを推奨します。
十四歳と九ヶ月。それが、ボクがこの身体で生きた時間だった。
お腹の乳房は、いつからか全て腫瘍で膨らんでいた。仰向けに
寝返りを打つだけで、ずいぶん時間がかかるようになった。
パパはボクが身体を動かすたび、「どっちや」と訊いて、
下に手を差し込んでくれた。ボクが行きたい方向を、パパは
よく間違えた。違うと鼻を鳴らすと、「こっちか」とやり直す。
最後の日まで、パパは何度でもやり直してくれた。
十二歳を過ぎた頃から、ボクの世界は白く煙りはじめた。
お散歩は、もう自分の足では歩けなくなって、ペットカートに
乗せてもらうようになった。それでも外に出れば、風の匂いが
した。パパの匂いがした。それだけで、十分だった。
ボクにはワン友と呼べる子はいなかったけれど、来客には
愛想を振りまいて、よく可愛がられた。そのかわり、姪にあたる
犬が産んだ子――ゆずを、ボクは母犬から取り上げるようにして、
自分の子供みたいに育てた。本当の自分の子は、うまく育てて
やれずに死なせてしまったから。ゆずは先天的に門脈に異常が
あって、生まれてすぐ、虹の橋を渡るはずだった。けれど、
パパが応急処置をして、かかりつけの病院が開くまで持ちこたえ
させてくれた。三日の入院を経て、ゆずは元気になった。ボクより
七年も遅く生まれて、七年も早く逝ってしまう子だとも知らずに、
ボクはゆずを育てた。ゆずのほうにはワン友がいたし、可愛がられ
方も、ボクとは少し違っていた。
その日、パパの誕生日が近づいていた。
獣医にはもう長くないと言われていたと思う。パパはそれを、
聞かなかったふりをしていた。でもボクにはわかっていた。もし
この誕生日にボクがいなくなったら、パパはこれから毎年、ケーキを
食べるたびに謝るだろう。それだけは、嫌だった。
だから、明日のぶんの息を少しずつ使いながら、日付が変わるのを
待った。
待てた。
そのことを、パパに教えてあげたかった。パパの誕生日が静かに
終わって、日付が変わった瞬間、ボクはようやく、力を抜くことが
できた。最後の日、パパは同じ家にいた。呼んだら来てくれる
場所に、ちゃんといた。ボクは呼ばなかった。呼べなかったのか、
呼ぼうとしなかったのか、もうよくわからない。息を吸うことに
忙しくて、次の息を待っているうちに、苦しくなくなった。
そうしたら、寝ているボクの姿が、少し離れたところから見えた。
向こうの部屋に行けばパパがいると分かって、ボクは行った。
久しぶりに、走って行った。パパは気づかなかった。
虹の橋を渡るその瞬間、ボクはそばにいられなかったパパの
ために、もう一度だけ身体に戻ることにした。汚れてしまった
ボクを見つけたパパは、声を上げて泣きながら、お湯を張って、
丁寧に丁寧に洗ってくれた。
「ごめんな」
パパはそう言いながら、固まった汚れを指でほぐしていった。
ボクは浴室の入口から、それをずっと見ていた。パパの腕の中の
ボクは、頭を後ろに倒したままだった。そんな持ち方では首が
疲れるだろうと思ったけれど、あの身体はもう、疲れることも
なかった。
「気ぃつかんで、ごめんな」
パパの声が震えていた。お湯が浴室の床を流れていく。ボクは
その上を歩いて、パパの膝に前足をかけようとした。足はそのまま、
膝の中に入ってしまった。もう一度やった。さっきから、何ひとつ
うまくいかなかった。
パパは小さな布で、ボクの口元を拭いてくれた。唇の端をそっと
持ち上げて、その下まできれいにする。いつもの入浴なら、そろそろ
ボクが顔を振って水を飛ばすところだった。パパは目を細めて、
少し顔を背けた。水は飛んでこなかった。パパはそのまま、動かなく
なった。
「......いっぺんでええし」
お湯が出ていた。
「目ぇ、開けてくれへんか」
ボクは、開けていた。パパの顔を、ずっと見ていた。ただ、
その目が、パパにはもう見えていないだけだった。
こんなに近くにいるのに、届かない。それでもボクは、パパの
誕生日を、命日にせずに済んだことだけは、確かめられた気がした。
ボクの十四年と九ヶ月は、こうして静かに終わった。虹の橋の
たもとに立って、ボクは一度だけ振り返った。パパの声が、まだ
聞こえる気がした。