剣の乙女16 夏の終わり
すがすがしい香りを深く吸って、カーラインは目を覚ました。
窓から射しこむ残紅が、彼女の横たわる白い寝台を染め、忍びよる影が石壁を這いはじめていた。
乾燥して褪せた花々がいれられた袋が枕元に置かれている。
夢のなかでかいだ香りはこの匂い袋だったのだと思いながら、落日の炎が体の芯で燃えているように熱っぽく、うっすらとあいた瞼もすぐに閉じていきそうになる。
「カーライン様」
驚かせて鳥が飛びたってしまうことを怖れるようにひそめられた声。ふたたび微睡みに落ちていこうとするのに抗いながら、マルティンの涙がにじんだ笑顔を見上げる。
「目が覚められて良かった!」
声を出そうとしたが、乾いた喉に粘つく痰がひっかかり、むせてしまう。途端、胸に焼き鏝を当てられたような痛みが走った。苦痛に顔をゆがめた彼女の背中をさすりながら、マルティンは水差しをひび割れた唇にあててくれる。
ひんやりとした水が喉をうるおして息をつくと彼女は問いかけた。
「......わたしはどれだけ眠っていたの」
「倒れられてから三日経ってます。ちなみにここは街中の負傷者で満員の修道院ですよ」
「......では、サレルノは落ちたのね」
訊ねるわけでもなく、独り言ちる。それよりも気になることがあった。
「敵兵を倒しながら、ここまで意識のないわたしを運ぶのは大変だったでしょう?」
マルティンはにっと笑って、胸を張った。
「カーライン様の命を守るためなら、たとえ雨あられと矢が降ろうと雲霞のごとき敵の前でもひるんだりしませんよ。おやっさんがカーライン様を担いで、オレは姫様を守る盾としてお側についてました。......それにしても。あのオッサンじゃないや、オスヴォルト卿は本当に人間なんですか。実は怪物でしたと言われてもオレは納得しますね」
悔しそうな顔になりながらも、不承不承といった感じで感嘆のため息をつく。
「王旗を大車輪で振りまわしては矢を振り払い、敵をまとめてぶん殴って弾き飛ばして、走る、走る。手負いのイノシシが突進していくみたいで、誰にも止められませんでした」
「......無茶苦茶ね」
呆れたように言いながらも、彼女は唇をほころばせる。
「まあ、そのオスヴォルト卿の怪物並の糞力のおかげで、こうして、この修道院に一番乗りできたんですけどね」
「修道士たちは無事なの?」
主に仕え、祈りをささげる修道士を手にかけるなんて許されることではない。
「ご安心ください。進んで門をひらいて抵抗しなければ、命までとられないって言い聞かせたらわかってくれました。もちろん、蝗の大軍と化した我らが皇帝軍によって、金目になるものは残らず略奪されちゃいましたけどね。ま、どんなにヨダレもんの金銀財宝でも、天国までは持って行けないわけですし」
マルティンは肩をすくめると、ニヤリとした。それに彼女も笑った。
「わたしが生きていられるのもあなた達のおかげね。ありがとう。グスタフは、......また白髪が増えているんじゃない?」
「皺も増えてます」
重々しく、マルティンは答えて。
「でも、カーライン様が目をお覚ましになったと知ったら、十歳ぐらいは若返りますよ!」
と、安請け合いした。
早速、呼びに行こうとする背に向けて声をかける。
「この匂い袋を置いてくれたのは誰?」
マルティンは扉のところで振り返った。
「オスヴォルト卿です。人は見かけによらないって言いますけど。女性に決闘申しこむようなお馬鹿さんなのに、こんな繊細な気配りをするとはねぇ。......その匂い袋に入っているラベンダー、緊張をほぐして安らかに眠れる効用があるんですよ」
鳩が喉を震わせて鳴いていた。
日没の残照を浴びて影に沈む回廊。中庭には人の姿はなく、ため息をこぼすように鳴いている鳩の姿だけが薄明に滲んでいる。
寝台にもたれている彼女の輪郭も黄昏にぼやけていくなかで。
いと高き天に向けて幾重にも奏でられる鐘の音が晩課の刻を告げていた。
聖堂からたゆたう主をたたえる詠唱。いくさで傷ついた魂を癒す歌声。安らぎに満たされた静けさが水のように心をひたしていく。
野草のつまった匂い袋を手にとり、口元に寄せた。
皇帝軍の騎士たちが略奪にいそしむなか、あの男は、修道士に頼んで匂い袋を作ってもらったのだろうか。少しでも彼女の眠りが安らかなものであるように願って。
つんと鼻の奥が痛くなる。
「......逢いたい」
そうつぶやいた時、脳裏に浮かんだのはアルベルトではなかった。意識を手放す寸前に目に焼きつけたオスヴォルトの顔だったことに、彼女の心は荒れた海のように波立つ。そんな自分を許すことができず、カーラインは唇をきつく噛みしめた。
グスタフが皺深い目尻をおさえて退室した後、すれ違いではいってきたのは、彼だった。
マルティンが伝えてくれたのだろう。常に主人の心を察する聡い子だから。もしかしたらわたし自身よりも。
そう思いながらも、カーラインはどんな顔をしてこの男と向き合えばいいのかわからない。こちらに近づく足音を聞いただけで逃げだしたくなるが、逃げ場はないし、そもそも怪我で動けない。
だから、目をとじて寝たふりをした。
軽く鼻をつままれる。
「何するのよっ!」
即座に寝たふりを撤回した。
「睨みつける元気があるなら、大丈夫だな」
うっすらと朱色が残る暮れなずむ空を背にして、オスヴォルトが彼女の顔をのぞきこんでいた。
癖の強い黒髪がかかった精悍な顔には疲労の影が落ちていたが、目には彼女をからかうときのあの踊るような輝きがある。
なんだか頭に血がのぼって眩暈がする。また熱が高くなったのかもしれない。
「売られた喧嘩を倍にして返すほど元気じゃないわね」
負けずに言い返す口調もいつもの勢いがない。
「そいつはいかんな。元気になったらぜひ決闘を申しこんでくれ」
どこまで本気なのかわからない口調で言うと、肩にかついでいた花束を無造作に差しだした。
白い胸元に溢れかえる深紅の秋薔薇にカーラインは目をみひらく。それは薔薇を贈られたからではなく、手があやまって傷つかないように刺が取り除かれていたせい。この図体のでかい男が、ひとつひとつ丁寧に刺をとっている姿を想像して、思わず唇がほころぶ。
「......ありがとう。オスヴォルト、本当に何て言ったらいいのかわからないぐらい感謝しているわ。この薔薇も、匂い袋も。......戦場でも......」
「カーライン、戦場でのことは礼を言われるようなことはしていない。俺は自分がすべきことをしただけだ」
オスヴォルトは憮然とした顔でさえぎった。「――結局、守れなかったんだからな」と苦く笑って。
「ま、俺のことはどうでもいい。そんなことより、怪我の具合はどうだ?」
「壊疽をおこさなかったから、もう死ぬことはないんじゃないかしら。動き回ったりできるほど回復するには時間かかりそうだけど」
「......そうか。なら、行軍についていくのは無理だな」
突きつけられた事実に心臓の筋がねじれるように痛んだ。それは肉体の痛みなのか。それとも彼女が戦った夏の季節が終わろうとしている寂寥感なのだろうか。
シチリア王国の領土、イタリア半島南部を制圧するために重要だったサレルノという点を叩いたことで、イタリア南部の戦線は崩壊した。あとは戦わずして皇帝に恭順を示していくだろう。武力で戦うだけが戦争ではないことを彼女はすでに知っていた。
今年中にシチリア王国の王冠を手にするための最短かつ効率的な戦略を練ったあの怜悧な皇帝が、勝利の美酒に酔いしれて時間を潰したりするはずがない。すでに皇帝の目がとらえているのは、シチリア王国の首都パレルモなのだ。そして行軍の速度を落とす、負傷した者は置いていかれる。
「......そうね。傷が癒えるまでこの街で療養して、それから領地に戻るわ」
オスヴォルトは、深く息を吐き出した。
「俺は明日、出発だ。また船に乗りこんで波に揺さぶられ、げえげえ吐きながら盥を抱えてのたうち回るのかと思うと、地獄巡りする方が心躍る体験だな」
「同感ね! わたしも船はこりごり。時間がかかろうとも馬で帰るわ!」
船酔いの悪夢を思い出したふたりは、うんざりとした顔を見合わせて、吹き出した。その後につづける言葉を言えずに互いの視線がさまよう。
「......間に合ってよかったわ。もし明日の夕方に目覚めていたら、こうして最後に別れを告げることもできなかったもの」
沈黙を破ったのは彼女だった。強いて、湿っぽくならないように笑顔を向けて。
「ああ、だがこれが最後じゃない。俺たちが生きている限り」
オスヴォルトは力強く断言すると、その熱を帯びた瞳が彼女をとらえた。焦がれながら手の届かない彼方へと去っていこうとする存在を引き止めようとするかのように。
「......もう目が覚めないんじゃないか、あいつの後を追って逝ってしまうんじゃないか。目覚めない貴女を見ることしかできなかったこの三日間、気が狂いそうだった。カーライン、貴女が矢を受けて倒れた時から、俺の心臓の半分は千切れて血を流している」
膝の上で握りしめた拳が震えていた。
「戦場で明日の命の保証なんてないってわかっていたはずだった。失ってから後悔したって遅いってことを何度も味わったっていうのにな! 惚れた女に好きだという一言を伝えることすらしていなかったんだから、まったく度し難い大馬鹿野郎だ!」
眉根を寄せて荒々しく吐き捨てる。そして、絶望的な戦いに玉砕覚悟で赴く兵士のように決然と顔をあげて告白した。
「カーライン。俺は貴女を愛している」
泣きたくなるほど真摯な声に彼女の心臓は破れる寸前だ。胸の奥に閉じこめていたはずの小夜啼鳥が自由をもとめ、心臓を破って飛び出ようとするかのように。だが、カーラインは、飛びたとうとする小鳥を無理やり押しこめる。胸の奥ふかく、沈めて――誰が小鳥を殺したの?
「――わたしが愛しているのはアルベルトだけ。......だから、あなたの気持ちは受け取れないわ」
夏でも溶けない凍土のように冷たく拒絶する、その言葉を裏切って、頬を濡らしていくのは温かい水滴。
剣を握りつづけて分厚くなった指で彼女の涙をぬぐうと、オスヴォルトはため息をついた。
「貴女の愛が欲しくて愛の告白をしたわけじゃない。ただ俺が自分の気持ちを伝えたかっただけだから、......泣くなよ」
振られて傷心のはずの彼の方が振った彼女を慰めている。おかげでますます緩んでしまった涙腺がとまらなくなる。
「おい! あんまりそうやって泣いていると、俺に気があるのかと思うぞ」
オスヴォルトは掠れた声で言うと、片頬で笑ってみせた。
「なっ――」
つづく言葉は、沸騰して湯気がでそうな彼女の瞼に押しあてられた唇がさえぎってしまう。
「俺は諦めの悪い男なんでな。無事、戦から戻ってこられたら、再戦するとしよう」
不敵に笑う男の頬に赤い手形をお見舞いして、彼女は叫んだ。
「――接吻の代価は薔薇の花束であがなえるなんて思わないことね! 戻ってきたら決闘よ!」
「そいつは楽しみだ」
オスヴォルトは愉快そうな笑い声をたて、サーコートをひるがえし立ち去った。
カーラインのもとに刺を失った薔薇を残して。
薔薇は、傷つけるものからおのれを守るために刺で武装している。
だが彼女の心をおおっていた刺もあの男の皮膚の厚い手をとどめることはできなくて。そして今、彼女のむきだしの心は、刺をなくした無防備な薔薇のように震えているのだった。
深紅の秋薔薇が夏の終わりを告げていた。