幕間(3) 血の海の中で
幕間 血の海の中で
白鳥は霧の彼方へ飛び立った。
胸を締めつける哀切な叫びを残して――
夜明けの夢が目覚めとともに薄れていくように、それもうたかたと消えた。
吹きつけてくる金臭いにおい。熱い飛沫。靴の上まで赤い液体が押しよせてくる。
乾いた沙漠を赤い海に変えるほどの血は、どれだけの人間を殺せば流れるのか。見渡す限りを埋めつくしている数え切れないほどの死体は、どれも人の形をとどめていない。ばらばらに切断された四肢が、頭蓋からはみでた脳髄が、折れた歯が、ぬらぬらと脂でぎらつく血溜まりに浸かっている。
地に落ちた幾つもの軍旗は三日月が金色に輝くイスラム教徒の旗印のみ。百人を越すであろうイスラム教徒軍を全滅させたのは――
血の海の中に立っているのは、一人だけ。
肉片がこびりついている手がべっとりと赤錆色に染まっている。
血染めの軍衣から湯気がたちのぼっていたが、汗は一滴も流れず、息切れすることもなく。たった一人で武装した集団を全滅させたというのか。
意識を取り戻すまでの、記憶がなかった。だが、血に濡れた体はたしかに殺戮に酔っていたことを覚えている。
機を織る音が、記憶の深淵から木霊する。
黄昏の闇が忍びよる部屋で、血染めのタペストリーを織る女がいる。
そして、振り返った女は、女神の微笑を浮かべ、歌うように告げ
「......この、現世の残り香である一筋の髪をつかえば、黄泉返りの魔術を歌うことはできます。――ただし、魂を肉体に戻すことはできても、そなたの破れた心臓が鼓動を刻むことはない。記憶がよみがえるかどうかもわからない。たとえ、全てを思いだしたとしても、いずれ心は壊れ、魔性に堕ちる。他者から精気を奪う呪われた存在となって彷徨い続けることになる。それでも愛する娘に再び会いたいですか。さあ、鋭い武器たる勇士よ、選びなさい。どう選ぶかはそなた次第です」
流れた大量の血から脈打つ熱の渦が流れこんでくる。この呪われた体は、生き物から精気を奪わなければこの世に存在することができないのだ。
なのにこんなにも熱い命の糧を喰らいながら、体は死体のように冷たくて、心臓は石のように黙したままだった。
意識がよみがえるまで、かの女が告げた通り、死体の山を大量に築きながら、魔物となって彷徨っていたのだろうか。
そう、想像するだけで足下が崩れていく恐怖に吐き気がこみあげてくる、はずだ。
それなのに、何も感じないのだ。心があったはずの場所が空洞になってしまったみたいに。
ただ、喉が焼けつくように渇いている。この胸の空洞は血から吸い上げる精気では埋められない。
空虚な闇黒に呑みこまれようとした、その時。
脳裏に閃く。
涙にきらめく蜜色の瞳が
闇を貫く夜明けの一閃のように。
壊れた記憶のなかで、それだけが、鮮明に。
殺戮に酔う肉体から離れ、魂が見ていた夢をよみがえらせる。
霧が渦巻く岸辺に乙女が流れ着いた。ゆらゆらと水面にひろがる赤金の髪、閉ざされたまぶたは月に照らされた真珠のように仄白い。矢が胸に刺さっていた。白の外衣に滲む色は薔薇の赤。
傷ついた乙女にむけて翼をひろげる。はらはらと花が散るように羽根がこぼれ、あらわれたのは人の腕。傷に障らないよう優しく抱き寄せれば、睡りから覚めた乙女は真昼の月の淡い微笑を浮かべ、きっとこれもまた夢なのね、と切なく溜息をついた。
――そう、これもまた夢。幾度も逢瀬を重ねた夢のまにまに漂いながら。この身を白鳥に変えて、霧深い川を彷徨っていた。再びあなたと巡り会うために。
「夢は死にちかいのです、カーライン様」
生死の分かれ目に合ったとき、人は夢を見る。黄昏の荒野を彷徨い、霧深い川辺にたどりつく。死者と生者を分ける冥府の川に。向こう岸に渡ることは肉体の死を迎えること。
「じゃあ、わたしは死んだのかしら。それなら本当にあなたに会っているの。夢から覚めてもう独りになることはないの」
彼女はわかっているのだろうか。その言葉は甘く滴る禁断の林檎だということを。
この夢が覚めれば、再び離れ離れになる。このまま、目覚めないでいられたら! だが、それは彼女の死を望むことだ。
――雪が赤く染まっていく。矢が刺さった白鳥が横たわっている。
「あのとき殺した白鳥は、本当はあなただったのですよ」
彼女の心臓は潮騒のように轟いている。生命の鼓動が脈打っている。震える小鳥をこの手に包みこんでいるように。
「それでも、あなたは私と一緒にいたいと望んでくれるのでしょうか」
踏みにじった雪は、もう清らかに白くない。殺めた白鳥からは、あのまぶしいほどの輝きは消えてしまう。だから、彼女の額に優しく口づけた。
「私の気が変わる前に、お帰りなさい。あなたを現世につなぎとめる花を伝って」
さざ波をたてる一面の花に埋もれて彼女は睡りに落ちていく。
「......また逢えるかしら、アルベルト......」
「必ずあなたの側に戻ります。白鳥が春になれば戻ってくるように――」
誓いの言葉は白鳥の鳴き声に変わり、そうして――
目覚めたのは、血の海の中。
「カーライン様!」
どうして忘れていられたのか、それが黄泉がえりの代償だとしても、それでもあの方を忘れて、魔物のように人を襲っていたことが許せない。
カーライン様は死の境をさまよっている。今見た夢が教えてくれた。
早く、早く、カーライン様のお側に! 焦がれる想いに駆り立てられる。
だが、おのれの闇の深きところから、嘲笑をふくんだ冷たい声が這い上がってくる。
“見ろ! 魔性と化したお前が殺した死体の山を。血の海を。お前があの方のもとに戻れば、どうなるか見るがいい。”
雪が赤く染まっていく。冷たくこわばった白鳥のようにカーライン様が横たわっている。
“この幻影が現実になっても、お前は帰るというのか? ”
怖れていることをえぐりだす、その声は自分のもの。みずからの影からは逃げられない。
「深淵に潜む魔物の私よ。その幻影を現実にしないために私はみずからの闇と戦う」
人の心を完全になくして魔性に堕ちるまで、残された時間はあとどれくらいだろう。その時間が尽きるまで。
「――私は帰る。カーライン様を守る。そのために私は黄泉がえったのだ」