ホーム永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌竜の血脈09 ドラゴンの骨
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竜の血脈09 ドラゴンの骨

墓穴で腐爛死体と抱き合っているかのようなすさまじい臭気にたまらず目を開けた。
 怪物の貪欲な胃袋に呑みこまれたような闇の中。
 彼女をかついでいる男のかかげる松明が、闇黒を退けようと揺れている。そのかぼそい橙色の炎が照らし出したのは――
 彼女は悲鳴をあげなかった。

 これもまた夢。目覚めたつもりになっていただけ。まだ悪夢に囚われたままなのだ。

 上下が逆さまになった、ぐらぐらと揺れる視界をよぎっていくのは、赤い目を燃やす鼠。逃げるそぶりもみせず、熱心に囓っている。

 何を? 腐った臭いのもとが。柩から突きでている。手の骨は白く、蜘蛛の巣がかかった絹の衣装もまた白く、しおれた薔薇の褥だけが紅い。次々とゆらめく炎に浮かび上がる柩はどれも同じ。

 どの屍体にも首だけがない。
 彼女は悟った。自分も首を斬られた娘たちと同じ運命をたどるだろうと。それでいて、どこか夢のなかの出来事のように、現実感がないのだった。
 だが、体に走った痛みは現実のものだった。
 乱暴に投げ出された彼女は、水溜まりに浸かっていた。

 ――ぴたん、ぽたん! ぴたん、ぽたん!

 水が跳ねる、調子外れに。
 地面に、彼女の額に。滴りおちる。どろりと粘っこく。見なくてもわかっていた。その水が赤いことを。
 ゆるゆると視線をあげていく。祭壇に腐った林檎のごとく供えられた生首が。
 そして――

 喉が締めつけられたように鳴った。後退ろうとしたが、腱を切られた足は動かない。
 見開かれた目をそらすこともできない。

 それは巨大な頭蓋骨だった。牛を軽く丸呑みできるほどのありえない大きさ。そそり立つ二本の角。だが牡鹿や雄山羊であるわけがない。肉食獣の王者である獅子でさえも敵わない、剣のごとき牙がその証拠。

 それはまるで――

「ああ! 僕のドラゴン、血よりも濃く、骨よりも固く、僕と結びついている半身よ」
 闇色の蛇が悦びにのたうつように身をくねらせて、黒ずんだ禍々しい頭蓋骨に接吻している。ヨハネス、またの名を悪魔が。
 震えている彼女を満足そうに見下ろした。
「何をそんなに震えているの。怖いのかい、僕のドラゴンが」
 肩を揺すって笑うと、蛇を思わせる長い舌で唇をなめた。
「怖がらなくていいのに。かれは血を飲み干したばかりで満腹しているからね。君の血は今までの乙女のなかでいちばん美味そうだってさ。味わえないことを残念がっているよ」

「......光栄だこと。用済みになるまでは生贄にされないと聞いて安心したわ」
 恐怖を与えようとする言葉がかえって、彼女を落ち着かせた。オスヴォルトが助けにきてくれるまで時間をかせがなくては。
「本当にその頭蓋骨はドラゴンなの? 伝説の中にしか存在しない怪物でしょう」
「ああ、カーライン、君もか! 愚かしいことに、ひとは見たくないものを見ないようにできている。君もそんな愚か者のひとりだったなんてがっかりだよ。――仕方がない。この城の地下深くで眠っていたドラゴンの話をしてあげよう。そうすれば君も知るだろう、夢こそがまことだと――」
 墓穴を思わせる冥い目に覗きこまれ、彼女は震えた。死者の手で背中を撫でられたかのように。

 そして、ヨハネスは彼女の恐怖を味わいながら、恍惚とした目で語り始めたのだった。



 ――あれは、四年前の夏。父と兄はそろって十字軍に加わり、城を留守にしていた。今まで日陰の身だった僕が城を支配できる日がやってきたんだ。興奮しすぎたのがいけなかったのか、僕は熱をだして寝込んでしまっていた。いまが昼なのか夜なのか、眠っているのか起きているのか、なにもかもが灼熱の高炉のなかで熔けて崩れおちるなかで、僕を呼ぶ声だけが血肉をそなえて、脈打っていた。地上に復讐する日を夢見る地底のマグマのように、灼熱の怒りをたぎらせていた。

 頭蓋内にこだまする呼び声に導かれ、とぐろを巻く漆黒の蛇と化した階段を下へ下へ。階段の果てに地下室の扉が立ちふさがっていた。生臭い湿った息を吐きだす地獄の門のように。

 扉の蝶番はさびつき、出入りする者がいない証拠に蜘蛛の巣がかかっている。常に鍵がかかっているその扉を押した。偶然に鍵がかかっていなかったのか、それとも夢だからなのか。ねっとりとよどんだ闇にやさしく包みこまれ、僕は地下室の中にいた。頭蓋を割らんばかりにとどろいている呼び声の命じるままに歩いていく。

 気がつくと僕は、祭壇の前に立っていた。牛を一口で呑みこむことができる巨大な頭蓋骨に見下ろされて。その骨こそが呼び声の主だった。母が子守歌代わりに語り聞かせてくれた一族の伝説は本当だったのだ。

 夢見てきたドラゴンが目の前にいる! ふるえる手をのばし、地獄の割れ目のごとき眼窩を覗き込んだ。その穴の向こうは漠々とひろがりつづける虚空――堕ちていく。光あれと神が命じる前の、天地がいまだ分かれていない混沌の渦に。僕を巻き込んで回る回る渦巻き。回って回って、僕は牛酪のように溶けていく――

 首を切られた衝撃で、僕は目覚めた。大剣を振りおろした騎士の血まみれの姿が視界に映る。兜をとった騎士の顔は――オスヴォルト! 憎悪をこめて双子の片割れを睨みつけた。横倒しになった長大な胴体を痙攣させながら。

 そう、僕はドラゴンになっていたんだ。

 ――ドラゴンの記憶が深紅と鉄錆の臭いになって洪水のように僕を押し流していく。

 騎士は山頂の亀裂から降りてきた。腸のようにくねる隧道を通りぬけ、洞穴で眠っていた僕――ドラゴンに襲いかかった。川のように流れる血は、洞穴の外の大地を赤く染めた。その血の海から葡萄がたわわに実り、辺り一面を覆いつくした。

 騎士は山頂の亀裂を封じるために塔を建て、切り取った頭部を地下室にひそかに祭った。一族に権力と富をもたらすために。兄にうりふたつの、その騎士こそが、初代のドラッヘンフェルス城主だった。

 栄えていく騎士の城の下、肉が腐り落ちようとも朽ちることのない骨は、滅びの夢をつむいでいく。地下深くで白い骨の木が枝をひろげる。葉がざわめくように、骨が歌う。



 ――我を倒した騎士の血をひくものよ。我と同じく、塔に閉じ込められ、城主に恨みを抱く者よ。

 地を這う声が響いている。洞穴に反響し、ドラゴンの巨大な頭蓋を震わせ、僕の小さな頭蓋に木霊する。

 ――血だ。乙女の血だ。我は血に飢えている

 血と肉を求めて、骨が鳴っている。洞穴に響き渡り、ドラゴンの巨大な頭蓋をうならせ、僕の小さな頭蓋を打ち鳴らす。

 ――我のために祈りを捧げよ。人の子の祈りこそが我の糧。血と祈りに満たされた時、我は――

 光が洞穴の亀裂からさしこんでいる。覗き込むと、その亀裂はドラゴンの虚ろな眼窩になり、その眼窩を覗き込んだ瞬間――落日の斜光が眼球を射た。


 僕は、寝台に横たわっていた。
 あれはすべて夢だったというのか。いや、そんなはずはない! まだあの声が生々しく響いて、頭がずきずきと脈打っている。確かめに行かなければ――

 ふらつきながら向かった地下室の扉は、蜘蛛が織った銀色のヴェールでおおわれていた。それは、誰もここに出入りしたことがないという証。
 あれがただの夢だったなんて僕は信じないぞ!
 
 城主が留守の間、鍵を管理している城代を脅して鍵を奪い取り、扉をあけた。錆びついた蝶番の軋む音。よどんだ空気を吸いこみ、僕は微笑した。夢で見たとおりだ。
 闇よりもまがまがしくそびえるドラゴンの頭蓋骨も、初代の城主が隠した洞穴へと続く亀裂も。

 縄梯子をかけ、深淵へと降りていく。湿った土の臭いと冷気が押しよせてくる。胎内でまどろむ赤児を包みこむ、大地の子宮に呑みこまれていくようだ。ゆらめく炎は松明を握っている手だけをおぼろに浮かび上がらせるばかり。闇はさらに濃くとぐろを巻き、僕を締めつけて、頭からむさぼり喰おうとしている――僕は、夜中に目覚めた子どもに戻って泣きじゃくった。母上、母上!

 ――夜の闇が恐いのかい、ヨハネス。人の闇の方が恐ろしいのよ、ヨハネス。

 ええ、本当にそうですね、母上。蜘蛛の巣にかかった虫みたいに、母上と一緒に閉ざされた闇の世界で生きてきたんだものね。
 だけど、僕は知っているんだ。闇に怯えないですむ方法があるって。それはね。

 僕は松明を捨てた。

 僕をくわえこみ、大地の子宮が脈打っている。僕の鼓動の音と重なっている。僕は声をあげて笑った。

 ――闇とひとつになればいいんだよ。



 暗がりに慣れた目を、落ちた太陽の燃える光が射ぬいた。
 洞穴を出た僕は、斜面一帯にひろがる葡萄畑を見下ろしていた。
 竜の血と呼ばれるドラッヘンフェルスの葡萄。つかみとって握りしめた。深紅の飛沫。手も唇も血の色に染めて。はじめて幸福を味わっていた。
 古い皮を脱ぎ捨てて、僕は生まれ変わった。

 僕は、ドラゴンになったんだ。


 
 ――ぴたん、ぽたん! ぴたん、ぽたん!

 水の滴る音がする。幾重にも残響を重ねて、途切れることなく。高熱に蝕まれた意識を穿っていく。
 額にしずくが跳ねた。その冷たさに、びくりと震え、カーラインは目を開けた。またしても真っ暗闇。ここは、どこなのだろう。何日も風呂にはいってない悪臭ただよう男に背負われているのは一緒だが......。松明の炎が、天井の岩に垂れ下がった鍾乳石をおぼろに照らし出した。では、あの頭のいかれた男が得意そうに喋っていた洞穴なのだ。酒なしで幻覚を見ている男の酔いしれた声が耳朶によみがえってきて、彼女の肌は粟立つ。

 ドラゴンの物語を子守歌に意識は深淵に落ちていき、そして、夢を見ていたことを生々しく思い出した。あの男の狂った意識と同化して、竜の血――葡萄が口の中で弾けたときの、堕ちていく快楽の味を――

 カーラインは、おぞましい夢を振り払った。

 ――別のことを考えるのよ。そう、祈祷台が隠していた亀裂へと連れ込まれる前のこと。髪を飾っていた花輪をつかんだ。こぼれおちた花びらの紅。オスヴォルトがきっと見つけてくれる。それだけがこの闇の世界から引き上げてくれる希望の糸。だから、わたしはまだ頑張れる。

 耳を澄ます。足音は、ひとつ。彼女を運ぶ男のものだけ。口では大事な花嫁と言いながら、足手まといになる彼女を捨てて先に行ってしまったのだ、薄情な花婿は。
 彼女を背負っている男が口汚く罵っている。無理もない。意識を失っていた体はさぞ重たかっただろう。そう思うが、乙女の体重について悪態をつかれて、慈母のように微笑むことができるほど彼女の心は広くはない。

 男の足取りが速くなる。彼女の無言の怒りに恐れをなしたわけではなく、反響する足音が増えたせいだ。
 後ろから殺気に尖った空気の流れが押しよせてくる。足音が迫ってくる。
 逃げられないと悟った男は、彼女を放りだした。

 地面に叩きつけられ、激痛にうめく。
 男は振り向きざまに剣を抜いて、迎え撃とうとした。だが、遅い。
 黒い暴風が吹きぬけた。
 大量の血を噴水のように吹き上げ、首から上をなくした体がゆっくりと倒れていく。

 黒い風は、ひるがえる黒の軍衣。時が巻き戻る。戦場で命を救ってくれたあの時に。血を浴び、瞳に黒い騎士のみを映して。あのときは視線が交差しただけだった。だが今は、彼女の名を呼んで駆けつけてくれる。

「カーライン!」

 その声で名前を呼ばれただけで、涙があふれてしまう。どんなに酷い目にあっても、涙などみせなかったのに――この男の前ではわたしは弱くなってしまう。

 なのに覗き込んでくる彼の方が傷ついた顔をしている。矢を受けて死にかけたあの時もそうだった。わたしは大丈夫よと言ってあげたかった。そして、夏の終わりにあなたが贈ってくれた薔薇は今も咲いているのよと伝えたかった。秋を過ぎて冬になっても、枯れていないと。わたしの心にひろがる常春の庭で。

 オスヴォルトの腕のなかで。

 微笑む唇からこぼれたのは、言葉にならない吐息。
 緊張の糸が切れたカーラインは、やすらかな睡りの園へと引き込まれてしまったのだった。
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永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌作者:松木響子
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墓穴で腐爛死体と抱き合っているかのようなすさまじい臭気にたまらず目を開けた。
 怪物の貪欲な胃袋に呑みこまれたような闇の中。
 彼女をかついでいる男のかかげる松明が、闇黒を退けようと揺れている。そのかぼそい橙色の炎が照らし出したのは――
 彼女は悲鳴をあげなかった。

 これもまた夢。目覚めたつもりになっていただけ。まだ悪夢に囚われたままなのだ。

 上下が逆さまになった、ぐらぐらと揺れる視界をよぎっていくのは、赤い目を燃やす鼠。逃げるそぶりもみせず、熱心に囓っている。

 何を? 腐った臭いのもとが。柩から突きでている。手の骨は白く、蜘蛛の巣がかかった絹の衣装もまた白く、しおれた薔薇の褥だけが紅い。次々とゆらめく炎に浮かび上がる柩はどれも同じ。

 どの屍体にも首だけがない。
 彼女は悟った。自分も首を斬られた娘たちと同じ運命をたどるだろうと。それでいて、どこか夢のなかの出来事のように、現実感がないのだった。
 だが、体に走った痛みは現実のものだった。
 乱暴に投げ出された彼女は、水溜まりに浸かっていた。

 ――ぴたん、ぽたん! ぴたん、ぽたん!

 水が跳ねる、調子外れに。
 地面に、彼女の額に。滴りおちる。どろりと粘っこく。見なくてもわかっていた。その水が赤いことを。
 ゆるゆると視線をあげていく。祭壇に腐った林檎のごとく供えられた生首が。
 そして――

 喉が締めつけられたように鳴った。後退ろうとしたが、腱を切られた足は動かない。
 見開かれた目をそらすこともできない。

 それは巨大な頭蓋骨だった。牛を軽く丸呑みできるほどのありえない大きさ。そそり立つ二本の角。だが牡鹿や雄山羊であるわけがない。肉食獣の王者である獅子でさえも敵わない、剣のごとき牙がその証拠。

 それはまるで――

「ああ! 僕のドラゴン、血よりも濃く、骨よりも固く、僕と結びついている半身よ」
 闇色の蛇が悦びにのたうつように身をくねらせて、黒ずんだ禍々しい頭蓋骨に接吻している。ヨハネス、またの名を悪魔が。
 震えている彼女を満足そうに見下ろした。
「何をそんなに震えているの。怖いのかい、僕のドラゴンが」
 肩を揺すって笑うと、蛇を思わせる長い舌で唇をなめた。
「怖がらなくていいのに。かれは血を飲み干したばかりで満腹しているからね。君の血は今までの乙女のなかでいちばん美味そうだってさ。味わえないことを残念がっているよ」

「......光栄だこと。用済みになるまでは生贄にされないと聞いて安心したわ」
 恐怖を与えようとする言葉がかえって、彼女を落ち着かせた。オスヴォルトが助けにきてくれるまで時間をかせがなくては。
「本当にその頭蓋骨はドラゴンなの? 伝説の中にしか存在しない怪物でしょう」
「ああ、カーライン、君もか! 愚かしいことに、ひとは見たくないものを見ないようにできている。君もそんな愚か者のひとりだったなんてがっかりだよ。――仕方がない。この城の地下深くで眠っていたドラゴンの話をしてあげよう。そうすれば君も知るだろう、夢こそがまことだと――」
 墓穴を思わせる冥い目に覗きこまれ、彼女は震えた。死者の手で背中を撫でられたかのように。

 そして、ヨハネスは彼女の恐怖を味わいながら、恍惚とした目で語り始めたのだった。



 ――あれは、四年前の夏。父と兄はそろって十字軍に加わり、城を留守にしていた。今まで日陰の身だった僕が城を支配できる日がやってきたんだ。興奮しすぎたのがいけなかったのか、僕は熱をだして寝込んでしまっていた。いまが昼なのか夜なのか、眠っているのか起きているのか、なにもかもが灼熱の高炉のなかで熔けて崩れおちるなかで、僕を呼ぶ声だけが血肉をそなえて、脈打っていた。地上に復讐する日を夢見る地底のマグマのように、灼熱の怒りをたぎらせていた。

 頭蓋内にこだまする呼び声に導かれ、とぐろを巻く漆黒の蛇と化した階段を下へ下へ。階段の果てに地下室の扉が立ちふさがっていた。生臭い湿った息を吐きだす地獄の門のように。

 扉の蝶番はさびつき、出入りする者がいない証拠に蜘蛛の巣がかかっている。常に鍵がかかっているその扉を押した。偶然に鍵がかかっていなかったのか、それとも夢だからなのか。ねっとりとよどんだ闇にやさしく包みこまれ、僕は地下室の中にいた。頭蓋を割らんばかりにとどろいている呼び声の命じるままに歩いていく。

 気がつくと僕は、祭壇の前に立っていた。牛を一口で呑みこむことができる巨大な頭蓋骨に見下ろされて。その骨こそが呼び声の主だった。母が子守歌代わりに語り聞かせてくれた一族の伝説は本当だったのだ。

 夢見てきたドラゴンが目の前にいる! ふるえる手をのばし、地獄の割れ目のごとき眼窩を覗き込んだ。その穴の向こうは漠々とひろがりつづける虚空――堕ちていく。光あれと神が命じる前の、天地がいまだ分かれていない混沌の渦に。僕を巻き込んで回る回る渦巻き。回って回って、僕は牛酪のように溶けていく――

 首を切られた衝撃で、僕は目覚めた。大剣を振りおろした騎士の血まみれの姿が視界に映る。兜をとった騎士の顔は――オスヴォルト! 憎悪をこめて双子の片割れを睨みつけた。横倒しになった長大な胴体を痙攣させながら。

 そう、僕はドラゴンになっていたんだ。

 ――ドラゴンの記憶が深紅と鉄錆の臭いになって洪水のように僕を押し流していく。

 騎士は山頂の亀裂から降りてきた。腸のようにくねる隧道を通りぬけ、洞穴で眠っていた僕――ドラゴンに襲いかかった。川のように流れる血は、洞穴の外の大地を赤く染めた。その血の海から葡萄がたわわに実り、辺り一面を覆いつくした。

 騎士は山頂の亀裂を封じるために塔を建て、切り取った頭部を地下室にひそかに祭った。一族に権力と富をもたらすために。兄にうりふたつの、その騎士こそが、初代のドラッヘンフェルス城主だった。

 栄えていく騎士の城の下、肉が腐り落ちようとも朽ちることのない骨は、滅びの夢をつむいでいく。地下深くで白い骨の木が枝をひろげる。葉がざわめくように、骨が歌う。



 ――我を倒した騎士の血をひくものよ。我と同じく、塔に閉じ込められ、城主に恨みを抱く者よ。

 地を這う声が響いている。洞穴に反響し、ドラゴンの巨大な頭蓋を震わせ、僕の小さな頭蓋に木霊する。

 ――血だ。乙女の血だ。我は血に飢えている

 血と肉を求めて、骨が鳴っている。洞穴に響き渡り、ドラゴンの巨大な頭蓋をうならせ、僕の小さな頭蓋を打ち鳴らす。

 ――我のために祈りを捧げよ。人の子の祈りこそが我の糧。血と祈りに満たされた時、我は――

 光が洞穴の亀裂からさしこんでいる。覗き込むと、その亀裂はドラゴンの虚ろな眼窩になり、その眼窩を覗き込んだ瞬間――落日の斜光が眼球を射た。


 僕は、寝台に横たわっていた。
 あれはすべて夢だったというのか。いや、そんなはずはない! まだあの声が生々しく響いて、頭がずきずきと脈打っている。確かめに行かなければ――

 ふらつきながら向かった地下室の扉は、蜘蛛が織った銀色のヴェールでおおわれていた。それは、誰もここに出入りしたことがないという証。
 あれがただの夢だったなんて僕は信じないぞ!
 
 城主が留守の間、鍵を管理している城代を脅して鍵を奪い取り、扉をあけた。錆びついた蝶番の軋む音。よどんだ空気を吸いこみ、僕は微笑した。夢で見たとおりだ。
 闇よりもまがまがしくそびえるドラゴンの頭蓋骨も、初代の城主が隠した洞穴へと続く亀裂も。

 縄梯子をかけ、深淵へと降りていく。湿った土の臭いと冷気が押しよせてくる。胎内でまどろむ赤児を包みこむ、大地の子宮に呑みこまれていくようだ。ゆらめく炎は松明を握っている手だけをおぼろに浮かび上がらせるばかり。闇はさらに濃くとぐろを巻き、僕を締めつけて、頭からむさぼり喰おうとしている――僕は、夜中に目覚めた子どもに戻って泣きじゃくった。母上、母上!

 ――夜の闇が恐いのかい、ヨハネス。人の闇の方が恐ろしいのよ、ヨハネス。

 ええ、本当にそうですね、母上。蜘蛛の巣にかかった虫みたいに、母上と一緒に閉ざされた闇の世界で生きてきたんだものね。
 だけど、僕は知っているんだ。闇に怯えないですむ方法があるって。それはね。

 僕は松明を捨てた。

 僕をくわえこみ、大地の子宮が脈打っている。僕の鼓動の音と重なっている。僕は声をあげて笑った。

 ――闇とひとつになればいいんだよ。



 暗がりに慣れた目を、落ちた太陽の燃える光が射ぬいた。
 洞穴を出た僕は、斜面一帯にひろがる葡萄畑を見下ろしていた。
 竜の血と呼ばれるドラッヘンフェルスの葡萄。つかみとって握りしめた。深紅の飛沫。手も唇も血の色に染めて。はじめて幸福を味わっていた。
 古い皮を脱ぎ捨てて、僕は生まれ変わった。

 僕は、ドラゴンになったんだ。


 
 ――ぴたん、ぽたん! ぴたん、ぽたん!

 水の滴る音がする。幾重にも残響を重ねて、途切れることなく。高熱に蝕まれた意識を穿っていく。
 額にしずくが跳ねた。その冷たさに、びくりと震え、カーラインは目を開けた。またしても真っ暗闇。ここは、どこなのだろう。何日も風呂にはいってない悪臭ただよう男に背負われているのは一緒だが......。松明の炎が、天井の岩に垂れ下がった鍾乳石をおぼろに照らし出した。では、あの頭のいかれた男が得意そうに喋っていた洞穴なのだ。酒なしで幻覚を見ている男の酔いしれた声が耳朶によみがえってきて、彼女の肌は粟立つ。

 ドラゴンの物語を子守歌に意識は深淵に落ちていき、そして、夢を見ていたことを生々しく思い出した。あの男の狂った意識と同化して、竜の血――葡萄が口の中で弾けたときの、堕ちていく快楽の味を――

 カーラインは、おぞましい夢を振り払った。

 ――別のことを考えるのよ。そう、祈祷台が隠していた亀裂へと連れ込まれる前のこと。髪を飾っていた花輪をつかんだ。こぼれおちた花びらの紅。オスヴォルトがきっと見つけてくれる。それだけがこの闇の世界から引き上げてくれる希望の糸。だから、わたしはまだ頑張れる。

 耳を澄ます。足音は、ひとつ。彼女を運ぶ男のものだけ。口では大事な花嫁と言いながら、足手まといになる彼女を捨てて先に行ってしまったのだ、薄情な花婿は。
 彼女を背負っている男が口汚く罵っている。無理もない。意識を失っていた体はさぞ重たかっただろう。そう思うが、乙女の体重について悪態をつかれて、慈母のように微笑むことができるほど彼女の心は広くはない。

 男の足取りが速くなる。彼女の無言の怒りに恐れをなしたわけではなく、反響する足音が増えたせいだ。
 後ろから殺気に尖った空気の流れが押しよせてくる。足音が迫ってくる。
 逃げられないと悟った男は、彼女を放りだした。

 地面に叩きつけられ、激痛にうめく。
 男は振り向きざまに剣を抜いて、迎え撃とうとした。だが、遅い。
 黒い暴風が吹きぬけた。
 大量の血を噴水のように吹き上げ、首から上をなくした体がゆっくりと倒れていく。

 黒い風は、ひるがえる黒の軍衣。時が巻き戻る。戦場で命を救ってくれたあの時に。血を浴び、瞳に黒い騎士のみを映して。あのときは視線が交差しただけだった。だが今は、彼女の名を呼んで駆けつけてくれる。

「カーライン!」

 その声で名前を呼ばれただけで、涙があふれてしまう。どんなに酷い目にあっても、涙などみせなかったのに――この男の前ではわたしは弱くなってしまう。

 なのに覗き込んでくる彼の方が傷ついた顔をしている。矢を受けて死にかけたあの時もそうだった。わたしは大丈夫よと言ってあげたかった。そして、夏の終わりにあなたが贈ってくれた薔薇は今も咲いているのよと伝えたかった。秋を過ぎて冬になっても、枯れていないと。わたしの心にひろがる常春の庭で。

 オスヴォルトの腕のなかで。

 微笑む唇からこぼれたのは、言葉にならない吐息。
 緊張の糸が切れたカーラインは、やすらかな睡りの園へと引き込まれてしまったのだった。
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