竜の血脈10 暁の乙女
澄みきった歌声が、空の高みめざして、羽根のような軽やかさで舞い上がる。
でも、わたしは地の底に沈んでいくみたいな溜息をこぼしていた。黄昏が忍びこむ壁龕のベンチに座って、膝のうえにのせた鳥籠を見下ろしながら。
胸が燃えるように赤い小鳥は、美しい声でさえずり続けている。ここから出して! と訴えているのかしら。それなら、わたしと一緒だ。
わたしの名前は残らない。系図には、ただサイン伯ルートヴィヒの娘とだけ記される。伯爵家という鳥籠の中で、政略の駒として売り買いされるために育てられた。
子どもが生めるようになれば、わたしは種馬の男のもとに嫁がされる。女になどなりたくなかった。子どものままでいたかった。だが、その日がとうとうきてしまった。下腹部が締めつけられる痛み。どろりとあふれ、流れていく血。気持ち悪い。
「誰がお前を鳥籠に閉じ込めたの?」
それはわたしの父。娘の十三歳の誕生日に贈るため。清らかな声で歌っていた森の小鳥を捕まえて、鉄の鳥籠に閉じ込めた。
――ありがとう、おとうさま。でも、わたしが欲しかったのは、籠の中の鳥ではなくて、大空をはばたく鷹でした。
「誰もお前から空を奪えないわ」
そして鳥籠をあけたのは、わたし。
夕暮れの冷たい風が頬をなでた。足音は聞こえなかった。西日に長くのびた影が落ち、わたしの影と重なる。
「アルベルト。――この子、飛ぼうとしないの」
震える小鳥をのせた手は、リュートを弾けば天上の楽の音を奏でる繊細な手に包みこまれた。
「......残念ですがその鳥は飛ぶことはできません。風切り羽が切られていますから」
淡々と事実を告げる声にわたしは苛立った。重くのしかかる下腹部の痛み。どろりと血がしたたり落ちる。こみあげてくる、熱。抑えていた激情の炎がほとばしる。
「美しい声で歌うことができれば、翼はいらないというわけ? 翼を奪って、足枷をつけて、籠の中にとじこめてないと不安なのね。飛び立ってそのまま戻ってこないんじゃないかって。父上だけじゃない。男は、女を自由にしておくのが怖いのよ!」
激しい声に驚いた小鳥は、アルベルトの腕に移って、再びさえずりはじめる。
「どうしてわたしは女なの。結婚前は父親に、結婚後は夫に支配される女なの!」
わたしは立ち上がり、怒りにまかせて地面を踏み鳴らす。
「そんな運命なんか糞喰らえだわ!」
それは、小姓のマルティンがよく吐く悪態のひとつ。わたしの今の気分にぴったりだったから使ったのだ。
でも、小鳥が憩う梢のような深い緑の瞳にみつめられたとたんに頬が熱くなった。
「なによ! 黙ってないで何か言ったらどうなの?」
「私は違います。――私はカーライン様の翼を奪うものを許しません」
アルベルトはこちらが赤面するようなことでも、力むことも照れることもなく、まっすぐに誓う。力に満ちた真の言葉を話す妖精のように。
わたしは厳かにうなずいてみせた。
「わたしも許さないわ。翼が切られるのを大人しく受け容れたりするものですか。父上が結婚を押しつけてきたときは、髪を短く切って、男装して、城を抜け出すんだから。もちろん、アルベルトも一緒よ。ちなみにわたしはあなたの従者になって、馬上槍試合で生計をたてることになってるから、よろしくね」
「無論です。馬上槍試合で金持ちの騎士を次々と倒して、身代金をとりたて、身ぐるみ剥いでやりましょう。鎖帷子や馬は高く売れますからね」
アルベルトは見惚れてしまう綺麗な笑顔で首肯した。そして、わたしたちは天使のように無垢な微笑を浮かべ合ったのだった。
「――ああ、そうなれたらどんなに痛快でしょう」
笑みは消え、アルベルトは瞳を陰らせた。黄昏の赤く染まった空をみつめて囁く声は、葦をわたる風のように物悲しく響いた。
「ですが、運命を織る女神は、私たちの幸せな夢を織ってはくれないでしょう」
――なぜなら、三つの貌をもつ女神の織機は、重鉛は生首、綜絖棒は血塗りの槍。血で染まった横糸と人間の腸で作られた縦糸を交差させ、運命を織りあげるのですから――
「その織物には私たちの運命が強く結びつけられた瞬間が織られているのです。――あの夕闇にまたたく蒼白き星のごとき白鳥が。その白い胸は赤く染まり、血の雨が降りそそぐでしょう。私たちの運命の上に――」
「アルベルト! やめて!」
不吉な予言めいた響きを打ち消さんとわたしは叫んでいた。
――だが、運命の女神はすでに血染めの横糸と腸の縦糸を交差させていた。
アルベルトの胸が真っ赤に染まる。槍が突き抜けて、血の雨が降りそそぐ。
――戦場で流した血の糸でアルベルトの運命は織りあげられた。
その深紅の織物にわたしの涙がふりそそぐ。血を洗い流す雨となって。
雨はいつしか雪にかわっていた。墓標を前にして、ひざまずいていた。
「わたしは、あなたの死を知って、髪を短く切ったのよ。男装して、戦場にも立ったわ。みごと手柄をたてて、女伯爵として認めてもらったし......。結婚の話がでたあのときに、勇気をだしてそうしていたら運命は変わっていたかしら。あなたは死なずにすんだのかしら。わたしたちは幸せになっていたかしら」
でも、生きている者の時は過去から未来へ流れる一方通行。過去にさかのぼって運命を変えることはできない。どんなに嘆いても。
さあ、顔をあげなくては。もう前を向いて歩いていかなければ。
「籠の鳥だったわたしは、あなたがいなくても、ひとりで空へと飛び立ちました。そして、気づいたのです。独りぼっちだと思い込んでいた自分の側に愛してくれるひとがいることを――」
手を組み合わせ、告白をつづける。
「永遠にあなただけを愛し続けると誓いながら、あなた以外のひとに惹かれていくなんて許されない、そう思っていたわ。でも、わたしは、もう気持ちを偽ることはできない」
胸に走る痛み。心臓が脈打つ胸から血が一滴こぼれ、一輪の薔薇にかわる。朝露をふくんだようにみずみずしく。内に炎を秘めた鉱石のように輝いている。
「他のひとを愛そうとも、あなたへの想いは死にはしない。この薔薇のように」
自分の血からうまれた薔薇を残し、わたしは墓標に背をむけた。
黄泉路の寒々とした影の道を迷いのない足取りで歩いていく。
決して後ろを振り返らずに。
――そして、闇を切り裂くまばゆい光が瞳にさしこんだ。
「カーライン。夜明けだ」
長い夜が明け、悪夢が終わったのだと信じられる力強い声が響く。吐息が耳にかかり、厚い胸板に寄せた頬が鼓動を感じるほど近くで。夜の名残を払う暁光に縁取られた精悍な顔を見上げていた。充血している目に光るものをみつけ、そっと指で目尻をぬぐう。
オスヴォルトは、これが涙だとは認めたくはないだろう。
「心臓に悪いぞ。抱き上げた途端、息をひきとったみたいに首ががくっとたれるとな」にやりと笑って付けたす。「すぐにいびきをかいてくれたおかげで、安心できたが」
彼らしい照れ隠しだと思いつつも、本当にいびきをかいていたんだろうかと気になる。眉をしかめ、熱のせいで枯れた声で一言。
「あなたの今の台詞で感動の再会がぶち壊しよ」
「......すまん。その方が笑えると思ってな。――美女の寝息よりいびきの方が衝撃的だろ......いや、これも失言だな」
「まったく。空気を読まない、笑えない冗談を口走るところ、変わってないわね」
「カーラインの舌もあいかわらず棘があって懐かしいよ」
棘に刺されるのが嬉しそうな顔で言うのに呆れつつも、自分の毒舌を浴びて笑っていられる男はこのひとぐらいよねと感心もするのだった。
あたりを見回す。背後の岩壁には洞穴がドラゴンの口のように開き、前方には葡萄畑の斜面が雪に覆われていた。朝日をあびて白くきらめいている。その斜面を走っていくのは、オスヴォルトの兵士たち。ヨハネス一行の姿はすでに豆粒ほどの小さい影だ。岸につないでいた小舟に乗り込み、風をうけてみるみるうちに離れていく。追っ手が放った矢は、舟にかすっただけだ。
「......逃げ切ったわね」
「あいつは昔から逃げ足だけは速いんだ。だが、このまま野放しにはしない。ヤツは俺の城を盗り、俺の領民を無残に殺し、俺の大事な女を掠い、暴力をふるった。必ず捕まえてヨハネス自身の命であがなわせてやる」
爛々と燃える目で、川霧に消えた小舟を凝視している。群れを率いる狼は、群れを襲った敵に容赦はしない。オスヴォルトは必ずヨハネスを追いつめ、喉を食い破る。その未来を嗅ぐことができる。なまぐさい血の臭いとともに。
「......ヨハネスが俺を憎んでいることは知っていた。俺の留守をねらって、牙をむく恐れがあることも。だが、俺は――脅威をとりのぞこうとはしなかった。俺の甘さが招いたんだ。カーライン、すまない」
――壊れてしまった硝子細工の小鳥みたいに拾い上げて、オスヴォルトは自分が悪かったんだと嘆いてる。そう、たしかにわたしは壊れている。腱を切られた右足は元通りにならないだろう。杖をつきながら足をひきずって歩くようになる。でも、それよりも、オスヴォルトがわたしの壊れた足ゆえに負い目を背負って、贖罪のために側にいようとする方が耐えられない。どのような困難が降りかかろうとも彼となら共に肩をならべて戦えると信じられた。彼に惹かれている気持ちに正直になろうと思っていたのだ。それなのに!
「――間違えないで。十二人の娘を殺したのはあなたじゃない。わたしの足を壊したのは、あなたじゃない。やったのはヨハネスよ。憎まれていたことを知っていても、反逆を胸に秘めていることに気づいていたとしても、幽閉同然に暮らしていた弟をあなたは殺すことはできない。また、あなたの父親がしたように、塔に閉じ込めておくこともできない。あなたはヨハネスに情けをかけた。そんなあなたの顔に唾を吐いて、『僕は悪くない、悪いのは兄上だ、母上だ、父上だ、僕を蔑視した奴らみんなだ!』なんて、いい歳した大人が甘ったれた砂糖漬けの虫歯だらけの幼児みたいに叫んで、悪逆非道をつくしたのよ! 救いようのない馬鹿な弟をもったあなたには同情するわ。わたしだったら、灼熱の太陽の下、素っ裸にして蜂蜜をぬりたくって塔の外壁に張り付けてジリジリ焼いているところよ!」
烈火の勢いでまくしたてられ、オスヴォルトは目をみはっていたが、最後のくだりで、吹きだした。
「さすがは俺が惚れた女だ」
――棘をぬいた薔薇を贈ってくれたときのまま気持ちは変わっていないの? と訊きたかったけれど、かわりに口から出たのは強気な声。
「決闘の約束、おぼえてるでしょうね」
「ああ。忘れるわけがない。今度こそ、きみの心を奪うつもりでいたんだからな」
そこで、すでに奪われているとは口に出せない自分はやはり素直じゃない。溜息をつく。
「......わたしはもう剣で闘うことはできない。あなたの足手まといにしかならないわ。......わたしは、この壊れた足であなたを縛りたくないの」
涙ぐみそうになって、ぎゅっと唇を噛む。
「おいおい、勝手に俺の気持ちを決めつけるなよ。だいたいなぁ、闘う手段は剣だけじゃないだろう。きみの言葉は剣よりも強い。自己嫌悪におちいりかけていた俺をひっぱたいて目を覚ましてくれたのはカーライン、きみだ」
その力強い声は、よどんだ泥に沈んでいこうとした心をすくいあげる。
「足が不自由になっても、歳を取って皺まみれの婆さんになっても、俺はかわらず、カーライン、きみを愛する。なぜなら、俺が惚れたのは、苦境のなかでこそ、誇り高く咲こうとする薔薇の精神の持ち主だからだ」
真摯な声に、素直になれずに突っ張ってしまう頑なさが頬をつたう涙とともに雪解けのように溶けていく。
生えかけの髭でちくちくする頬に接吻する。
「――これがわたしの気持ちよ」
顔から火が出そうなほど恥ずかしくて、まともにオスヴォルトの顔を見られない。剣士の硬い指がやさしく顎に触れる。伏せていた睫毛が震え、熱い吐息がかかる。羽根でふわりと撫でられたような接吻が、何度も触れあう度に激しくなる。火となって燃え上がり、水に溶けるようにひとつになる。
小鳥が冬の朝のように澄み切った声で鳴いている。天の高みへと昇る歓びにふるえて。
茜色の雲から太陽が顔をだし、雪原を乱舞する光の園にかえる。
それは結ばれたふたりを祝福するように輝いていた。