幕間(4) 荒ぶる亡霊たちの夜
雷鳴がとどろき、稲光が漆黒の夜空を切り裂いた。
吹き荒れる風は狼の咆哮。
森は身をよじり哄笑をあげる。
異界と現世が交じり合う時が来た。救世主の生誕を祝う聖なる時であり、古き神々に妖精に幽霊、異界のものたちが浮かれ騒ぐ魔の時でもある「十二夜」が。
今宵の森に足を踏み入れてはならない。
宙を稲妻となって駆け巡る亡者の戦士たちと遭遇して、獲物として駆り立てられたくないのならば、決して。
冷たい亡者たちは、熱い血に飢えているのだから。
そんな魔物が跳梁する夜にひとり森を行く者があった。
闇に溶ける外套は鴉の翼がはためくよう。月も星も沈黙する嵐の夜、足下を照らす灯火も持たず、それなのに枝にさえぎられることも雪に足をとられることもない。黒豹が人間の姿をとったような優美さで音すらたてずに疾駆する。もし見るものがいれば、突風とともに影が過ぎったとしか見えないだろう。
夜気をつんざく轟音。
吠えたける猟犬、遠吠えのごとき角笛の音、甲高い馬のいななき、熱狂をはらんだ雄叫び。万雷が一度に落ちたような騒音を立ててやってくる。宙を駆ける馬にまたがった、蒼白い燐光を帯びた亡霊たちが。
この世のものではない騎馬に取り囲まれた人間は恐怖のあまり腰をぬかすのが普通だ。だが、十二夜に森をよぎる命知らずは恐れるそぶりをみせない。深々とかぶった頭巾のせいで表情はわからなくても、彼らは無視されていると感じた。人間が恐怖するときに流す酸っぱい汗の臭いがしないのだ。匂い立つのは、爛熟した果実の甘い香りに虫が誘き寄せられるように陶然となる芳香。
「こいつからは生きている人間の臭いがしないぞ」
「だが、死人でもない。動いているからな」
「ハッ! 心臓の音が聞こえないのにか。それで生きているとは言えまい」
「生者でもなく死者でもないのなら、こいつはいったい何者だ?」
亡霊たちは頭巾で隠れた顔を鬼火が燃える眼窩で覗きこみながら、風が唸るように口々に叫んでいく。
天地が震えた。落雷を思わせる蹄の音を合図に騎馬の群れが二つに分かれ、稲妻の蒼白き炎をまとった馬が躍り出た。
八つの蹄もつ天馬の名はスレイプニル。荒ぶる狩人を率いる古き神々の首領を乗せて天翔る馬は、前脚を高々とあげていななく。
蹴り殺されそうになっても悲鳴ひとつあげない旅人を馬上から見下ろす、霜降る蓬髪にのぞく炯炯とした隻眼。叡智を宿すミーミルの泉を飲んで千里眼を手に入れ、引き替えに片目を失った。空ろの眼窩は底知れぬ闇、無数の星々が渦巻く宇宙だった。
鼻にしわを寄せて臭いを嗅ぐと、鋭い犬歯をみせて獰猛に笑った。
「おまえから血の臭いがする。剣の嵐が吹き荒れる音が断末魔の悲鳴が聞こえる。見渡す限り死体で埋め尽くされているのが視える。脂でぎらつく血の海に仰向けに倒れ、翡翠の硝子玉になった瞳に舞い降りてくる白鳥を映している。それがおまえの最期だった」
狼が咆哮する。鴉が嗄れた声でわめく。狼にも鴉にもなれる神は、獣の歯をむきだしにして嗤う。
「おまえから血の臭いがする。剣の嵐が吹き荒れる音が断末魔の悲鳴が聞こえる。見渡す限り死体で埋め尽くされているのが視える。脂でぎらつく血の海に立っているのは一人だけ、生命の熱いほとばしりを浴びて笑っているのはおまえだけだった」
落雷の轟音があたりを圧し、稲妻が闇を漂白する。
「わしはユグドラシルの樹で首を吊り、槍に突き刺されたまま九日九夜、我が身を生贄としておのれ自身に捧げ、世界を構成する九の二乗のルーンを見出した。死者でありながら地上を歩く者よ。おまえはルーンを――」
どう彫るか、知っているか。
どう解くか、知っているか。
どう描くか、知っているか。
どう試すか、知っているか。
どう祈るか、知っているか。
どう殺すか、知っているか。
どう供えるか、知っているか。
どう生贄を捧げるか、知っているか。
わしはすべてを知っている。
黄泉路をたどっていたわしは黄昏の荒野で十八の呪歌を歌った。止まっていた心臓がドクンと跳ね、硬直した体が海老のように仰け反った。縛っていた縄が切れて真っ逆さまに落ちていきながら、わしは笑った。
死を生へと裏返すことができるのは、十八番目のルーンを知る者だけ。
この秘められた最後のルーンを知るものはわしひとり。
だが、おまえは呼吸も心臓も止まったままで、黄泉から戻ってきた。
いかにして、生ける死者となってよみがえったのか。答えよ!」
その叫びは吹きすさぶ風となって頭巾をあおり、隠れていた顔をあらわにする。
雲から冴え冴えとした月があらわれたようだった。
幽かな笑みをたたえた唇から背筋が震えるほどに麗しい声がこぼれる。
「黄泉路まで私を追ってきてくれた愛しきひとの一筋の髪が、夜明けの空のように輝く梯子となってあの世とこの世を結びつけ、私をこの地上に戻してくれたのです」
隻眼の神は、翡翠色の透き通った眼の中を覗き込んで、愉快そうに唇を歪ませた。
「なるほど。恋人の想いがおまえをよみがえらせたか。しかし、それだけではあるまい。ルーンを知った者が手助けしたはずだ」
甲走る笑い声が剣戟のように鳴り響いた。
「ヴァルハラの主人よ、手助けしたのはこの私」
嵐の空を走る雷雲の馬にまたがり、白鳥の翼のごとき羽衣をまとった乙女が白銀の髪を流星のごとくなびかせ、乗り込んできた。
「運命の織り手スクルドよ。そなたの仕業か」
ヴァルハラの主人の声に苦味がまじる。なぜなら、死と魔術を司る神でも運命の女神が織り上げる定めからは逃れられないからだ。
運命の女神は、微笑んだ。
「アルベルト、我が息子よ。まだ正気は保っているようね」
彼はそれには答えず、母親に影のように従っている、気むずかしい顔をした壮年の男を感情のこもらぬ目で一瞥した。
愛しいひとと同じ赤銅色の髪と猛禽のような琥珀色の瞳。この男の血が彼にも流れていた。
「我が領土に足を踏み入れてはならん! 生ける死人となったおまえは災いをもたらす呪われた存在、我が娘の前に現れるのは許さんぞ!」
死んでも傲慢な性格は変わらないらしい。彼は、うっすらと笑った。
「そうだ、私は血に飢えた生ける死者。あなたの大事な領地に禍々しい闇を持ち込む者。だからこそ、私はカーライン様の前にこの姿をさらしたりはしない。私は影に潜み、カーライン様を守る。そのためだけに戻ってきたのだから」
「面白い」
隻眼の老爺は呵呵と笑うと、アルベルトの眼を覗き込んだ。
「おまえは摂理に反して存在する者。おまえがいるだけで現世に異界の闇が浸食し、影から影へ魔物は嘲ら笑いながら災いをふりまき、牛の乳は止まり、木々も花々も枯れ、大地は実りから見放されるだろう。なぜならおまえは生あるものの精気を吸い取るからだ。おまえこそが災いをもたらす者でありながら、愛しい女を守るというのか」
狼のように舌なめずりすると。
「――この者が愛しい女を守れるかどうか、皆の者どちらに賭ける?」
亡霊戦士たちの喚声が、どっと沸いた。
にやりと笑いかけ、八本足の天馬の腹を蹴る。轟と旋風がおこった後には、隻眼の神の姿は消えていた。
「困った囁れものね。なんでも賭け事にしてしまうのだから」
彼女は運命の織り手。稲妻のように蒼白く燃える瞳にはすでに運命の模様が視えているだろう。だが、告げたのは――
「私はあなたを信じているわ」
女神ではなく母親らしい一言だった。
「――娘を頼むぞ」
母の後ろにまたがっていた男は幽霊の虚ろな声で唸った。この男なりに娘のことは心配しているらしい。
彼らを乗せた真珠色の馬は霜をふりまく雲と化して宙を翔る。その後を幽霊騎馬の奔流が押し寄せ、けたたましい喚声が吹き荒れた。
嵐を引き連れ、荒ぶる亡霊たちが通り過ぎた後。
小鳥がいっせいに夜明けの歌をさえずりはじめ、梢から射し込む曙光が白く塗りつぶされた世界を照らし出したが、十二夜の亡霊たちがいたことを示すものは何ひとつ残っていなかった。ただ雪の白が目に痛いほどまばゆいばかり。
「十二夜」の夜になると、古い神々に捧げられた血が染みこんだ大地は夢を見る。忘れられた神々の影がよみがえる。
だがそれも目覚めれば薄れていくうたかたの夢。