ホーム永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌幕間(5) 墓標の薔薇
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幕間(5) 墓標の薔薇

 修道院内の施療所は昼でも薄暗い。
 エルザの弟マルティンは寝台に横たわっていた。胸に巻かれた包帯に血がにじんでいる。血の気の少ない顔は青白い。そばかすが散った顔に生意気な表情を浮かべていつものように憎まれ口を叩いてほしかった。まぶたを閉じたままだと死体と対面しているみたいで嫌だった。
 四日前のことを思い出すと今でも心臓が冷たい手で握られたようになる。 
 日が暮れ、雪が降りだしてもエルザが侍女として仕えているサイン女伯は戻ってこなかった。従者として常に付き従っているマルティンも。サイン伯家ゆかりの修道院に出かけた彼らを暴漢が襲い、女主人は連れ去られ、弟は傷を負い倒れた――その知らせを聞いた時は生きた心地がしなかった。
 血相を変えて駆けつけた彼女に「口を開けば悪魔も裸足で逃げだすほど元気ですよ。熱が下がり次第、早急に連れて帰ってください」と疲れた顔で修道士が請け合ってくれるまでは。口の悪い弟のことだ、きっと真面目な修道士たちを困らせているのだろう。
「......あんたって子は、血が減っても口は減らないんだから」
 すやすやと眠っているマルティンを見ていると涙がまたこみあげてきてしまう。
 その流した涙を顔で受けとめた弟はというと、眉間に皺を寄せて文句を言った。
「冷てーな。よだれ、落とすなよ」
「よだれじゃないわよ! 優しい姉ちゃんがあんたを心配して流してる涙なんだからね!!」
「ふーん。それより腹減った。滋養に良いスープだけじゃ減った血が戻らねぇよ。今のオレに必要なのは血がしたたる肉だー! ってことで姉ちゃん、肉料理持ってきて」
「まったくもう」
 呆れた声で言いながらも持ってきた籠から肉汁したたる鹿肉の串焼きをとりだした。他にも子牛すね肉のゼリー寄せ、まだ熱がほんのり残っているミートパイと林檎と洋梨のタルトを一切れずつ、ベーコンとチーズをはさんだ白パンなどを木皿にのせて、よだれをたらさんばかりの弟に差し出す。聖誕祭から十二日間つづく饗宴の日々を寝台で過ごすはめになった弟のために宴の準備で戦場となっている城の台所から持ち出してきたのだ。
「おお!! さすが姉ちゃん!」
 現金にも満面の笑みを浮かべて皿を奪い取ると飢えた犬のようにがつがつと食べ出した。
「そんなにがっつかないの! 喉につまったらどうすんのよ!」
 頬をはちきれんばかりにして食べている姿に頬袋をいっぱいにしたリスが重なって微笑ましく思いながらも姉としてはつい小言を言わずにはいられないのだった。看護してくれた修道士から傷口は膿むことなく熱も下がり順調に回復していると聞いたものの、まだ本調子ではないのだから。でもこれだけ食べられるということは元気になった証拠なのだろう。
 怒濤の勢いで食べ終えたマルティンは空になった木皿を睨みつけていたが、唇をぎゅっと噛みしめて彼女を見上げた。
「......カーライン様が助け出されたってことは昨日姉ちゃんから聞いたけど......その、傷を負われたりしてないのか。......カーライン様の身に何かあったらオレ」
 毛布を握りしめる手が震えている。食い気に走ってみせたのは、訊ねるのが怖かったせいなのだろう。実の姉に対しては生意気だし意地悪だし言うことを聞かないし憎たらしいことこの上ないのだが、気高く美しい姫君に対しては素直だし献身的だし言うことをよく聞いて忠犬のように慕っていた。その主君を守れなかったことで自責の念に駆られているマルティンの姿を見てエルザの胸は痛んだ。
「多勢に無勢だったんだから、たとえ剣の腕が立つ騎士様だって守りきれなかったよ。あんたはたった一人で体張って守ろうとしたんだ。お姉ちゃんはあんたを誇りに思うよ。カーライン様もそう仰って下さるに違いない。あんたは最善を尽くしたんだから、いつまでも引きずってくよくよしちゃ駄目だよ!」
 マルティンは赤くなった顔をしかめて。
「......ったく。そんなこと聞いてないだろう。......まぁその、いろいろ感謝してるけどさ」
 照れくさそうに感謝の言葉を早口で付け足した。
 エルザは肩をすくめた。素直になられるとこちらも照れてしまう。
 すでに昨日、事のてんまつは簡単に説明していたが、まだ熱が引いていない弟の負担になることを恐れて口に出せなかったことがあった。だが、こうして聞かれた以上は答えなければいけない。深々と息を吐いた。
「昨日は言い出せなかったんだけど、実はカーライン様は片足に傷を負って、ドラッヘンフェルス城で療養中なのよ」
 マルティンの顔がこわばる。
「――傷は深いのか?」
 エルザは一瞬、答えに詰まった。使者から伝え聞いただけで、怪我の程度について詳しいことを知らないのは弟と一緒だったのだ。それでも強いて明るい声を出した。
「ドラッヘンフェルス城伯がアラブ人の医者をカーライン様に付けてくださってるの。ほら、あちらの方が医術が進んでいると評判でしょ。だから大丈夫よ、きっと。良くなられるわ!」
「ああ、そうだよな。アラブ人の医者ならなんとかしてくれるよな」
 そう言って自分を納得させようとしているマルティンにエルザも力強く頷き返す。
 深刻な空気を吹き飛ばすべく、エルザは話題を変えることにした。前から気になっていたことがあったのだ。
「ねぇねぇ、それはそうと。ドラッヘンフェルス城伯のオスヴォルト様って美男子なの?」
「......はぁ?」
 突然なに言い出すんだコイツという顔で見られたエルザはひらひら手を振って。
「あ、やっぱりいいわ。あんたに聞いても素直に答えてくれるわけないし。姫君を助けだした騎士なんだから男前に決まってるわよね! そうじゃなきゃ絵にならないもの」
「......わけわかんぇ、なんだよその理屈は......」
 エルザは弟の呆れた声をどこ吹く風に聞き流し、手を胸の前で組んでうっとりと吐息をついた。
「たった一晩で城を攻めてカーライン様を助け出したなんて知略と武勇に優れた騎士さまなのねぇ。きっと宮廷歌人ミンネゼンガーがこのことを高らかにロマンスとして歌い上げるに違いないわ!」
 マルティンは半眼になってエルザを見た。
「なに勝手にくっつけてるんだよ。あの男は一度、振られてんだからな。......カーライン様の想い人は今でも騎士の華だったあの人だけなんだ」
 それは自分自身に言い聞かせてるようにみえた。
 騎士が貴婦人に抱く決して報われないからこその高潔なミンネをマルティンが美しい年上の姫君に抱いていることにエルザは気付いていた。そんな弟に告げていいものかどうか。症状が悪化したら困ると思って黙っていたのだが、ここではっきりさせておいた方がいいだろう。どうせすぐに知られてしまうことだ。
「カーライン様が他の殿方に惹かれることをあんたは認めたくないんだろうけど。愛するかどうかはカーライン様がお決めになることよ――もうすでにドラッヘンフェルス城伯からの求婚をお受けになって、司祭さま立ち会いのもとで婚約が結ばれたわ」
「――なっんだってぇ! いつどこでどうしてなんで、こ、婚約なんか!!」
 悲鳴のような声を出して身を乗り出したマルティンは、胸を押さえて呻いた。急に激しく動いたせいで傷に響いたのだろう。それを哀れに思いながらも容赦なく傷口に塩を塗っていくエルザだった。
「そりゃあ、惚れちゃうでしょ。話を聞くだけでも、めちゃくちゃいい男だもん。遠征から帰ってきてからもカーライン様がオスヴォルト様のことを気に掛けていたのをあたしは知ってるし。今回のことがきっかけになってやっと素直になられたのねぇ。そういうわけで、オスヴォルト様はカーライン様を助け出してドラッヘンフェルス城に帰還するや否や司祭のもとに駆け込んだのよ。情熱的だわ〜」
「足に怪我してたんだろ、カーライン様は。それなのに! あんの野郎〜、よくもそんなことが......」
 マルティンは苦悶のあまり体を激しくうねらせたせいで、痛みに息も絶え絶えになっている。
 エルザは呆れ顔で頭を振りながら、きっぱりと締めくくることにした。
「カーライン様は怪我のせいで熱を出して寝込んでいらっしゃるので、ご婚礼はお元気になられてからになるわ。あんたもそれまでには元気になっておくのよ!」
 魂が抜けたようになっている弟を残して、エルザは施療所を後にした。


 日没の祈りを告げる鐘がいんいんと響いている。
 半円形のアーチから薄暮の陽射しがあふれ、列柱の影が石畳に長くのびていた。礼拝堂に集まった修道士たちの厳かな賛美歌がこだましている回廊を足早にエルザは渡っていく。
 マルティンには割り切ったことを言ったものの、主人の想い人であった彼のことを思えば複雑な気分になるのだ。
 彼はエルザにとっても憧れの騎士だった。あまりにも美しすぎてこの世のものとは思えなかった。なぜなら現実の男は美しくなんかないからだ。熊みたいに大きくてもじゃもじゃで体臭がきつくて酒に酔っては野太い声でがなり立てすぐに腕力にうったえる乱暴者、なにより女を品定めする時のあの目のいやらしさといったら! だが、彼は違った。乙女が夢見る騎士そのものだった。
 城にあがってからお仕えしてきた姫君もまた、太陽のように光り輝いていた。二人がよりそう姿は手の届かない太陽と月を地上から見上げて溜息をつくようなものだ。まぶたに光の残像が焼きつくように忘れられない光景がある。初夏の陽光があふれ、蜂の羽音が眠気を誘う昼下がり、甘い香りに惹かれて蝶が薔薇から薔薇へと舞い、蔓薔薇に彩られたベンチに夜明け色の髪の姫君がたおやかに横臥して、切ない恋の歌に聞き入っている。リュートを爪弾きながら歌う騎士の銀の声にさそわれて、瑠璃色の小鳥が彼の肩に舞いおりる。小鳥だけでなく鴉も鳩も家鴨も鶏も、城中の鳥たちが彼の歌を聞こうと集まってくる。その魔法にかけられた瞬間に居合わせたエルザは、この目に焼きついた美をタペストリーに織り上げて永遠にとどめておきたいと痛切に願った。
 だが、魔法の歌声をもつ美しいひとはこの世から去ってしまった。
 物思いにふけっていたエルザは潮騒のような葉擦れの音で我に返った。木々を何本も寄り合わせたようなイチイの大木を見上げる。修道院内のどの建物よりも高く茂っているそのイチイは修道院が建立される前からこの地を見守ってきた。暗緑色の梢は墓地を天蓋のように覆い、風に揺さぶられて激しく波打っている。
 イチイの向こう側、亡くなった修道士たちが眠る苔むした石の墓標から離れたところに彼の墓はある。
 そこへ向かっていた足が止まった。
 真新しい石の墓標は黄昏の輝きのなか忍びよる薄闇に滲み、積もった雪はイチイの長大な樹影に蒼く沈んでいる。その影の中で外套が鴉の黒い翼のようにはためいている。月の光で紡がれたような髪が落日の燃える矢をうけてまばゆく輝く。
 心臓が止まりそうになった。
 ――あの方の髪も月の光のようだったわ。でもまさか、アルベルト様のはずがない。
 目をこすった。そしてもう一度見たときには、誰もいなかった。瞬きする間に人が消えるわけがない。やはり幻だったのだ。黄昏時には影に自分が見たいものを重ねてしまうことはよくあることだから。
 目の錯覚だった証拠に雪には足跡ひとつ残っていない。ふわふわの新雪を踏みしめながら、墓標の前に立った。
 石の墓標を覆っている蔓薔薇に目が吸い寄せられる。
 雪化粧された枝に一輪だけ血が滲むように咲いていた。この薔薇はもう枯れることはない。凍りついた花びらは、触れれば脆くも崩れてしまうとしても――
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永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌作者:松木響子
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 修道院内の施療所は昼でも薄暗い。
 エルザの弟マルティンは寝台に横たわっていた。胸に巻かれた包帯に血がにじんでいる。血の気の少ない顔は青白い。そばかすが散った顔に生意気な表情を浮かべていつものように憎まれ口を叩いてほしかった。まぶたを閉じたままだと死体と対面しているみたいで嫌だった。
 四日前のことを思い出すと今でも心臓が冷たい手で握られたようになる。 
 日が暮れ、雪が降りだしてもエルザが侍女として仕えているサイン女伯は戻ってこなかった。従者として常に付き従っているマルティンも。サイン伯家ゆかりの修道院に出かけた彼らを暴漢が襲い、女主人は連れ去られ、弟は傷を負い倒れた――その知らせを聞いた時は生きた心地がしなかった。
 血相を変えて駆けつけた彼女に「口を開けば悪魔も裸足で逃げだすほど元気ですよ。熱が下がり次第、早急に連れて帰ってください」と疲れた顔で修道士が請け合ってくれるまでは。口の悪い弟のことだ、きっと真面目な修道士たちを困らせているのだろう。
「......あんたって子は、血が減っても口は減らないんだから」
 すやすやと眠っているマルティンを見ていると涙がまたこみあげてきてしまう。
 その流した涙を顔で受けとめた弟はというと、眉間に皺を寄せて文句を言った。
「冷てーな。よだれ、落とすなよ」
「よだれじゃないわよ! 優しい姉ちゃんがあんたを心配して流してる涙なんだからね!!」
「ふーん。それより腹減った。滋養に良いスープだけじゃ減った血が戻らねぇよ。今のオレに必要なのは血がしたたる肉だー! ってことで姉ちゃん、肉料理持ってきて」
「まったくもう」
 呆れた声で言いながらも持ってきた籠から肉汁したたる鹿肉の串焼きをとりだした。他にも子牛すね肉のゼリー寄せ、まだ熱がほんのり残っているミートパイと林檎と洋梨のタルトを一切れずつ、ベーコンとチーズをはさんだ白パンなどを木皿にのせて、よだれをたらさんばかりの弟に差し出す。聖誕祭から十二日間つづく饗宴の日々を寝台で過ごすはめになった弟のために宴の準備で戦場となっている城の台所から持ち出してきたのだ。
「おお!! さすが姉ちゃん!」
 現金にも満面の笑みを浮かべて皿を奪い取ると飢えた犬のようにがつがつと食べ出した。
「そんなにがっつかないの! 喉につまったらどうすんのよ!」
 頬をはちきれんばかりにして食べている姿に頬袋をいっぱいにしたリスが重なって微笑ましく思いながらも姉としてはつい小言を言わずにはいられないのだった。看護してくれた修道士から傷口は膿むことなく熱も下がり順調に回復していると聞いたものの、まだ本調子ではないのだから。でもこれだけ食べられるということは元気になった証拠なのだろう。
 怒濤の勢いで食べ終えたマルティンは空になった木皿を睨みつけていたが、唇をぎゅっと噛みしめて彼女を見上げた。
「......カーライン様が助け出されたってことは昨日姉ちゃんから聞いたけど......その、傷を負われたりしてないのか。......カーライン様の身に何かあったらオレ」
 毛布を握りしめる手が震えている。食い気に走ってみせたのは、訊ねるのが怖かったせいなのだろう。実の姉に対しては生意気だし意地悪だし言うことを聞かないし憎たらしいことこの上ないのだが、気高く美しい姫君に対しては素直だし献身的だし言うことをよく聞いて忠犬のように慕っていた。その主君を守れなかったことで自責の念に駆られているマルティンの姿を見てエルザの胸は痛んだ。
「多勢に無勢だったんだから、たとえ剣の腕が立つ騎士様だって守りきれなかったよ。あんたはたった一人で体張って守ろうとしたんだ。お姉ちゃんはあんたを誇りに思うよ。カーライン様もそう仰って下さるに違いない。あんたは最善を尽くしたんだから、いつまでも引きずってくよくよしちゃ駄目だよ!」
 マルティンは赤くなった顔をしかめて。
「......ったく。そんなこと聞いてないだろう。......まぁその、いろいろ感謝してるけどさ」
 照れくさそうに感謝の言葉を早口で付け足した。
 エルザは肩をすくめた。素直になられるとこちらも照れてしまう。
 すでに昨日、事のてんまつは簡単に説明していたが、まだ熱が引いていない弟の負担になることを恐れて口に出せなかったことがあった。だが、こうして聞かれた以上は答えなければいけない。深々と息を吐いた。
「昨日は言い出せなかったんだけど、実はカーライン様は片足に傷を負って、ドラッヘンフェルス城で療養中なのよ」
 マルティンの顔がこわばる。
「――傷は深いのか?」
 エルザは一瞬、答えに詰まった。使者から伝え聞いただけで、怪我の程度について詳しいことを知らないのは弟と一緒だったのだ。それでも強いて明るい声を出した。
「ドラッヘンフェルス城伯がアラブ人の医者をカーライン様に付けてくださってるの。ほら、あちらの方が医術が進んでいると評判でしょ。だから大丈夫よ、きっと。良くなられるわ!」
「ああ、そうだよな。アラブ人の医者ならなんとかしてくれるよな」
 そう言って自分を納得させようとしているマルティンにエルザも力強く頷き返す。
 深刻な空気を吹き飛ばすべく、エルザは話題を変えることにした。前から気になっていたことがあったのだ。
「ねぇねぇ、それはそうと。ドラッヘンフェルス城伯のオスヴォルト様って美男子なの?」
「......はぁ?」
 突然なに言い出すんだコイツという顔で見られたエルザはひらひら手を振って。
「あ、やっぱりいいわ。あんたに聞いても素直に答えてくれるわけないし。姫君を助けだした騎士なんだから男前に決まってるわよね! そうじゃなきゃ絵にならないもの」
「......わけわかんぇ、なんだよその理屈は......」
 エルザは弟の呆れた声をどこ吹く風に聞き流し、手を胸の前で組んでうっとりと吐息をついた。
「たった一晩で城を攻めてカーライン様を助け出したなんて知略と武勇に優れた騎士さまなのねぇ。きっと宮廷歌人ミンネゼンガーがこのことを高らかにロマンスとして歌い上げるに違いないわ!」
 マルティンは半眼になってエルザを見た。
「なに勝手にくっつけてるんだよ。あの男は一度、振られてんだからな。......カーライン様の想い人は今でも騎士の華だったあの人だけなんだ」
 それは自分自身に言い聞かせてるようにみえた。
 騎士が貴婦人に抱く決して報われないからこその高潔なミンネをマルティンが美しい年上の姫君に抱いていることにエルザは気付いていた。そんな弟に告げていいものかどうか。症状が悪化したら困ると思って黙っていたのだが、ここではっきりさせておいた方がいいだろう。どうせすぐに知られてしまうことだ。
「カーライン様が他の殿方に惹かれることをあんたは認めたくないんだろうけど。愛するかどうかはカーライン様がお決めになることよ――もうすでにドラッヘンフェルス城伯からの求婚をお受けになって、司祭さま立ち会いのもとで婚約が結ばれたわ」
「――なっんだってぇ! いつどこでどうしてなんで、こ、婚約なんか!!」
 悲鳴のような声を出して身を乗り出したマルティンは、胸を押さえて呻いた。急に激しく動いたせいで傷に響いたのだろう。それを哀れに思いながらも容赦なく傷口に塩を塗っていくエルザだった。
「そりゃあ、惚れちゃうでしょ。話を聞くだけでも、めちゃくちゃいい男だもん。遠征から帰ってきてからもカーライン様がオスヴォルト様のことを気に掛けていたのをあたしは知ってるし。今回のことがきっかけになってやっと素直になられたのねぇ。そういうわけで、オスヴォルト様はカーライン様を助け出してドラッヘンフェルス城に帰還するや否や司祭のもとに駆け込んだのよ。情熱的だわ〜」
「足に怪我してたんだろ、カーライン様は。それなのに! あんの野郎〜、よくもそんなことが......」
 マルティンは苦悶のあまり体を激しくうねらせたせいで、痛みに息も絶え絶えになっている。
 エルザは呆れ顔で頭を振りながら、きっぱりと締めくくることにした。
「カーライン様は怪我のせいで熱を出して寝込んでいらっしゃるので、ご婚礼はお元気になられてからになるわ。あんたもそれまでには元気になっておくのよ!」
 魂が抜けたようになっている弟を残して、エルザは施療所を後にした。


 日没の祈りを告げる鐘がいんいんと響いている。
 半円形のアーチから薄暮の陽射しがあふれ、列柱の影が石畳に長くのびていた。礼拝堂に集まった修道士たちの厳かな賛美歌がこだましている回廊を足早にエルザは渡っていく。
 マルティンには割り切ったことを言ったものの、主人の想い人であった彼のことを思えば複雑な気分になるのだ。
 彼はエルザにとっても憧れの騎士だった。あまりにも美しすぎてこの世のものとは思えなかった。なぜなら現実の男は美しくなんかないからだ。熊みたいに大きくてもじゃもじゃで体臭がきつくて酒に酔っては野太い声でがなり立てすぐに腕力にうったえる乱暴者、なにより女を品定めする時のあの目のいやらしさといったら! だが、彼は違った。乙女が夢見る騎士そのものだった。
 城にあがってからお仕えしてきた姫君もまた、太陽のように光り輝いていた。二人がよりそう姿は手の届かない太陽と月を地上から見上げて溜息をつくようなものだ。まぶたに光の残像が焼きつくように忘れられない光景がある。初夏の陽光があふれ、蜂の羽音が眠気を誘う昼下がり、甘い香りに惹かれて蝶が薔薇から薔薇へと舞い、蔓薔薇に彩られたベンチに夜明け色の髪の姫君がたおやかに横臥して、切ない恋の歌に聞き入っている。リュートを爪弾きながら歌う騎士の銀の声にさそわれて、瑠璃色の小鳥が彼の肩に舞いおりる。小鳥だけでなく鴉も鳩も家鴨も鶏も、城中の鳥たちが彼の歌を聞こうと集まってくる。その魔法にかけられた瞬間に居合わせたエルザは、この目に焼きついた美をタペストリーに織り上げて永遠にとどめておきたいと痛切に願った。
 だが、魔法の歌声をもつ美しいひとはこの世から去ってしまった。
 物思いにふけっていたエルザは潮騒のような葉擦れの音で我に返った。木々を何本も寄り合わせたようなイチイの大木を見上げる。修道院内のどの建物よりも高く茂っているそのイチイは修道院が建立される前からこの地を見守ってきた。暗緑色の梢は墓地を天蓋のように覆い、風に揺さぶられて激しく波打っている。
 イチイの向こう側、亡くなった修道士たちが眠る苔むした石の墓標から離れたところに彼の墓はある。
 そこへ向かっていた足が止まった。
 真新しい石の墓標は黄昏の輝きのなか忍びよる薄闇に滲み、積もった雪はイチイの長大な樹影に蒼く沈んでいる。その影の中で外套が鴉の黒い翼のようにはためいている。月の光で紡がれたような髪が落日の燃える矢をうけてまばゆく輝く。
 心臓が止まりそうになった。
 ――あの方の髪も月の光のようだったわ。でもまさか、アルベルト様のはずがない。
 目をこすった。そしてもう一度見たときには、誰もいなかった。瞬きする間に人が消えるわけがない。やはり幻だったのだ。黄昏時には影に自分が見たいものを重ねてしまうことはよくあることだから。
 目の錯覚だった証拠に雪には足跡ひとつ残っていない。ふわふわの新雪を踏みしめながら、墓標の前に立った。
 石の墓標を覆っている蔓薔薇に目が吸い寄せられる。
 雪化粧された枝に一輪だけ血が滲むように咲いていた。この薔薇はもう枯れることはない。凍りついた花びらは、触れれば脆くも崩れてしまうとしても――
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