ホーム永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌竜の血脈08 ドラゴンと生贄の乙女
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竜の血脈08 ドラゴンと生贄の乙女

「――西城壁塔の地下室だと?」

 投降した兵からヨハネスの行方を聞き出したオスヴォルトは、眉をひそめた。
 勝ち目がないとみれば、ヨハネスが真っ先に逃げだすことは予想していた。

 正門をおさえられた以上、裏門しか逃げ道はない。サイン伯の守備隊長が出てきたところを捕まえようと裏門の前で待ちかまえているが、保身にたけたヨハネスのことだ。裏門から脱出すれば捕まることは予想していただろう。だからそこに向けて逃げなかったのは納得できた、とはいえ――

「何を考えているんですかね。地下室に逃げ込んでも袋の鼠じゃないですか」
 ユリウスの言うとおり、地下室に逃げ込んでどうするつもりなのか。
「......まさか、サイン女伯を人質にして立てこもっているなんてことはないですよね?」
 ユリウスが下がり気味の眉をさらに下げて言ったことは、当たって欲しくない最悪の予想だった。オスヴォルトは音が鳴るほど奥歯を噛みしめた。

「――いや、それはない。あいつはまだ彼女が俺の大切な存在であることを知らないからな。逃げるための切り札として使ってこないはずだ」

 そう言い聞かすことで胸に巣くう不安を抑えつけ、ヨハネスが逃げた方へ目をやった。
 崖を背にそびえる西城壁塔は、吼えたける風に吹かれ、陰鬱に黒ずんでいる。戦場で流された血を飲みこんだように、老婆の爛れていく歯茎のように、火炙りにされた魔女の肉のように。鎧戸に閉ざされた昼でも陽光が射しこまない寒々しい石の塔でヨハネスは母と一緒に暮らしていた――オスヴォルトの魂に影を落とす呪われた場所。
 それでも、子どもだったあの頃のように闇に怯えて逃げだすわけにはいかない。
 オスヴォルトは、兵を率いて西城壁塔に向かった。


 オスヴォルトが扉を開けた途端、まるで墓穴に入りこんだようによどんだ湿気が押しよせてきた。大量に流された血と腐爛した肉が放つ嘔吐をもよおす強烈な臭いとともに。
 窓はない。陽の光が一筋たりとも射しこまない常闇の地下室で迎えてくれたのは鼠だけ。松明に照らされると、まるまると太った灰色の毛皮の持ち主たちは、抗議の鳴き声をあげて暗がりに身を潜めてしまった。

 ヨハネスもこの闇のどこかで息をひそめているのだろうか。いや、複数の気配を完全に隠すことはできない。第一、あのカーラインが猿ぐつわをされていようが、おとなしくしているわけがないのだ。

 ――ヤツはすでに逃げた後だ。だが、どこに逃げたのか。

 松明を向けると、闇に沈んでいたひつぎが浮かびあがった。ずれた蓋から、金糸銀糸で織られたレース編みの袖が突き出ている。その指は白く尖った、骨。朽ちた花に埋もれた屍体には首が、ない。群がり蠢く、鬼火のように燃える赤い目。腐肉を囓るざわめき。

 跳ね上がった心臓が肋骨にぶつかる。全身から血の気が引き、冷汗がしたたりおちた。

 ――違う! カーラインではない。この死骸は腐敗が激しい、死後何日も経っているはずだ。

「この哀れな女は誰だ?」
 オスヴォルトは、地下室の見張りをしていた男に鋭く問うた。

「――こ、これは、裏切り者の弟君が村からさらってきた女たちのうちの一人です。あの男は、美しい女をさらってきては地下室に閉じこめて――」
 貧相な小男は見開いた目玉をきょろきょろと鼠のようにさまよわせていたが、オスヴォルトの眼光に怯むと哀願をはじめた。
「自分はやっていません。誓います! 女たちを殺したのは、あの男です。弟君です! 自分はただ見張っていただけで――」

 獰猛な獣のようにうなると、釈明を最後まで聞かずにオスヴォルトは歩き出す。ヨハネスは彼の領民を虐殺したのだ。烈しい怒りが胸を灼く。
 柩は一架だけではなかった。松明の炎がヨハネスの罪を暴いていく度に兵士たちのうめき声が響く。

 全部で十二架の柩が左右対称に並んでいるのを見て、ユリウスは今にも吐きそうな顔で言った。
「――なぜ、首を斬り落とした女に貴婦人の衣装を着せて、なんのために柩を地下室に並べているのか、まともな僕の頭では理解できないんですが」
「俺にもあいつの考えはわからん。わかりたいとも思わんがな」

 拷問の末に息絶えた囚人が枷でつながれていたり、地下牢に放置したまま白骨死体になっていたのなら、どこの城でも珍しい情景ではない。見ていて気持ちの良いものではないのは一緒だが、領土を維持するためには時に非情にならなければいけないからだ。しかし、なぜ首を斬り落とした屍体を着飾り、地下室に安置しなければならなかったのか。理解できないからこそ、気味が悪い。そこに狂気の臭いを嗅ぎとって。

 オスヴォルトは突き当たりの壁の前で、松明を高くかかげた。ゆらめく炎をうけて、影から色彩が浮き上がる。馬を駆る騎士の銀の甲冑がきらめき、槍に貫かれた漆黒のドラゴンがのたうっている。返り血で塗り込められたように赤い壁に、囚われの乙女は清らかに咲いた白い花だ。

 ドラッヘンフェルス家の始祖によるドラゴン退治の壁画がえがかれた壁はくぼんで、小部屋になっていた。
 壁龕の隅を松明の光輪が照らし出す。

 ユリウスは悲鳴を上げ、連れてきた兵士たちのなかには体を二つに折って嘔吐している者もいる。オスヴォルトの口からもうめき声がもれた。
 腐る前は美女だった生首が三つずつ四隅に積み上げられていた。捧げられた供物のように。
 だが祭壇に祭られているのは十字架にかけられた主の彫像ではなく、人間の頭を丸呑みできるほどの巨大な頭蓋骨。この地下室に充満している暗黒を発散している源のように黒ずんでいる。

 ――これは何だ?

 こみあげてくる吐き気に喉が焼けた。
 死体なら見慣れている。血の川に浸かって戦場から戦場へと渡ってきた。陥落した都市の阿鼻叫喚の悲劇を、人間が悪魔に変わる狂気の嵐を、この目に焼きつけてきた。だが、この地下室でおこなわれてきた惨劇は――

 十二人の女をむごたらしく殺したのは、双子の片割れだ。忌まわしい血が彼にも脈々と流れているのだ。

 脳天に一撃を食らったように濡れた石床に膝をついた。震えがとまらない手から松明が落ちる。炎は暗黒に呑まれた。彼の心も。

 ――ヨハネス、お前は悪魔に魂を売り渡したのか。俺を深淵に引きずり落とすために。得体の知れぬ動物の頭蓋骨を神として祭り、十二人の乙女を生贄として捧げたのか。

 憎まれていることは知っていた。放置すれば、枯れ野に火を放つことになるとわかっていた。彼の分身が、彼が唾棄する卑劣で残虐な行為に耽っていることを知る度に、殺意の黒い炎が蛇と化して胸をしめつけても。それでもヨハネスを殺すことは、できなかった。

 それは自分の姿を映した水面にむかって剣を振るうことだ。影を切り離そうとすることだ。
 妄執の糸を紡ぎつづけた蜘蛛女に支配されてきたせいで歪んでしまった弟への憐憫、母親の愛憎のくびきにつながれた弟を置いて一人だけ逃げてきたことへの負い目ゆえに。

 ヨハネスと向き合うことを避けてきた。

 その結果が、これだ。
 遠征に旅立つ前に、せめてヨハネスを幽閉しておくべきだった。彼の弱さが、ヨハネスの反逆を許し、十二人の娘の死を招いた。何よりカーラインが掠われることもなかったのだ。

 拳を地面に叩きつける。走った痛みより、みずみずしい唇が触れたような柔らかさに、握りしめていた指がゆるんだ。赤い花びらがひらりと舞いながら落ちていく。
 その深紅に燃える薔薇のひとひらは、彼の魂の暗がりに暁の光となってさしこんだ。
 これはカーラインが残してくれた、彼女へとつないでくれる糸だ。

「オスヴォルト様、あの......大丈夫ですか?」
 ユリウスの不安がにじんだ声に顔をあげる。
「ああ、もう大丈夫だ。俺は転んでもただでは起きない主義でな。手がかりをつかんだぞ。松明をくれ」

 従者から渡された松明で、ぬらぬらと粘るどす黒い石床を照らしだす。花びらは点々と血がこぼれるように祭壇にむかって落ちていた。
 最後の花びらは、祭壇前の祈祷台の下にはさまっていた。

 オスヴォルトはこの花びらも拾うと懐に大切にしのばせたが、火焔を吐くドラゴンが彫られた木目の美しい祈祷台に対しては優しくなかった。足で蹴りつけて退かすと、台があったところは案の定、大人が一人通れるぐらいの亀裂が走っていた。地獄が口をあけたような、松明の明かりも底を照らせない暗黒から獣の生臭い息を思わせる空気が顔を撫でていく。

「こんなところに秘密の地下道があったんですねぇ」
 近くにいた兵士に縄梯子を持ってくるよう命令していると、おそるおそる穴を覗きこんでいた従者が感心している。

「城主の俺も知らなかったよ。知っていたら、奇襲隊に便所の縦坑から侵入なんて可哀想なことはさせなかったんだがなぁ」
 見張り番をしていた小男が、遠慮がちに口をはさんできた。
「この地下室は、先代の城主も使っておられませんでした。開かずの間だったんです、弟君が鍵を開けるまでは」

 オスヴォルトは目を細めた。
「なるほどな。代々の城主は人目に触れさせたくない禁忌をここに隠していたわけだ。では、この悪魔崇拝の邪悪な祭壇はヨハネスが鍵を開けた時にはすでにあったのか?」

 男はうなずいた。

「蜘蛛の巣と埃にまみれた祭壇には、ご先祖様が倒されたドラゴンの頭蓋骨が祭られてました」

 ドラゴンかどうかは別にしても、怨念が染みついてそうな頭蓋骨ではある。
「ご先祖様も悪趣味なことだ。俺だったら、こんな陽の光が射しこまないじめじめとした地下室じゃなくて、日当たりのいい地上に葬ってやるがな」
「......本当にドラゴンの頭蓋骨なんでしょうか?」
「さてな。竜のドラツヘンフェルスというだけあって、ドラゴンの伝説が腐るほどあるところだ。本当にいたかもしれんぞ」
 こわごわと頭蓋骨を見ている従者にむかって、にやりと笑ってみせる。
「姿がみえなくなっても、ドラゴンが滅びたわけじゃない。悪がこの世からなくならないようにな」

 壁画を見上げた。騎士とドラゴン、光と影、善と悪。対立し、互いを喰らいあう彼ら双子の行き着く先を予言している、そんな思いにとらわれた。騎士の槍によって地面に縫いつけられた漆黒のドラゴンに双子の片割れの憎悪に歪んだ顔が重なる。

 ――この壁画の騎士のように俺は弟を殺すことができるだろうか。

 再び、暗い思念に沈みそうになったとき、兵士が縄梯子を持って、戻ってきた。
 彼は直ちに行動に移った。

 殺された娘たちを教会の墓地に埋葬するよう見張り番をしていた男に命じると、先頭に立って縄梯子を降りはじめる。黄泉に降った乙女を連れ戻そうとした神話の男たちと同じように。

 薔薇の花びらを残した、あかつき色の髪の乙女を求めて、地の底へ。
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永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌作者:松木響子
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「――西城壁塔の地下室だと?」

 投降した兵からヨハネスの行方を聞き出したオスヴォルトは、眉をひそめた。
 勝ち目がないとみれば、ヨハネスが真っ先に逃げだすことは予想していた。

 正門をおさえられた以上、裏門しか逃げ道はない。サイン伯の守備隊長が出てきたところを捕まえようと裏門の前で待ちかまえているが、保身にたけたヨハネスのことだ。裏門から脱出すれば捕まることは予想していただろう。だからそこに向けて逃げなかったのは納得できた、とはいえ――

「何を考えているんですかね。地下室に逃げ込んでも袋の鼠じゃないですか」
 ユリウスの言うとおり、地下室に逃げ込んでどうするつもりなのか。
「......まさか、サイン女伯を人質にして立てこもっているなんてことはないですよね?」
 ユリウスが下がり気味の眉をさらに下げて言ったことは、当たって欲しくない最悪の予想だった。オスヴォルトは音が鳴るほど奥歯を噛みしめた。

「――いや、それはない。あいつはまだ彼女が俺の大切な存在であることを知らないからな。逃げるための切り札として使ってこないはずだ」

 そう言い聞かすことで胸に巣くう不安を抑えつけ、ヨハネスが逃げた方へ目をやった。
 崖を背にそびえる西城壁塔は、吼えたける風に吹かれ、陰鬱に黒ずんでいる。戦場で流された血を飲みこんだように、老婆の爛れていく歯茎のように、火炙りにされた魔女の肉のように。鎧戸に閉ざされた昼でも陽光が射しこまない寒々しい石の塔でヨハネスは母と一緒に暮らしていた――オスヴォルトの魂に影を落とす呪われた場所。
 それでも、子どもだったあの頃のように闇に怯えて逃げだすわけにはいかない。
 オスヴォルトは、兵を率いて西城壁塔に向かった。


 オスヴォルトが扉を開けた途端、まるで墓穴に入りこんだようによどんだ湿気が押しよせてきた。大量に流された血と腐爛した肉が放つ嘔吐をもよおす強烈な臭いとともに。
 窓はない。陽の光が一筋たりとも射しこまない常闇の地下室で迎えてくれたのは鼠だけ。松明に照らされると、まるまると太った灰色の毛皮の持ち主たちは、抗議の鳴き声をあげて暗がりに身を潜めてしまった。

 ヨハネスもこの闇のどこかで息をひそめているのだろうか。いや、複数の気配を完全に隠すことはできない。第一、あのカーラインが猿ぐつわをされていようが、おとなしくしているわけがないのだ。

 ――ヤツはすでに逃げた後だ。だが、どこに逃げたのか。

 松明を向けると、闇に沈んでいたひつぎが浮かびあがった。ずれた蓋から、金糸銀糸で織られたレース編みの袖が突き出ている。その指は白く尖った、骨。朽ちた花に埋もれた屍体には首が、ない。群がり蠢く、鬼火のように燃える赤い目。腐肉を囓るざわめき。

 跳ね上がった心臓が肋骨にぶつかる。全身から血の気が引き、冷汗がしたたりおちた。

 ――違う! カーラインではない。この死骸は腐敗が激しい、死後何日も経っているはずだ。

「この哀れな女は誰だ?」
 オスヴォルトは、地下室の見張りをしていた男に鋭く問うた。

「――こ、これは、裏切り者の弟君が村からさらってきた女たちのうちの一人です。あの男は、美しい女をさらってきては地下室に閉じこめて――」
 貧相な小男は見開いた目玉をきょろきょろと鼠のようにさまよわせていたが、オスヴォルトの眼光に怯むと哀願をはじめた。
「自分はやっていません。誓います! 女たちを殺したのは、あの男です。弟君です! 自分はただ見張っていただけで――」

 獰猛な獣のようにうなると、釈明を最後まで聞かずにオスヴォルトは歩き出す。ヨハネスは彼の領民を虐殺したのだ。烈しい怒りが胸を灼く。
 柩は一架だけではなかった。松明の炎がヨハネスの罪を暴いていく度に兵士たちのうめき声が響く。

 全部で十二架の柩が左右対称に並んでいるのを見て、ユリウスは今にも吐きそうな顔で言った。
「――なぜ、首を斬り落とした女に貴婦人の衣装を着せて、なんのために柩を地下室に並べているのか、まともな僕の頭では理解できないんですが」
「俺にもあいつの考えはわからん。わかりたいとも思わんがな」

 拷問の末に息絶えた囚人が枷でつながれていたり、地下牢に放置したまま白骨死体になっていたのなら、どこの城でも珍しい情景ではない。見ていて気持ちの良いものではないのは一緒だが、領土を維持するためには時に非情にならなければいけないからだ。しかし、なぜ首を斬り落とした屍体を着飾り、地下室に安置しなければならなかったのか。理解できないからこそ、気味が悪い。そこに狂気の臭いを嗅ぎとって。

 オスヴォルトは突き当たりの壁の前で、松明を高くかかげた。ゆらめく炎をうけて、影から色彩が浮き上がる。馬を駆る騎士の銀の甲冑がきらめき、槍に貫かれた漆黒のドラゴンがのたうっている。返り血で塗り込められたように赤い壁に、囚われの乙女は清らかに咲いた白い花だ。

 ドラッヘンフェルス家の始祖によるドラゴン退治の壁画がえがかれた壁はくぼんで、小部屋になっていた。
 壁龕の隅を松明の光輪が照らし出す。

 ユリウスは悲鳴を上げ、連れてきた兵士たちのなかには体を二つに折って嘔吐している者もいる。オスヴォルトの口からもうめき声がもれた。
 腐る前は美女だった生首が三つずつ四隅に積み上げられていた。捧げられた供物のように。
 だが祭壇に祭られているのは十字架にかけられた主の彫像ではなく、人間の頭を丸呑みできるほどの巨大な頭蓋骨。この地下室に充満している暗黒を発散している源のように黒ずんでいる。

 ――これは何だ?

 こみあげてくる吐き気に喉が焼けた。
 死体なら見慣れている。血の川に浸かって戦場から戦場へと渡ってきた。陥落した都市の阿鼻叫喚の悲劇を、人間が悪魔に変わる狂気の嵐を、この目に焼きつけてきた。だが、この地下室でおこなわれてきた惨劇は――

 十二人の女をむごたらしく殺したのは、双子の片割れだ。忌まわしい血が彼にも脈々と流れているのだ。

 脳天に一撃を食らったように濡れた石床に膝をついた。震えがとまらない手から松明が落ちる。炎は暗黒に呑まれた。彼の心も。

 ――ヨハネス、お前は悪魔に魂を売り渡したのか。俺を深淵に引きずり落とすために。得体の知れぬ動物の頭蓋骨を神として祭り、十二人の乙女を生贄として捧げたのか。

 憎まれていることは知っていた。放置すれば、枯れ野に火を放つことになるとわかっていた。彼の分身が、彼が唾棄する卑劣で残虐な行為に耽っていることを知る度に、殺意の黒い炎が蛇と化して胸をしめつけても。それでもヨハネスを殺すことは、できなかった。

 それは自分の姿を映した水面にむかって剣を振るうことだ。影を切り離そうとすることだ。
 妄執の糸を紡ぎつづけた蜘蛛女に支配されてきたせいで歪んでしまった弟への憐憫、母親の愛憎のくびきにつながれた弟を置いて一人だけ逃げてきたことへの負い目ゆえに。

 ヨハネスと向き合うことを避けてきた。

 その結果が、これだ。
 遠征に旅立つ前に、せめてヨハネスを幽閉しておくべきだった。彼の弱さが、ヨハネスの反逆を許し、十二人の娘の死を招いた。何よりカーラインが掠われることもなかったのだ。

 拳を地面に叩きつける。走った痛みより、みずみずしい唇が触れたような柔らかさに、握りしめていた指がゆるんだ。赤い花びらがひらりと舞いながら落ちていく。
 その深紅に燃える薔薇のひとひらは、彼の魂の暗がりに暁の光となってさしこんだ。
 これはカーラインが残してくれた、彼女へとつないでくれる糸だ。

「オスヴォルト様、あの......大丈夫ですか?」
 ユリウスの不安がにじんだ声に顔をあげる。
「ああ、もう大丈夫だ。俺は転んでもただでは起きない主義でな。手がかりをつかんだぞ。松明をくれ」

 従者から渡された松明で、ぬらぬらと粘るどす黒い石床を照らしだす。花びらは点々と血がこぼれるように祭壇にむかって落ちていた。
 最後の花びらは、祭壇前の祈祷台の下にはさまっていた。

 オスヴォルトはこの花びらも拾うと懐に大切にしのばせたが、火焔を吐くドラゴンが彫られた木目の美しい祈祷台に対しては優しくなかった。足で蹴りつけて退かすと、台があったところは案の定、大人が一人通れるぐらいの亀裂が走っていた。地獄が口をあけたような、松明の明かりも底を照らせない暗黒から獣の生臭い息を思わせる空気が顔を撫でていく。

「こんなところに秘密の地下道があったんですねぇ」
 近くにいた兵士に縄梯子を持ってくるよう命令していると、おそるおそる穴を覗きこんでいた従者が感心している。

「城主の俺も知らなかったよ。知っていたら、奇襲隊に便所の縦坑から侵入なんて可哀想なことはさせなかったんだがなぁ」
 見張り番をしていた小男が、遠慮がちに口をはさんできた。
「この地下室は、先代の城主も使っておられませんでした。開かずの間だったんです、弟君が鍵を開けるまでは」

 オスヴォルトは目を細めた。
「なるほどな。代々の城主は人目に触れさせたくない禁忌をここに隠していたわけだ。では、この悪魔崇拝の邪悪な祭壇はヨハネスが鍵を開けた時にはすでにあったのか?」

 男はうなずいた。

「蜘蛛の巣と埃にまみれた祭壇には、ご先祖様が倒されたドラゴンの頭蓋骨が祭られてました」

 ドラゴンかどうかは別にしても、怨念が染みついてそうな頭蓋骨ではある。
「ご先祖様も悪趣味なことだ。俺だったら、こんな陽の光が射しこまないじめじめとした地下室じゃなくて、日当たりのいい地上に葬ってやるがな」
「......本当にドラゴンの頭蓋骨なんでしょうか?」
「さてな。竜のドラツヘンフェルスというだけあって、ドラゴンの伝説が腐るほどあるところだ。本当にいたかもしれんぞ」
 こわごわと頭蓋骨を見ている従者にむかって、にやりと笑ってみせる。
「姿がみえなくなっても、ドラゴンが滅びたわけじゃない。悪がこの世からなくならないようにな」

 壁画を見上げた。騎士とドラゴン、光と影、善と悪。対立し、互いを喰らいあう彼ら双子の行き着く先を予言している、そんな思いにとらわれた。騎士の槍によって地面に縫いつけられた漆黒のドラゴンに双子の片割れの憎悪に歪んだ顔が重なる。

 ――この壁画の騎士のように俺は弟を殺すことができるだろうか。

 再び、暗い思念に沈みそうになったとき、兵士が縄梯子を持って、戻ってきた。
 彼は直ちに行動に移った。

 殺された娘たちを教会の墓地に埋葬するよう見張り番をしていた男に命じると、先頭に立って縄梯子を降りはじめる。黄泉に降った乙女を連れ戻そうとした神話の男たちと同じように。

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