竜の血脈07 竜の血脈
彼らは同じ日に産まれた時から、光と影に分かれていた。
光がほとばしるように力強く産声をあげた長男につづいて生まれた――兄と比べてひとまわりも小さいその赤児は、息をしていなかった。死産だと思われ、捨てられそうになった我が子を半狂乱になった母が奪い返し、激しく揺さぶった。その拍子に羊水を吐きだした赤児は、やっと弱々しく産声をあげたのだった。母の胎内のなかで、すでに彼は兄に奪われていたのだ――健康に育つための血も肉も骨も、長男だけが受け取れる爵位も領地も、先に生まれてさえいれば、与えられるはずだったものすべてを。
歓声をあげて子犬と駆け回っている兄の姿を塔の窓から眺めていた子ども時代、よく熱を出して寝込んでいた彼のために、子守歌代わりに母が一族の伝説を物語ってくれた。
「ドラッヘンフェルス家の始祖はドラゴン退治の英雄だったのよ。でも、英雄はドラゴンの闇の血を浴びてから、ドラゴンのごとく黒く凶暴になって、悪魔に魂を売り渡してしまった――」
母は怖ろしげに身震いして云った。
「ヨハネス、あなたの父親もドラゴンなのよ。ドラッヘンフェルス家の男は、みんなそう。非自由騎士身分から、爵位を手に入れ一代でのしあがった一族は、領地を広げていくためなら手段を選ばないその非情さゆえにドラゴンの化身だと怖れられているの。だからヨハネス、あなたの体にもドラゴンの血が流れている。どうか、その黒き血が目覚めませんように」
父の生贄だった母の祈りに反して、病弱なこの体にもドラゴンの血が流れているのだと夢想するだけで、背中から這い上がってくる快感に甘く痺れた。
彼は熱にうなされて見る夢のなかでドラゴンになり、貪り喰らっている。それは妄執で締めつけてきた母ではなく、顧みなかった父でもなく、陽光のなかで笑っている兄だ。
オスヴォルトは太陽だった。兄がいる場所はいつも明るく、楽しそうな笑い声であふれていた。
彼は影だった。彼がいる場所はいつも暗く、穢れたものに触れたように笑い声は途絶えた。
心臓が焼き尽くされるほどの激しさで渇望した。爵位も領地も逞しい体も周りを引きつける魅力も何もかも、当然の顔で持っているオスヴォルトからすべてを奪い尽くすまで、この業火が消えることはない。彼が光の座に君臨し、オスヴォルトが影に堕ちるまで、この飢えが満たされることはない。
彼は虎視眈々と待った。血脈に流れるドラゴンの血が咆哮をあげる時を――
父と兄はともに十字軍に参加し、強健を誇っていた父は、遠征中に罹った熱病で命を落としたが、兄は生きて戻ってきた。しかし、亡くなった父の後を継ぐと落ち着く暇もなく、今度は皇帝のシチリア遠征に加わり、居城を留守にしたのだ。
狩りの開始を告げる角笛が鳴り響いた。さあ今こそ、地獄の業火で焼き尽くし、憎しみで研がれた爪で引き裂き、血に飢えた牙で噛みちぎってやろう。
まず彼がしたことは、次男に残された小さな荘園と母の遺産すべてを注ぎ込んで、ライン峡谷を荒らしている傭兵くずれの無法者たちを雇うことだった。
傭兵団の力を借りても、深い壕と高い城壁で守りを固めた城を攻め落とすのは難しい。
だが、城壁の内側に裏切り者がいれば容易に落ちる。腐った林檎のように。買収された門衛によって、城門は飢えた狼の群れである盗賊騎士たちを迎え入れるために開かれたのだった。
城を手中におさめた彼が次に狙ったのは、隣接するサイン伯領を継いだ美貌の女領主。
彼女と結婚して、さらに領地を拡げることができるはずだった。それがよりによって、結婚の誓いをたてようとしているその時に邪魔がはいるとは!
こんなはずではなかった。オスヴォルトが帰ってくるのが予定より早かったせいで、略奪に出かけた傭兵団が戻ってきていない。それでも翌日には、戻ってきた傭兵団と城内の兵でオスヴォルトを挟み撃ちにできるはずだった。城が一日も経たないうちに落ちなければ――
城門を突破された以上、ここまで攻め上がってくるのは時間の問題だ。糞尿地獄から這いあがってきた悪臭ふんぷんたる兵士たちを引き連れ、猛り狂うドラゴンのごとく突進してくるオスヴォルトの幻影に震え上がった。
幼かった頃、兄には尻尾を振るくせに彼には吼えまくる子犬をいたぶり殺したことがある。激怒したオスヴォルトに殴りかかられたそのときの恐怖がまざまざとよみがえった。あの筋骨隆々たる男に襲われたら今度こそ命はない。
「――うあああああ! 来るな――! 母上ぇ、助けて!!」
いつも凶暴な兄からかばってくれた母に助けを求めた。それなのに、心細さに震えている彼を腕のなかの花嫁は、暁の閃火のごとき瞳に侮蔑をにじませて見上げている。蔑視されるのは我慢ならない。瞳をえぐりとれば、美しき時をとじこめた琥珀玉になるだろう。うっとりと夢想に耽りそうになったが、飼い慣らすことのできない野性の獣を屈服させる愉悦を味わうだけの時間がない。
「おい! そこのおまえ、花嫁を運べ」
近くにいた傭兵に押しつける。ほっそりしていても剣よりも重いものをこれ以上抱き上げていられなかった。もちろん、手放すつもりはない。彼女と結婚すれば領地が手に入るのだから。
もとからの城兵は帰還を果たしたオスヴォルトの前に易々と屈するだろう。十人足らずの傭兵だけでは太刀打ちできない。今は逃げ延びることが先決だ。傭兵団と合流さえすれば、再びオスヴォルトを苦しめることができるのだから。
――そして、彼は率先して逃げだしたのだった。
まさか便所の縦坑を這い上がってくるとは想像もしていなかった。
ぬるぬるした壁に背を押しつけ、一歩一歩足場を確認しながら縦坑をのぼっていかねばならないのだ。いくら金銀財宝を山と積まれようとも、足を踏み外したら最後、肥溜めに溺れて死ぬ――そんな悲惨極まりない運命に耐えられようか。
しかし、現実に想像を絶することがおこっていた。糞まみれの奇襲隊が、蝿をお供に悪臭をふりまきながら、襲いかかってきたのである。外城門を守っていた兵はねっとりとした黄土色の怒濤に飲みこまれた。
二重に囲まれた城壁の外側、外城門が陥落した今、城の要である主塔を守る城壁は内城壁のみ。内城門に詰めた五人の兵だけで死守しなければならない。守備兵は全部で三十人。城はその十倍の兵でも持ちこたえることができる――そのはずだ。
寄せ手の騎馬隊は喚声をあげ、奇襲隊によって開かれた城門にむかって地響きをたてて突進してきた。馬車が一台通るのがやっとの狭い通路から出てきたところを矢で狙い撃ちにするべく、狭間に潜んでいる兵は、弓を引き絞った――その時。
暁闇を切り裂き、雷鳴の轟きとともに、城門から飛び出してきた。漆黒の矢と化した軍馬と一体になって。軍衣は黒煙のようになびき、胸には鮮血を浴びたがごときドラゴンが咆哮をあげている。それはまさしく、ドラッヘンフェルス家の紋章――彼らが守る城のまことの主人だった。
矢を放つことをためらう。
真っ先に射貫かれる先頭に身をさらしながら、城主である男は怖れる風もなく悠然と塔の狭間を見上げると、声を張り上げた。
「ハンス、カール、ヨハン、カイ、ペーター! くたびれて帰ってきた主人に矢を浴びせる歓迎は手荒すぎるぞ」
名前を呼ばれた兵たちは、思わず弓を降ろしていた。もとから低かった戦意が、水に溶けていくように薄れていく。城主の座を奪ってふんぞり返っているあの変態野郎は、彼らの名前を知ろうともしなかった。それどころか城内を徘徊している鼠に名前をつけるようなものだと思っているに違いない。
「兄弟喧嘩でお前達がとばっちりを喰うことはないぞ。同じ釜の飯を食った仲間同士で血を流したくはないんだ。武器を捨てて、俺に忠誠を誓うなら、反逆者の弟に従った罪は不問にする」
反逆の罪には問われない。それが彼らを縛っていた鎖をはずす決め手になった。互いに顔を見合わせる。
「......あの男のことだ、今頃はオレ達を見捨ててさっさと逃げだしているに違いないぜ」
「ああ、確実にな。逃げていなかったら胡椒たっぷりの葡萄酒を賭けるね。そんな男に義理立てなんてする必要はないよな」
そういうわけで、彼らは武器を捨て、名前を覚えてくれていた真の主人の前に跪いたのだった。