竜の血脈06 影
城は闇をしたがえ、ライン川を見下ろす山の頂に魔物のようにまがまがしくそびえたっている。
その背後は天然の防壁である切り立った崖だ。崖に面していない側は深く掘られた壕によって守られている。
城門塔に渡るための跳ね橋が引き上げられている今、壕に満ちた水が黒々と底知れず横たわって、城を包囲している軍勢を阻んでいた。
その軍勢は、騎士と従者、守備隊の衛兵、全部で百人あまり。どの顔も疲労の色が濃い。だが絶望の色はない。
彼らは忠誠を誓った主君を信じているのだ。
闇に向かって炎の咆哮をあげるドラゴンの紋章旗がひるがえる下、ひときわ大柄な軍馬に跨った偉丈夫は、軍旗と同じ夜の色をまといながら、ドラゴンの口腔からほとばしる火焔のごとく圧倒的な存在感を放っていた。
「主人が閉め出されている図というのは、はたから見たらさぞ笑えるだろうな」
狭間胸壁から飛んできた矢があめあられと地面に突き刺さっていくなか、城の主人である男は呑気なことを言っていた。矢が届かないぎりぎりのところまで馬を寄せて、ふてぶてしい笑みを浮かべてさえいる。この深刻な状況でも、この男の態度は変わらない。
後ろにひかえている従者の方は、弧を描いて迫り来る矢にびくびくしながらも、愚痴をこぼすのはやめなかった。
「戦場暮らしに疲れ切って夢にまでみた故郷に戻ってみれば、暖かく迎えてくれるどころか矢を射かけられて、帰りたくても帰れない。これが喜劇でもぼくは笑えませんよ」
陰気にため息をついて、さらに嘆き節はつづく。
「今晩こそ吹きすさぶ風に凍えることなく、城内で藁蒲団にくるまって眠れると思ったのに。ああ、それなのにィ!」
シチリア王国から故郷までの長く険しい道のりを思えば、従者が嘆くのも無理はなかった。
アルプス山脈のブレンネル峠を越えるときは吹雪にあい遭難しかけたり、街道では盗賊団に襲われたり、命を落とす危険と隣り合わせの旅をのりこえてきたのだ。
父なる大河ラインの力強い流れに寄り添うように連なる七つの峰。
最初にみえてくる峰こそドラゴン退治の伝説がある竜の岩、その名を冠した城こそが帰る場所だった。
しかし、懐かしのジーベン・ゲビルゲの山並みに歓声をあげて喜んだのもつかのま、落胆の淵に突き落とされることになる。
八ヶ月ぶりに遠征から戻ってきた領主とその兵士たちの前に城門は堅く閉ざされ、歓迎の挨拶はふりそそぐ矢だった。
――城はぶんどられていたのだ。
ライン河谷の右岸で隣同士の領主たちは代々、領土の拡張のためにいがみあってきたが、それも先代の領主までのこと。いまは今晩の宿にとサイン伯の居城に押しかけられるほど親しい間柄だ、と隣領主であるオスヴォルトは思っている。
手紙で知らせていた日よりも三日はやく、長旅でくたびれはてた騎馬の一団がサイン伯の居城を訪れた、まさにそのとき。
サイン伯の守備隊長が、武装した兵士の一団を率いて出発しようとしていた。
そこでオスヴォルトは帰ってくるのが一足遅かったことを悔いることになる。
気づいたときには手遅れ、甘美な痛みをもたらす棘のように致命的なまでに彼の心臓に食いこんでいた、サイン伯を継いだ誇り高き薔薇――カーラインが。
彼の弟ヨハネスによって奪われたのだ。
想い人が囚われているのは、留守をねらって奪われた居城。
――ドラッヘンフェルス城。
父が死んで後を継いでからも、彼が居城で暮らすことはほとんどなかった。
戦場こそが彼の居場所だった。
なぜなら、幼年期の記憶が城の暗がりに潜み、獲物である彼に食らいつこうと待ちかまえているからだ。
息子に呪詛をあびせていた母が死んだ後も、呪縛はまだ解けていない。昼でも闇にとざされた塔から聞こえてくる、からからと紡ぎ車が回る音が耳にこびりついている限り。
その紡ぎ車の幻聴とともに思い出すのは、いつも母の背に隠れていた弟の蒼白い面影。
同じ女の腹から双子として生まれながら、いや、双子だからこそ、ふたりは光と影のように違っていた。
父に似てたくましく育っていく彼は母にその男らしさゆえに憎悪され、父から疎まれるほど病弱だった弟はそれゆえに母に偏愛された。
だが、塔で母と暮らす弟をみていると、溺愛されることが幸せだとは思えなかった。
塔に巣くう蜘蛛女となった女の狂気に侵され、ぼりぼりと頭から喰らわれていくようにしかみえなかった。
だから、母に生き写しのように痩せこけた弟の昏い眼差しを忘れることができない。ひとりだけ逃げだした彼をじっとみていたあの闇にそまった瞳を。
――彼は自らの影を置き去りにしたのだ。
「オスヴォルト卿」
追憶の名残を振り払って視線を向けた先に、カーラインを取り戻すために一緒に行動することになったサイン伯守備隊長の謹厳実直な顔があった。
「もうすぐ夜が明けますな」
サイン伯の領土からドラッヘンフェルス城までは、馬を駆歩で疾走させて一時間はかかる。
なんとか朝陽がのぼる前にたどりついたものの、夜は終わりを告げようとしていた。渓谷は靄にかすみ、いまだ深い眠りにたゆたっているが、ほのかに空は白みはじめている。
カーラインの守り役である隊長は、ごましおの眉をしかめて空を見上げていた。主人を案じるあまり、この一晩で一気に白い毛が増えたのではないだろうか。
囚われたカーラインを一刻もはやく助け出すためには、ひそかに送りだした兵士たちが闇に乗じて侵入を果たせるかどうかにかかっている。
だが、味方だった闇が去ろうとしているにもかかわらず、いまだ城門はかたく閉ざされたままだ。
それでも、オスヴォルトは焦った様子をみせなかった。力強い声で断言する。
「グスタフ殿。夜明け前に計画通り、突撃する。暁の矢が闇をしりぞける頃には、サイン伯の太陽よりもまぶしい笑顔を拝めているはずだ」
グスタフは眉をしかめるのをやめ、腹の底まで見通すような目で彼をみた。
泰然とふるまいながら、その実は焦燥にこがれている心の内をみてとったとしても、彼の倍以上に人生経験を積んでいる老兵は、それに対しては無言を通した。
「主君を無事に取り戻すために全力を尽くす所存です」
生真面目にこたえると、みずからの隊列に戻るため馬首をかえした。
オスヴォルトは苦笑をもらす。同じ心境にある男にだけは見抜かれてしまったようだ。
そう、彼は焦っていた。
カーラインをさらった男がどんな人間なのか、同じ血が流れていることを忌むほどに知っていたからだ。
ヨハネスは永遠に変わらない美に執着した。大切にしていた幾百の標本箱のなかには、とめ針でつらぬかれた蝶の繊細な翅が彩色硝子のごとく燦めいていた。
ヨハネスは空を自由に飛ぶ小鳥に憧れていた。風切り羽を切って飛べなくなった小鳥をさらに鳥籠のなかに閉じこめて、空に焦がれて弱っていくのをうっとりとみつめている――そんな弟の姿を思い出し、心臓が死人の手でつかまれたように冷たくなる。
カーラインはヨハネスが張った蜘蛛の巣にからめとられた美しき獲物なのだ。
だからこそ、標本にした蝶のように、翼をうばった小鳥のように、壊すだろう。
――俺が駆けつけるまで、どうか無事でいてくれ!
その想いが声になることはない。血がにじむほどに握りしめた拳だけが彼の荒れくるう胸中を叫んでいる。
「そろそろたどりついてる頃だと思うんですが......」
オスヴォルトがいだいている懸念を代弁してくれたのは、ユリウスだった。従者として仕えるようになったのは彼が十九歳で騎士に叙任されてからだから、六年のつきあいになる。その間にすっかり苦労性になっていた。いまも心配そうに眉尻をさげて、主人を見上げている。このしょぼくれた老犬のような顔のおかげで、知らず気張っていた肩から力がぬけた。
「ああ、たどりついているはずだ。......あんなところで命を落としたくはないからな」
飛んでくる矢に負けずにこちらも火矢を放ち、守備隊を引きつけている間に、少数の兵をもって城内に侵入する。その作戦じたいは常道である。だが、その侵入方法を聞いた者たちは、血なまぐさい戦場を渡り歩いた猛者でも絶句して蒼ざめるものだったのだ。
ユリウスは同情のこもった目で城をみあげて、慨嘆した。
「あの口にするものもおぞましい、ねばねばしたものを鼻に口につまらせて、地獄の釜より恐ろしいぬるぬるの底無し沼にまみれて溺死、だなんて!! 死に方を選べるなら、ここで矢が刺さって命を落とす方がマシですよお!」
はっきりとそれが何か口にださなくても、臭ってくるほど表現豊かに叫ばれて、ちかくにいた騎士は嫌そうに顔をしかめている。むごい死に方を写実的に想像してしまったらしい。
配下の兵を危険なところに追いやった張本人であるオスヴォルトは、彼らがそんな悲惨な運命に襲われないよう祈るしかできない。吐きだされた白い息が闇がしりぞきはじめた空へと消えていく。
空は濃紺から淡い青へと色を薄めていき、鉛色の雲から暁の矢が放たれた。
それが合図だったかのように、城からどっと喚声がわく。
待ち望んでいたその時が訪れた。
滑車からすべりおちる鉄鎖のきしむ音とともに、跳ね橋が降りてくる。
城門塔が陥落したのだ。
「突撃!」
短く発した号令につづいて喇叭がいくさの歌を高らかに叫び、夜明けの空へと駆けあがっていく。
オスヴォルトは拍車を蹴った。低く身を伏せ、人馬一体の黒い疾風となって駆ける。雪まじりの風を背にうけて。
向きを変えた風によって降りそそぐ矢は勢いをなくしていた。
風を味方につけたオスヴォルトが率いる騎馬隊は雪煙を巻き上げ、跳ね橋へと殺到した。
「城門塔が陥落しただと!? 裏門に詰めていた衛兵は、何をしていたんだ。あそこから突破をはかるのはわかっていたから何重にも防衛線をひいていたんだぞ」
ヨハネスは報告した衛兵に向かって怒鳴りつけている。
どの城にも味方が城外へと抜け出せる裏門がある。目立たないように設けられた戸口は大人一人がやっと通り抜けられるほどの小ささで、はしごを使って上り下りしなければならない。大勢で攻め寄せることはできないうえに、裏門の上部に張り出している石落としから高温に熱したピッチをつめた火壺が落ちてくるは、狭間から矢で狙い撃ちされるは、突破するまでに屍の山が累々とできることになる。守備隊の注意をそらしておいて裏門を急襲する作戦を攻められる方も読んでおり、対策を講じているからだ。
「それが攻めてきたのは裏門ではなかったんです」
衛兵は申し訳なさそうに言った。
「夜明け前の闇にまぎれて水壕を泳いで渡った一隊が、便所の縦坑から侵入したんです」
絶句しているヨハネスに向けて、さらに報告をつづける。
「糞尿まみれの敵兵に襲われて右往左往している間に城門塔が陥落し、跳ね橋がおろされたところを待ちかまえていた騎馬の攻撃隊が乗りこんできた、とそういう次第でして」
「......“衣装部屋”から這い上がってきたというのか!」
なんとか言葉をとりもどしたヨハネスは、便所をあらわす遠回しの比喩を使うと、嫌悪で顔を歪ませた。
「さすがは野蛮人の兄上だ。美を崇拝する文化人である僕には想像することすら耐えられない」
ヨハネスの細腕が小刻みに震えている。その腕に抱きかかえられているカーラインは、おのれの置かれている深刻な状況を一瞬わすれ、吹き出しそうになるのを必死でこらえていた。
――さすがね、オスヴォルト。“衣装部屋”は盲点だわ。
城門塔の御不浄は壕に面しており、縦坑をつたって排泄物が落ちていくようになっている。
おそらくオスヴォルトは、少数の侵入部隊だけ先行させ、ひそかに水壕を渡らせてたのだろう。防備をかためられる前なら、闇に隠れて壕を渡ることは難しいことではない。そのあとで軍隊を率いて堂々と駆けつけた彼は、城内の守備隊を引きつけておき、便所の縦坑からの侵入を成功させたのだ。
侵入方法としては最適かもしれない。
ただし、蝿がたかる糞便の山をかきわけることをのぞけばの話だが。
黄金をつまれても、そんな目にあいたくはないものだ。
黄金に色だけは似ているねばねばの物体でぬめぬめになった侵入部隊に同情してしまうカーラインだった。