竜の血脈05 暁闇
どろりとした甘い薔薇の香りと腐臭がまじりあった猛烈にくさい夢をみるのはこれで二度目だった。
前回とおなじく、目を覚ましてもにおいは依然としてある。
暗がりにぼうっと浮かびあがるものに目をこらしていると、それは椅子の背にもたれかかっている豪華な衣装につつまれた屍体だった。その腐臭の原因が、薔薇の褥に横たわっている彼女を見下ろしている。黄泉の昏い淵のごとき眼窩で。
ここでもう一度、気絶したら、今度こそ悪夢から覚めるだろうか。だが腱を切られた右足が訴える、意識が熱にうかされる痛みが、これは夢ではないと告げていた。
夢であってほしいと願ったところでこの現実は変わりはしないし、泣いていても仕方がない。そう弱気になった自分を叱咤しても、まなじりから涙がこぼれていく。
目の前に敵がいれば、毅然として立ち向かうこともできる。けれど今、蝋燭の炎が消された真っ暗闇の部屋にあの狂った男と家臣たちの姿はなく、彼女は独りだった。
いや、ひからびた屍体と二人きりだった。愛する母親を連れていかなかったのは、寂しくないようにという思いやりなのではないか。あの男の言動のすべてが理解の範疇をこえている。だからこそ怖ろしかった。このままでは変態男の狂気にじわじわと浸食されて、自分も狂ってしまうだろう。絶望の種は彼女の胸に芽吹き、恐怖をすすりあげて育っていく。蛭が血を吸って黒々とふくれあがっていくように。
守備隊長のグスタフならさらわれた主人を救出するために手を打っているはずだ。そう必死に言い聞かせながら、なぜか脳裏にうかぶのは、オスヴォルトの不敵な笑み。それが絶望の底無しの闇に呑みこまれそうになった自分をつなぎとめている。弟にさらわれたことさえ知らず、今頃は野営地でいびきでもかいているだろう。と、腹立たしく思いながら、それでも心の奥底では信じているのだ。黒き疾風のごとく駆けつける騎士の姿を。
だが夢想は破られた。耽美趣味の変態男ヨハネスがふたりの家臣を引き連れて慌ただしく戻ってきたのだ。
では、もう朝なのか。鎧戸でしめきった部屋には朝陽がさしこまないため、夜が明けたかどうかわからない。
「僕が花嫁を連れていく。おまえたちは母上を運べ」
命令されたふたりは、ぶつぶつ不平をこぼしながらも、嘔吐をもよおす臭気を放っている屍体を椅子ごと持ち上げて運んでいく。
寝台のそばに立つ気配がして、燭台に灯された炎が、カーラインの顔を照らしだした。調教中の野性の獣が大人しくなったか確かめるような視線を痛いほど感じながら、弱々しくみえるように目を伏せた。今はおびえているところをみせて油断させるのよ、と言い聞かせながら。
手も足も自由をうばわれ、口も猿轡をかまされている状態では刃向かうことはないのだとやっと安心することができたのか、ヨハネスは彼女の顔を間近に見下ろしてきた。満足そうに頬がゆるんでいる。
「そう、そうして儚げにしていたほうがいいな。今から僕たちは婚礼の式を挙げるために礼拝堂に行くんだけど、猿轡をはずしても大丈夫だね? 噛みついたり、毒舌を吐いたりしないでおくれよ。できるだけ僕は君を傷つけたくないんだから」
猿轡をしたままでは司祭の前で誓えない。だから口は自由にしてくれるわけだ。狂犬あつかいされるのは業腹だったが、カーラインはしおらしくうなずいた。
耳元にふれる香辛料くさい息と骨張った指の感触に耐え、口を覆っていた絹布がはずされてやっと息をついた。さらに下手に出て頼んでみる。
「縛られたところが鬱血しているの。抵抗はしないと約束するわ。手も自由にしてくださらない?」
ヨハネスはまだ疑わしそうに彼女をみていたが、眉を厭みたらしく上げて言った。
「そうだねぇ。暴れても痛い目にあうだけだってこと、君も学習したみたいだし、手も自由にしてあげよう」
カーラインは大輪の花がひらくように微笑んだ。咲き誇る花の陰に研ぎ澄ました牙を隠して。喉もとに食らいつき、ひき裂くときがくるまではお望み通りの人形になってあげる。
ヨハネスは凶暴な乙女を手懐けたことに満足した顔で、手首を縛りつけていた絹布をほどいた。そして人形のようにじっとしている彼女を抱きかかえて歩きだす。
剣を振り回すこともできないような細い腕がなんともこころもとない。すぐに音をあげるだろうと危惧していたが、よろめきながらも無事になんとか螺旋階段を降りきって、大広間についた。
石造りのアーチ天井の下では、武装した衛兵たちが殺気立った様子で行き来し、召使いたちが右往左往している。祝宴の準備で追われているようにはみえない。
豪華な料理が並んでいるはずの長卓子は壁際に片付けられ、広々とした空間には殺伐とした雰囲気がたちこめていた。
興奮した犬の吠え声と衛兵の怒鳴り声で騒がしい大広間を横切り、半円形のアーチで支えられた出入り口から屋外階段に出た。
雪をはらんだ風が吹きつけてくる。
夜はまだ明けてはいなかった。
中庭には篝火が火の粉を散らし、黒々とわだかまる闇を追い払おうと燃えさかっていた。
塔の狭間に外壁の歩廊に松明の炎がゆらめき、戦闘配置についた衛兵の姿が蟻のように群がっているのがみえる。
攻め手と守り手そうほうが吹く喇叭の音が朗々と響きわたり、地面を蹴る馬蹄の音、兵があげる喊声、血と炎を巻き起こす軍勢の音が雷鳴のごとく轟き押し寄せてくる。
カーラインは風になぶられた髪の下でひそかに微笑した。グスタフが兵を率いて、彼女を助けるためにやってきたのだ。
「夜更けに前触れもなく大勢で押しかけてくるなんてまったく非常識だね。あれは君の飼い犬だろう。仕付けがなってないよ」
癇にさわる笑い声をあげて、ヨハネスはカーラインの顔をのぞきこんだが、彼女は表情を変えなかった。いたぶり甲斐がないのも不満らしくヨハネスは鼻を鳴らす。
「今夜は招かれざる客が押しかけてくる日らしい。君の飼い犬たちと一緒にいくさ馬鹿の兄上がのこのこと戻ってきたんだよ。すでにこの城は僕のもの、兄上の居場所なんてもうどこにもないのにね」
カーラインは湧き上がってきた感情を抑えきれなかった。
ああ! 本当にオスヴォルトが駆けつけてくれたのだ!
春の息吹きがふきこまれたように凍えていた顔に生気をとりもどしたことをヨハネスは見逃さなかった。目を細めて、彼女の顔をみていることに気づいたカーラインは表情をすばやく消した。この男に、オスヴォルトに抱いている気持ちを悟られてはならない。
ヨハネスは声をひそめて笑った。
「必死に隠そうとしているけれど、君の考えていることぐらいお見通しだよ。助けてもらえることを期待していることは、ね。でも、無駄だよ。僕の城は難攻不落なんだ。結婚式をあげてしまった後だって、奴らはあいかわらず壕のところで騒いでいるだけさ」
意地の悪い口調でなぶられても、カーラインは目を伏せたままだった。しかしその目には強い輝きが宿っていた。
難攻不落をうたっていても陥落しなかった城はない。
ただ攻城戦はたしかに時間がかかる。それはシチリア遠征でのサレルノ攻略で体験済みだった。まず寄せ手を阻むのは、広く深くうがたれた壕だ。城門塔の狭間から放たれる矢にさらされながら、壕を埋めていかなくてはならないのだ。分厚い城壁を突破するまでにどれほどの死者を生み出すことだろう。
正攻法で攻めるならば、無理矢理に結婚させられる前に救い出すことはできない。
だが、オスヴォルトはこの城の主だ。城の構造はその欠点もふくめて熟知しているはず。奇襲をかけて一気に陥落させる策があるにちがいない。それが何かまではわからないが、彼女は信じていた。
オスヴォルトは必ず、結婚式をぶち壊してくれる。
いま自分にできることは、間に合うように時間をかせぐことだ。
花嫁となる娘が決意を胸に秘めているのも知らず、ヨハネスはよろよろと屋外階段を降りて、居館の隣に建てられた礼拝堂のアーチをくぐった。
夜だというのに中は明るかった。
ずらりと壁に掛けられた燭台の炎が闇をしりぞけ、ゆらゆらと揺れている。
十字架が据えられた祭壇を背にしてすでに司祭が待っていた。その隣には、すでに天に召された花婿の母親が鎮座している。
司祭の前にすすんだ彼らに司祭が祝福のことばをかけた。
ヨハネスが結婚の誓いを高らかに告げているのを聞きながら、カーラインは唇を噛みしめる。誓いの言葉を口にすれば、婚姻が成立してしまう。
ヨハネスは誓いの言葉を口にしようとしないカーラインを苛立ちのこもった目で睨みつけた。
「時間稼ぎをしても無駄だよ。僕を怒らせるとどうなるかふたたび教えないといけないのかい」
毒をふくんだ声でささやかれ、カーラインはうつむいていた顔を上げた。
狼の燃える金の双眸に見据えられたようにヨハネスはたじろいだ。
「おまえごときがわたしを従わせることはできない」
烈しい眼差しと裏腹な静かな声だった。だがその声には誇り高い獣の怒気がひそんでいる。
拒絶された花婿は、目をかっと見開き、口をわなわなと震わせた。
「僕が紳士的に振る舞っているというのに、どうして君はそんな酷いことが言えるんだい! じつに嘆かわしい! 君は口を閉じておくべきだ。今度こそ、その舌を切りとって――」
激高した男の甲高い声は、だが最後まで言い終わることはできなかった。
まさにその時、扉を開け放ち、衛兵が駆けこんできたのだ。
「た、大変です! 城門が破られました!」
――カーラインは、微笑んだ。血のごとく紅い薔薇よりも鮮やかに。