竜の血脈04 薔薇の褥
腐りゆく果実にも似たどろりと澱んだ香りがからみつく。
暗闇のなか、毒々しいまでに紅い花が一輪、咲いていた。血を流しながら悶えるように、花びらがこぼれおちていく。白い骨が散らばる湿った墓土がどす黒く染めあげられていき、そして腐爛した屍の臭いが――
カーラインは新鮮な空気を求めてあえぎ、眠りにつなぎとめようとするまぶたを無理にひらいた。
なのに夢のなかで嗅いでいた濃厚な香りが依然としてある。
うすくひらいた目に、はらりと花びらがこぼれた。
これもまた夢の続きなのだろうか。
天鵝絨を思わせるふくよかな花びらに包まれて、寝台の羽毛蒲団に身を沈めていた。この胸が悪くなるほどの甘やかな香りに埋めつくされて。
あたりを見回そうとしたとたん、首筋に痛みが走った。その痛みのおかげで朦朧としていた意識がはっきりとする。返り血でべっとりとぬれていた服は、なめらかな肌触りの純白の服に替えられていた。手足を絹で縛られて、まるで生け捕りにされた鹿のように。うなじを強打されて気を失っているあいだにあの下劣な猟犬どもの主人のもとへと運ばれたわけか。そこまで自分が置かれた状況を確認したとき、男の陶酔した声が詠うように響いた。
「おお、薔薇の褥に抱かれた乙女よ。蜜色に燃える瞳がひらかれるさまは暁の清らかな光のごとく。愛の神が放つ黄金の矢となり、僕の心臓をつらぬいてしまった!」
視線をむけると、寝台の側に置かれた燭台の灯りにぼんやりと照らされて、青白い顔をした男が亡霊のように立っていた。声をきくまで凝視されていたことに気づけなかったほど生気にとぼしい男の、ここではないどこかを夢見ているような目だけが妙に熱っぽい。
着ている服も奇抜だった。道化師のように紅と黒に分かれた左右色違いの脛までの上衣を着て、長靴下は上衣と左右反対にした色なのだ。だが、身分卑しい道化師ではない証拠に着ているものは絹であり、紅の側には金の薔薇、黒の側には銀の竜の刺繍で彩られていた。花弁に紅玉がきらめく薔薇模様の腰帯は金細工だ。貴族なのは間違いない。これが自分をさらうよう猟犬をけしかけた張本人か。カーラインは眉宇をひそめた。
「ああ、何が貴女の太陽のごときまばゆい容貌を曇らせてしまったのですか。どうか貴女の美に囚われたしもべに心を晴らすお手伝いをさせてください」
流行の先端を走りすぎて珍奇な装いの男がうやうやしく腰をかがめるさまをカーラインは底冷えする目で見た。血を流して倒れたマルティンの姿が脳裏からはなれない。目の前にいる男がすべての元凶なのだ。今この手に剣があれば、鳥肌が立つ美辞麗句をふるう男を斬り殺してやるのに。
「熱で頭が沸いているようね。誘拐を指示した本人がぬけぬけと言える台詞じゃないことすらわからないようだから。本当にこの心を晴らしたいと思っているのなら、今すぐにわたしを居城に帰しなさい」
彼女の怒りの矛先がどこにあるのかわからないというように、男は潤んだ目を縁取る長い睫毛をしばたたかせていたが、しばらくして深々とため息をついた。
「迎えの者が無礼を働いたようですね。決して傷つけてはならぬと厳命していたのですが、下賤の者ゆえ礼儀を知らない。困ったものです」
「礼儀を知らないのはおまえも同じでしょう。名乗りすらあげずに、下劣なごろつきを使って嫌がる女を暴力をふるってさらったのだから。そういうのを同じ穴の狢というのよ」
「なんてつれないひとだろう! 薔薇とともに恋愛歌謡を届けていた求婚者の名前を忘れてしまったのですか。迎えの使者に僕だとわかるよう薔薇を持たせていたでしょう。そう、僕こそが薔薇の貴婦人を崇拝する騎士歌人、ヨハネス・フォン・ドラッヘンフェルスです」
カーラインは目を見開いた。薔薇うんぬんの独白はどうでもよかったが、忘れがたい男が継いだ家名がこんなところで出てくるとは。この自己陶酔男がオスヴォルトの弟?
「我がドラッヘンフェルスとサイン伯とは領土をめぐって争いあった因縁ある間柄ですが、僕と貴女の結婚によって平和が訪れるでしょう」
「当主ではないものが一族を代表した口をきくとは笑止なことを言う!」
目の前の男は嫌みたらしく肩をすくめてみせた。
「戦場を渡り歩いているいくさ馬鹿の兄のかわりに領地を治めているのはこの僕です。あの男が今さら戻ってきても何一つ渡すつもりはありませんよ」
「オスヴォルトがいくさ馬鹿だとしても。それでも彼は弱きものを踏みにじったりしないまことの騎士だわ。弟のおまえは盗賊だけどね!」
カーラインが放った痛烈な言葉にはじめて血色のわるい顔がどす黒く歪んだ。オスヴォルトに似ているのが黒髪だけの弟は兄と比べられるのが我慢ならないらしい。
「何ということを! 地上に舞い降りた天使のような姿をしていながら悪魔のように口が悪いとは――」
激していた声がとぎれ、影がにじむように薄く笑った。
「そうだ。舌を切り取ってしまえばいい。そうすれば醜い言葉をその綺麗な唇がはきだすことを聞かなくてすむ」
爛々と病的に光っている目で見据えられ、カーラインの背中に冷たい汗がながれた。血管の浮き出た痩せた手から逃れようと背中で這いながら後退る。舌を切り落とそうと短剣が近づいてくるのを為す術もなく凝視しながら、しかし彼女は屈してはいなかった。手足が縛られているせいで、張り飛ばすことも、蹴飛ばすこともできない。
だが、噛みつくことはできる。
屍体のように冷たい指が唇をなぞったとたん、甲高い悲鳴があがった。
床に膝をついて指をおさえてうめいている男をカーラインは冷厳と見下ろし、血のまじった唾を吐き捨てた。
「母上ぇ!」
幼子のようにすすり泣きながら男はにじりながら離れていこうとする。
その滑稽な姿にカーラインは呆れ果て、冷笑を叩きつける気にもなれない。力をみせつけるためにいたぶろうとした獲物にまさか反撃をうけるとは想像もしていなかったのだろう。相手より優位に立ち、生殺与奪を思うままにふるえる立場にいなければ、まともに話すこともできないのだ。
これが本当にオスヴォルトと血のつながった弟なのだろうか。兄が太陽なら、この弟は光の射しこまない部屋に澱む闇だ。
燭台の灯りが届かない部屋の隅にたどりついたヨハネスは、椅子に座っている、おぼろに浮かび上がる白い長衣をまとった婦人らしき姿にすがりついている。
母上と泣きついている声を聞きながら、カーラインはいぶかしく思っていた。息子が泣きついているにもかかわらず、言葉をかけるでもなく、身動ぎする様子すらうかがえない。ヨハネスの話しかける声だけが響いている。まるで会話が成立しているように。
「はい、母上。わかりました。では、僕の背中に手をまわしてください」
そう言うと、母親の体を持ち上げた。しかし息子の背にまわされることなく腕は力なくだらりとおちて、運ばれる拍子にぶらぶらと揺れている。
床に敷きつめられた花びらを踏みながら近づいてくる。一歩、一歩。近づくにつれ薔薇の甘い香りにまじる臭気が凄まじくなる。夢のなかでこの臭いを嗅いでいたのではなかったか。
これは腐った屍体の――
「母上、さあご覧になってください。白薔薇のごとく清らかに咲いている乙女が僕の花嫁です」
腕のなかにいる婦人の姿を間近に見たカーラインの全身が総毛立った。悲鳴をあげることもできず、限界まで目をひらいて、それを凝視していた。
白金の髪がふちどる顔は萎びて黒ずんだ肉がこびりついている骸骨だった。
母親に掠奪した花嫁を紹介するのはおかしいことではない。
ただそれが腐敗した母親となれば話は別だ。
猛烈な腐臭に気が遠くなりながらもカーラインは、黒い穴と化した双眸から目が離せなかった。
半ば白骨化している木乃伊の母親は、無理やり花嫁にされようとしている彼女のことをどう思っているのか。もちろん、その虚ろな眼窩に何の感情も見いだすことはできない。
どれほど死を悲しもうとも、その体が腐臭を放ち、腐り崩れていくさまを見れば、ひとは恐怖する。それがどんなに愛した存在だとしても。
だが、この男は――
母親の死を受けいれることができずに朽ちていく亡骸を大事に抱えて、微笑んでいる。
「花のなかの女王、並び立つものなき美しい薔薇の君よ。なにをそんなに怯えているんだい」
鳩のように喉を震わせて満足そうに。
「ああ、明日の結婚式が不安なのかな。突然だったから無理もないね」
独り合点している男は無視して、カーラインは考えをめぐらせる。グスタフ率いる守備隊によって救出される前に結婚式を挙げてしまいたいのだ。掠奪による結婚であろうと、司祭に祝福された正式な結婚式をあげてしまえば、婚姻は成立するからだ。
それでも。
「おまえがいくら強引に結婚しようとしても、わたしの同意なくして婚姻は成立しないわ。無理強いされての結婚だったと教会に無効を申し立てれば解消できるのだから!」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだけだよ。すぐに気が変わるさ。女心ほど変わりやすいものはないからね」
この狂った男に何を言っても無駄だ。おのれの都合の良いように曲解するのだから。それでも言わずにはいられなかった。
「おまえのような変態と結婚するぐらいならわたしは死を選ぶわ!」
変態と罵られてもヨハネスはくすくすと笑っている。
「子猫ちゃん、そんなに毛を逆立てて怯えなくていいんだよ。床入りの儀のことが心配なんだろう?」
生理的に受けつけない男に抱かれると想像するだけで嫌悪感で肌が粟立つ。そんな彼女を愛おしむように見下ろすと、ヨハネスは口をひらいた。
「母上は略奪されて処女を奪われたんだ。......不幸な結婚だった。僕は母上の嘆きを子守歌にして育ってきたんだよ。愛しい君をどうして母のような目に合わせられるだろう」
カーラインは眉宇をひそめた。彼の母親には同情をおぼえる。自分もその運命をたどることになると思えばなおさら。
「――なのに息子のおまえはその不幸をくり返そうとしている。言っていることとやっていることが矛盾しているわよ」
「あの野蛮な父上と一緒にしないでもらいたいね。僕は美しいものを愛している。その美を汚す行為を僕は憎む。君は汚れなき処女のままで僕の妻になるんだ」
その言葉がまことならば、貞操の危機だけはまぬがれるわけだ。
「ね、だから君は怖がらなくていいんだよ」
警戒する猫をなだめるように言いながら、また噛みつかれることを怖れて近づいてこようとしない。怖れているのはおまえの方だろう、とカーラインは冷ややかに思った。
彼女の放つ殺気におのれの方が危ないと察したのか、ヨハネスの笑い顔が引きつっている。
「誇り高い君はまさしく花の女王にふさわしい。だけど、凶暴なのはいただけないな。婚礼の式にさるぐつわをはめて手足をしばるわけにはいかないし。残念ながら、従順にさせるためには手荒なことをしなくてはならないようだ」
身構えるカーラインを尻目にヨハネスは声を張り上げて家臣を呼びつけた。扉の側で控えていたのだろう、すぐに扉のきしむ音がして、ぞろぞろと三人の手下が入ってくる。それはカーラインをさらった猟犬どもだった。
寝台をとりかこんだ男たちは、にやにやと下品な笑いを浮かべている。
「おまえたちは彼女が暴れないようにおさえつけておけ。口にはさるぐつわをかませるんだ」
カーラインは抵抗はしなかった。ヨハネスだけなら噛みつくなりして抵抗すれば時間はかせげるかもしれない。だが三人の男の力にはかなわない。ここで無駄に殴られるのも業腹だ。
汚い手がのびてきて、さるぐつわをかませられても、カーラインは毅然と顔をあげて、ヨハネスとその手下を睨み据えていた。怯えているところなど絶対に見せるものか。
両手と両足をおさえつけられてやっとカーラインの側ちかくに寄ることができたヨハネスは、ひからびた母親を寝台近くの椅子に座らせると、床に落ちていた短剣をとりあげた。
そして、微笑みながら言った。
「僕は小鳥の歌声が好きだ。でも、小鳥が空に焦がれて飛んでいってしまわないか不安になるんだ。鳥籠に閉じこめていても、ふとしたことで逃げだしてしまうかもしれない。だからね、僕は風切り羽根をきってしまうんだ。そうしたらもう飛べないから、逃げられることを怖れなくてすむからね」
ほとばしる男の狂気に、背筋を冷たい汗がにじんでいく。
「だから、君も逃げ出せないように、足の腱を切ってしまおう。心配しないで。婚礼の式には僕が抱いて連れていってあげるから、歩けなくても平気だよ。それに僕に逆らったらどうなるか身をもって教えてあげれば、君もきっと大人しくなってくれるだろうからね」
陶然と喋りつづけながら、儀式をおこなう神官のようにうやうやしく、短剣を振るった。