序幕03 鴉の目
鴉の群れが鳴きわめいている。
息絶えたばかりの肉体から立ちのぼる湯気は白い。
黒の頭巾を深く被った巡礼者が一人、血溜まりの中に居る。鴉のように黒く。
降り積もったばかりの雪が舞い上がる。
頭巾が風に煽られ、人にしては異様に美しすぎる顔が顕になる。
鳥のガラス玉のような瞳が、死体を映していた。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ......
竜の城を逃げ出した傭兵どもの成れの果て。
我が不滅の薔薇を拐った男たち。
あと一つは、ここにいない。
それは、鳥の目で世界を見る。
切り立った崖。月明かりに照らされて、雪に落ちた黒い染みのような男がふらつきながら歩いていた。
――見つけた。
巡礼者の黒い外套が翼のように羽ばたく。
鴉が一羽、飛び立った。
夜なのに塒にも戻らず、うるさく喚くこともない。
一羽の鴉が夜の闇に紛れ、飛んでいる。
鴉の目は見ていた。
凍てついた崖道をフラフラと歩いている。虚な男。
まだ生きてはいるが、心はすでにこの世から離れている。
全ての鳥の目を通して、それは見る。
過去も、現在も、同じ一つ。
一羽は全て。全ては一羽。
鴉が一羽、窓辺に降り立ち、見ていた。
炎のように激しく美しいあの人の足の腱が切られるのを。
もう二度と自由に飛び立てないように。鳥籠の中に閉じ込めようとしているのを。
あの時、鴉の目が映していた男は、酔ったように笑っていた。
今は、黒い染みにしか見えない。洞窟の顎に飲み込まれるように消えていった。
その後を追っ手として放たれたのだろう兵士姿の人間も松明片手に洞窟に入っていく。
鴉は降り立つ。
その翼が畳まれた瞬間。
巡礼者姿の黒を纏いし異形もまた、闇に紛れ、後を追う。
だが、復讐は果たされなかった。
目の前で黒い染みは落ちていった。
松明を持たずに暗黒の世界に入り込んだのだ。地面に穿たれた裂け目があることさえ、気づいてなかったのだろう。
松明を掲げ、駆けつけてきた追っ手の男は立坑の穴を覗き込んでいたが、降りる術はない。首を横に振りながら立ち去る。
そして再び洞窟は暗黒に沈んだ。
闇がゆらめき、人の姿を取ったそれは、深淵を覗き込んだ。
耳を澄ませたが、鼓動の音は聞こえなかった。
目を澄ませると、首も腕も足も折れた死体が見えた。
息を漏らしたが、白い湯気は立たない。
復讐することさえ叶わなかった。
――殺したところで、戻れるわけがない。
暁に燃えるような髪、命の炎を宿した琥珀の瞳。
赤い薔薇のごとき、永遠を誓った恋人の元には。
千の耳が聞きたくないものを聞く。
かれは聞きたくなかった。
カーライン様があの男を愛する声を。
千の目が見たくないものを映す。
かれは見たくなかった。
カーライン様があの男に抱かれるのを。
もう私の場所はないのだ。
帰る場所はないのだ。
「人の子となりたいなら、我が息子よ。白鳥の翼を置いていけ。それが人間になる代償なれば」
森で出会った少女が恋しくて、会いに行こうとした彼に白鳥乙女の母が言った。
黄昏の世界に住むものは、人間に恋をした時、境界を越える為、己の一部を失う。
「我らには掟がある。永遠の誓いが破られた時、愛した人間の心臓を手に入れなければ――」
白鳥乙女を愛した男は、現世に戻るときに心を失った。彼の父親が冷たかったのはそのせい。
母は父の心臓を持っていた。それは熱く脈打っていた。
そんなことはできない!!
私にはできない!!
カーライン様の心臓、心を奪うぐらいなら、それぐらいなら――私は。
耳元に嘲笑が轟く。雷鳴の音と共に。
隻眼の神は呵呵と笑うと、私の眼を覗き込んだ。
――おまえは摂理に反して存在する者。
――おまえこそが災い。
――そんなおまえが愛しい女を守れるというのか!
鋭い剣となって喉元に突きつけられる問い。
私は影に潜み、カーライン様を守る。そのためだけに戻ってきたのだ。
だがこの私こそが、カーライン様に災いをもたらす。
アルベルトは、己の胸ぐらを掴んだ。
鼓動しない心臓を取り出したかった。
異界と現世、生と死、愛と哀、誓いと呪縛。
その二つに引き裂かれた叫びが、長く長く尾をひく遠吠えのように響き合い、深淵に木霊していく。
ヨハネスだったものが黒い染みとして落ちていった深淵で、何かが目覚めた気配がした。