霧の森01 眠りの霧
ドラッヘンフェルスからの使者がサイン伯の居城レーヴェンブルクに訪れたのは、二月のことだった。
「ドラッヘンフェルス男爵オスヴォルト卿とサイン伯爵カーライン様の婚礼の宴が三月、雪解けを待って、執り行われる。サイン伯爵領からも参列者、および奥方付きの者を送られたい」
ドラッヘンフェルス領主の奥方となったカーラインからサイン伯城代に任じられたグスタフは、その知らせを受け取ると、しばし思案した。
一刻も早く、女主人に会いたいと思ったが、雪解けまで一ヶ月はある。冬の間の備蓄が心もとなくなってくる頃だ。ドラッヘンフェルス城の食糧を食い尽くすかもしれない。
婚礼の宴には、数日の余裕をもって到着できるように手際よく準備を整え、守備隊から十人を引き連れ出立した。
「カーライン様を救い出して速攻で、司祭を呼んで結婚したくせに」
馬に揺られながら、ブツブツ文句をいっているのはマルティンだ。
マルティンの姉エルザは、呆れたように言った。
「ホント、あんたもしつこいわね」
マルティンは、姉を睨みつけた。
城代になってしまったが、マルティンにとっては今でも隊長だった。その背中を追っていきたかったのに、口うるさい姉に止められて、一週間も遅れを取ってしまった。
崇拝してる女主人があいつを選んだんだから、仕方がないとは思う。思うが、それでも口からは文句が出る。
「今更婚礼の宴かよ。順番が逆だろ」
「仕方がないでしょ。カーライン様のお体を気遣って、延びてたんだから」
助け出された後、彼女の女主人は、一週間は熱が下がらなかったと聞いている。傷は塞がっても、足を引きずるようにしか歩けないだろう。腱を切られたと知った時、エルザはカーラインが軽やかに走る姿をもう見られないのだと悟った。思い出すだけで胸が苦しい。
馬の背に揺られて傷口が痛んだのか、マルティンは顔を歪め、脇腹を押さえている。
「やっぱりまだ早かったんじゃない、無理しないでよ」
隣を行くエルザが、弟を気遣うが、彼は口をひん曲げて言い張った。ここまできて安静にするために戻されてたまるものか。
「大丈夫だって言ってるだろ!」
また薬草煎じた粥を食べさせられるのだけは勘弁だ。一口食べただけで吐き出したことを思い出して、顔を顰めている弟に、姉は冷たい目を向ける。
「あっ、そ。もう怪我がぶり返したって知らないからね」
マルティンが雀斑の浮いた鼻を鳴らすと。
エルザも負けずに雀斑の浮いた鼻を鳴らしてみせた。
森の中を歩く馬の蹄がぬかるんだ土を踏む。雪解けの土の湿った匂い。
彼女は春の訪れを匂いで感じていたが、突然、寒気が背筋を走った。
エルザは震えが止まらなくなった。
霧が出てきていた。
白く、全てを覆い隠していく。自分の足元と隣にいるマルティンさえ、白い闇に溶け込んでいくようだ。
「――っち。霧の中で進むと道に迷うぞ」
マルティンは舌打ちすると、手綱を引っ張り、馬の足を止めた。
エルザを見ると、彼女の歯が鳴っている。異常なほど恐がっている。
「マルティン、これ。普通の霧じゃないよ。冷たすぎる。命を吸っているみたいに」
「よせよ。霧は霧だろう」
「霧は、異界から吹くことがある。おばあちゃんが言ってたでしょ」
マルティンは鼻に皺を寄せた。
「――ばあちゃんが言ってたこと、本気にしてるのか」
エルザはマントを胸元へ引き寄せ、唇を噛み締める。
「おばあちゃんは怯えていたよ。あんなに怖がっているの初めて見た」
マルティンを見ると、馬上でうとうとしている。
ちょっと何で寝ているの?
そう言おうとして、口を開けたつもりでいたが声にならなかった。
気がつかないうちにエルザも目蓋を閉じていた。
鴉が一羽、梢にとまっている。
馬に乗ったまま眠っている二人の姉弟を見ていた。