霧の森02 夢を解け
ドラッヘンフェルス城に向かう道中、祖母と母に会うために村外れの小屋に立ち寄った。小屋の背後には森が広がっている。
扉を開けた途端、セージのすっきりする香りが鼻腔をくすぐった。
「マルティン、あんた。また大きくなったんじゃない?」
朗らかな声が私たち姉弟を迎えた。
城勤めを辞めた母はカーライン様の乳母だった。血は繋がっていなくても、私達は同じ母乳を飲んだ姉妹。身分に差があるから妹とは呼べないけど。
「会うたびに言ってないか、それ」
うんざりした顔で抱きしめてくる母親の顔を見下ろしている、こちらは血の繋がった弟は、確かに背が伸びてきている。ヒョロヒョロだけど。
「毎日会ってたら言わないよ。あんたが死にかけていると聞いて、施療所に駆けつけた時は、あたしの心臓まで止まりそうだったんだから。よくこれだけ減らず口を聞けるようになったね。母ちゃんは嬉しい」
そして、私たち姉弟をその若草色の目で見て、うなずいた。
「カーライン様の婚礼に向かっているんだろう。匂い袋を作ったから、持ってお行き」
私たち姉弟は匂い袋を渡された。
薄荷の頭をガツンと殴られたみたいに強烈な香りが襲いかかってくる。
「うへえ。俺、この匂い嫌いなんだよな」
「どうしたらここまで強烈にできるの。眠気覚ましには良さそうだけど」
「なんだか必要になる気がしてね」
母はこんなふうに意味深なことを時々、口にする。未来を予言する魔女みたいなところがある。
「さあ、おばあちゃんに会っておいで」
うながされて、昼でも薄暗い部屋の中、唯一明るい日差しが差し込む窓辺に向かった。一日のほとんどを寝ているようになった祖母は、手を胸のところで組んで、寝息も立てずに眠っていた。
「死んでいないよな」
マルティンは、恐々と祖母の皺だらけの顔を覗き込む。
カッと皺に埋もれた目が見開いた。
「まだ死んどらんわ」
祖母は悪態をついたが、内臓が飛び出そうなほど咳き込んだ。息も絶え絶えになっている祖母の背中をさすりながら、涙声になる。
「おばあちゃん! 死んじゃ嫌!」
「だからまだ死んどらん。......まぁ危なかったがな。なんとか戻って来れたよ」
「ばあちゃん。会うたびに死にかけているよな」
じろりと口の減らない孫を見る目は白く濁っている。その目つきが魔女みたい。みたいじゃない。私のおばあちゃんは薬師であり垣根を渡る者。夢を通して境界を行き来することができる。マルティンは信じていないけどね。
「今度は何を見てきたの?」
祖母は、黙り込んだ。白濁した目には畏怖があった。乾いた唇を湿らせながら、しわがれた声で語り出す。
「わしはいつものように空を鳥のように飛んでいた。削り立つようにしてそびえている火山岩の山が見えた。その中腹には洞窟が竜の口のように開いてた。風が渦を巻いていた。引き返そうと思ったが手遅れだった。奈落が口を開けてわしを飲み込もうとしていた。それは光でもなく、闇でもない。ただの虚。神々より古い虚だった」
何なのか、よくわからなかった。ただ背筋に寒気が走り、鳥肌が立っていた。
「えーと、それは竜の洞窟のこと? 昔、おばあちゃんが話してくれたドラッヘンフェルスの伝説。生贄になった乙女が光となってドラゴンを退治したっていう。古い神々よりさらに古いものって、そのドラゴンなの?」
「わしが見たのは、竜の洞窟と呼ばれている岩窟だ。その虚がドラゴンなのかどうかは、わからんよ。わしには見えないし、理解できん。人の子の夢見し神々であれば、語りかけてくることもあるが。あれは喋らない。ただ呼んでいる」
私は、眉を寄せた。意味がわからない。でも、私は竜の洞窟のことは知っている。
「竜の洞窟ってカーライン様が助け出された場所だよ」
マルティンは、痺れを切らして叫んだ。
「もういいよ! わけわからん話はここまでにして、さっさとドラッヘンフェルス城に行こうぜ」
祖母はため息を吐き出し、肩を落とした。長く喋ったことで疲れたのだろう。
「それなら気をつけるんだね。ドラッヘンフェルス城は霧に包まれていたよ。あれはただの霧ではない。異界から吹いていた」
そして、祖母はエルザの手を取った。
「お母さんからもらった匂い袋は胸元に入れておくこと。匂いをたどって起きるんだよ。それと、鴉が鳴く声がしたら、私の言ったことを思い出すんだ」
「なんで鴉なの?」
祖母は笑った。
「わしが何とか帰れたのは鴉のおかげだったからさ」
潮騒のような葉擦れの音で我に返った。
私は、目を開けた。
目を開けたように感じるだけかもしれない。
この感覚は、馴染みがある。夢の中で夢を見ている感覚だ。
木々を何本も寄り合わせたようなイチイの大木を見上げる。
暗緑色の梢は墓地を天蓋のように覆い、風に揺さぶられて激しく波打っている。
これは、過去の記憶を見ているんだ。
修道院の墓地に私はいる。
アルベルト様とカーライン様が寄り添う姿を思い出して、切ない気持ちになっていた。
互いが互いの半身のように。死が二人を分つまで。私は、この二人が永遠に離れないだろうと思っていた。
石の墓標は忍びよる薄暮に沈んでいた。その影の中に黒い外套を羽織った巡礼者がたたずんでいた。
黄昏の夢のように寂しい、美しい横顔。
アルベルト様だと思った。
死者が生き返ることはないのに。
瞬きすると、姿は消えていた。
まぼろしだった?
なのに墓標に絡みつく蔦に一輪の赤い薔薇。
冬なのになぜ一輪だけ咲いていたの?
一羽の鴉が墓標にとまっていた。
私を見ていた。鴉なのに目が黒くない。黒に見えるほど濃い緑。鴉は首を傾げて、しわがれた声で、短く鳴いた。
「それと、鴉が鳴く声がしたら、私の言ったことを思い出すんだ」
祖母の声が殷々と脳裏に響いた。
「お母さんからもらった匂い袋は胸元に入れておくこと。匂いをたどって起きるんだよ」
私は胸元を握りしめていたことを思い出した。
強烈な目覚めを促す匂い。
匂いの道を辿って目を覚ませ!
エルザは瞼をカッと見開いた。
涙と鼻水が同時に出るぐらい薄荷の匂いが強烈だった。
白く塗りつぶされた視界に、濡れたような黒い翼が映った。鴉は、馬の足に蹴られない位置に降りてきて、翼をたたんだ。
目が合った。濃い緑の目がエルザを見上げていた。何の感情もないガラス玉のように。
何だろう。あの墓標に止まっていた鴉?
あ!
背中に稲妻が落ちたように震え上がった。
あの時、幻のように消えたんじゃない。
鴉になっただけなんだ。
「アルベルト様」
エルザは、死んだはずの美しい騎士の名を口に出していた。
刹那、鴉だったはずの黒い翼が外套に変じた。眉を寄せていても完璧に整っている顔。鴉だった時にはガラス玉みたいだった緑色の瞳には、驚いた色が浮かんでいた。