霧の森03 騎士の誓い
――まさかこの娘にアルベルトと名前で呼ばれるとは。
真の名前で呼ばれた以上、鴉の姿を取ることことはできない。
若草色の目を丸くして、彼をまじまじと凝視している娘。カーライン様の侍女で乳姉妹。『垣根を渡る者』の血を引く......エルザという名前の娘。鴉が人の姿に変わったというのに、悲鳴をあげるどころか。
「......なんで鴉なんですか?」
彼は、首を傾げた。なぜそんなことを訊くと思ったが、問われたからには答えないといけない。
「私の纏う色が黒だからだ」
娘が納得したかどうか、どうでも良かった。
それよりも、娘の隣にいる少年の体が傾き、馬から今にも落ちそうになっていることが気になった。
彼が人間だった時、子犬のように懐いていた。目を輝かせ、彼を見上げていた少年。今は、肉を食べている夢をみているのか、よだれが口から滴り落ちている。
マルティンを指差した。
「落ちるぞ」
事実だけを告げる。
彼女は、弟が落ちそうになっていることに気づき、傾いている体を押し戻そうとしている。
そして胸元から薄荷の匂いのする袋を握りしめ、少年の鼻に押し当てた。
途端、盛大なくしゃみをした。涙と鼻水を流しながら、何すんだよ! と怒っている。
彼は、エルザが眼を離した隙に鴉に変じて、行方を暗ますこともできた。
だが、なぜかこの姉弟のやりとりを見ていると、人間だった頃を思い出して、唇がふっと笑うように動いていた。
エルザは亡くなったはずの騎士が鴉になって現れたことに目を丸くした。
なんで鴉なの? と思わず口走っていた。だって、白鳥の騎士様だったんだよ。
答えが返ってくるとは思っていなかった。
黒いから鴉になったって。わかったような、わからないような。アルベルト様ってこんな話し方だった? もっと丁寧な話し方だったと思うのだけど。
マルティンが馬から落ちそうになっていることに気を取られている間に、鴉になって飛び去っているだろうと思いながら、エルザが振り向くと。
彼女の憧れだった美しいひとが、あの時のように微笑しているではないか。
エルザは思い出していた。
照りつける夏の日差し。城の中庭に砂埃が立つ。
翼を広げた白鳥が描かれた盾で守備隊長グスタフの木剣を受け流し、緑の外衣が翻る。まるで舞踏のようだ。実戦とは違う、互いに剣の型を演じている。
見物客の中に弟の姿があった。食い入るように見つめている。
アルベルト様の木剣がグスタフ隊長から一本を取った。
彼女の弟は、白鳥の騎士の元に駆け寄っていく。まだ十三歳だった弟の背は長身のアルベルト様の胸のところしかなかった。興奮して捲し立てているマルティンを見て、首を横に振っている。
「私の剣技は参考にならないと言っただろう。グスタフ殿の基本に忠実な剣の型こそ、見習うべきだ」
激しく動いていたのに息も切れていない。
マルティンが何か言った。アルベルト様の笑い声が音楽のように響いた。
白鳥の騎士アルベルト。彼の母親は人間ではなく、白鳥乙女だったと。祖母が話してくれたことがあった。
エルザは、それは存在するだけで夢のような、美しすぎる男にはふさわしい物語だと思っていた。それが本当かどうかなんてどうでも良かった。半分、異界の血が混じっているから、生き返ったんだと、信じられるから。
マルティンは惚けた顔をした姉を怪訝そうに見ていた。彼の目には鴉に見える。
「鴉見て、何うっとりしてんだ?」
「ふーん、あんたにはまだ鴉に見えるんだ」
「は?」
「あんたは犬みたいに鼻が効くから、匂いを嗅いでみたら?」
鴉の臭いなんて知るかよ!
馬から降りて、鴉に近づいてみた。鴉は逃げない。こいつ、鴉なのに緑色の目をしているぞ。匂いを吸い込む。雨上がりの森の濡れた土、苔、葉、樹皮の瑞々しい匂い。それに混じる陶然とする甘い香り。
森の清涼な香りには覚えがあった。この匂い、懐かしい。マルティンが憧れていた騎士の匂い――すると鴉が黒い影になり、人間のように背が高くなり、黒の翼が外套になる。
マルティンのよく知る顔になっていく。
それはぼやけていた焦点が合う感じだった。
「え、なんでアルベルト兄ちゃん」
もちろん血のつながった兄ではない。彼が勝手に兄のように慕ってまとわりついていただけだ。
マルティンの顔が歪んだ。
「亡くなったんじゃなかったのか! 何で今更!! カーライン様はずっと待っていたのに!!」
マルティンは、アルベルトの腕を掴んだ。
少年の目が見開く。体温を感じなかった。死者のように冷たい感触。
アルベルトは、マルティンの手を払いのけた。触れられることを恐れるように。
「私に触るな」
冷たい声。なのに深緑色の目に浮かんでいるのは――苦痛、悲しみ。
「なんでこんなに冷たいんだ。温めないと!!」
マルティンは怯まずにアルベルトが退がった分だけ距離を詰めた。
アルベルトは、伸びてくる手をかわそうと後ずさった。
「止せ。私を温めることはできない」
「なんでだよ?」
「マルティン。私は死んでいないが生きているとも言えない」
「は? それってどういうことなんだ?」
マルティンは訳がわからない。分かりたくないのかもしれない。
「私に触れてはいけない。君の精気を吸いたくはないんだ」
エルザは黙って二人のやり取りを聞いていたが、たまらず叫んだ。
「マルティン、もうやめて。アルベルト様は鴉になれるのよ。魔女だって現実で鴉になることなんてできないわ」
エルザは馬から降りる。馬は立ったまま、眠っていた。そういえば、馬の鼻息も霧が出てきてから聞いていなかった。やっぱりこの霧は生きているものを眠らせるんだ。眠らないこの人は――。
「アルベルト様は死んだんだよ。黄泉からよみがえった時に人の精気を吸わないとこの世に留まれない体になってしまった。だから、マルティンに近づいてほしくない」
「そうだ。私の心臓はもう動いていない。」
淡々とアルベルトは、事実だけを述べる。
不意に、マルティンの榛色の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そこまでして、戻りたかったんだな。カーライン様の元に」
マルティンの涙が、己が人として生きていた頃を思い出させた。頬を伝う熱い涙。かつて、自分も流したことがあった。
「......そうだ。私は誓いを守る。カーライン様を守る」
たとえ、カーライン様が他の男を愛したとしても。
「この霧は、自然に湧いた霧ではない。生き物を眠らせ、夢の世界に閉じ込めるものだ。竜の洞窟の裂け目から溢れた霧は、竜の城を包み込み、森にまで流れ出している」
「私の祖母もそう言ってました。カーライン様は大丈夫なのでしょうか?」
マルティンは、もう、ただの霧だとは言わなかった。唇をきつく噛み締めている。
アルベルトは、城主夫妻の寝室の小窓に留まっている鴉に視点を移した。
「カーライン様は眠っている。夢を見ている。いつからなのか、私にもわからない。霧の中は時の流れ方が違うせいだ」
アルベルトは、視点をまたマルティンとエルザに戻した。
どうして私はこの二人に近づいたのか。
眠りの霧によって閉ざされた城にカーライン様の侍女と従者が入城すれば、霧の夢に綻びができるはず。
この娘が目覚めることができたなら、眠りの城へと導こうと考えていた。だが、真の姿を見破られ、計算が狂ってしまった。
「マルティン、エルザ。今、君たちが眠っていないのは、私が霧を吸うことで弱めているからに過ぎない。竜の城に入れば、強力な眠りの魔法が君たちを襲うだろう。虚ろからの霧は神々よりも古い。私の力よりはるかに強い。命の危険がある。必ず、君たちを助けると断言できない」
嘘はつけない。隠すことはできない。
「それでも、カーライン様を助ける為に私に力を貸してくれるか」
その一言を絞り出すように言った。
「俺だって、カーライン様が危険なら、たとえ地獄だって怖くねえ。行こうぜ! ドラッヘンフェルス城に」
マルティンには迷いはない。即答した。
「一度、眠りの魔法から目覚めたので、やり方はなんとなくだけどわかります。私も行きます。カーライン様を助けに行きましょう!」
震えながらも、エルザは決断した。
アルベルトは、二人に頷いてみせた。
「ここからは徒歩で行く」
アルベルトは、二人が騎乗していた馬の首を軽く撫でた。二頭の馬は、鼻息をたて、首を激しく振ると、駆け出した。霧に紛れて見えなくなったが、おそらく本能でサイン伯の居城へ辿り着けるはず。
マルティンは、この人は何も変わっていないと思った。馬を置き去りにしていかないんだ。こんなやばい森に放って置けないよな。
マルティンは、アルベルトの前で跪く。抜いた剣を両手に置き、差し出した。
「アルベルト様。あなたの手で騎士に叙任してください。俺はあなたのような騎士になりたいんだ」
アルベルトは、じっとマルティンを見下ろした。もう子犬のような少年ではなかった。誓いを立てる男の目だった。
彼はマルティンの剣を手に取った。途端、焼鏝で焼かれたような音と煙が立つ。
魔性の存在は鉄を嫌がるという伝承を思い出し、証人として見届けようとしたエルザも息を呑む。
マルティンは、自分の願いを叶えるために手が焼かれようが顔色ひとつ変えない男を見上げた。
剣が肩に置かれる。その重み。
「騎士の誓いは灯火。闇夜の中でも見失うな。弱きものを守る剣となれ」
「俺は誓う。闇夜を照らす灯火となり、弱きものを守る剣となることを」
「立て。騎士マルティン」
そして、立ち上がったマルティンを見て、自分の胸よりも低かった少年が、今では自分の顎に届くぐらいに背が伸びていたことに気づいた。思わず口に出していた。
「マルティン、大きくなったんだな」
マルティンの目にまた涙が浮かんだ。
止せと言われていたのに、気がついたらアルベルトを抱きしめていた。
「カーライン様もあなたを求めてずっと泣いていたんだ。会いにいかない方が絶対に怒るぞ。あなたがどんな姿でも、鴉の姿だって、きっとわかる。俺だってわかったんだから」
アルベルトは目を閉じた。熱い涙が流れるのなら、流していただろう。
「ああ。そうだな。夢からあの方が目覚めたら、今まで何してたの! と怒られるだろうな」
マルティンは抱きついていたことに気づいて、慌てて手を離す。
「悪い! 触れたらダメって言われてたのに」
「いや、どうやら大丈夫だ」
現世に留まるには人の精気が必要だった。だが、霧の中は異界だ。
私は、この霧の中なら、命を奪わなくても生きられる。
「そっか。じゃあ行こうぜ! ドラッヘンフェルス城へ」
「マルティン、そうだ。匂い袋をこうして鼻のところで括るといいんじゃない!」
エルザが匂い袋と紐を取り出してきたのに、マルティンが嫌そうな顔をした。
アルベルトは、笑った。外套を翻し、城に向かって歩き出す。その外套が黒から濃い灰色に変じていたことに誰も気づいていなかった。