霧の森04 魔女と鴉
エルザの祖母が眠る窓辺に鴉が一羽、舞い降りた。
「ガア――!」
老婆は、よっこいしょと掛け声をかけてから体を起こした。体の節々が痛いので、起きるのに時間がかかる。
「なんだい、うるさいねぇ。......おや、あんた。緑眼の鴉じゃないか。あん時は助けてくれてありがとうよ。......ん? 羽根の色が灰色混じりになっているじゃないか」
鴉が翼を広げて、首を傾げて自分の羽根を確かめた。確かに黒い羽根に灰色が混じっている。
「ガア!」
「鴉の言葉は分からんから、人間の言葉で喋ってくれ」
鴉はしばし沈黙し、一言だけ喋った。
「ハイイロ」
「はぁ。人間みたいに喋られないのかい」
鴉はさらに首を傾げ、黙り込んだ。そして、人間の声で喋り出した。
「......なるほど。私は鴉ではない。鴉のように喋る必要もない。人間として話す方が話が通じる」
「で。灰色がどうしたんだい?」
「それはいい。個人的なことだ」
と冷たく言っておいて、三秒後。
「いや、関係あるのか。マルティンとエルザの祖母だから」
老婆は、ムッとした顔になった。杖を持っていたら、叩かれていたかもしれない。
「もういい加減、名乗ったらどうなんだい? 全く礼儀がなっとらん。それから説明してもらおうじゃないか。わしの可愛い孫たちのことをね」
鴉は広げていた翼を閉じると、一礼してみせた。
「ゲルトルート殿。名前を名乗らず、窓から押しかけた非礼の数々、許していただきたい。だが、真の名前を口にするわけにはいかない。あなたは私のことをご存じだろう。あなたの助力で、父は黄昏の世界から現世に戻ったと母から聞いています。私は白鳥乙女と前サイン伯ルートヴィッヒの息子です。......今は鴉ですが」
ゲルトルート婆さんはゲホッと咳き込んでから笑い出した。婆さんのツボにハマったらしい。
「お母さん、そんなに笑って大丈夫?」
エルザの母親が心配になって駆けつけてきた。
「あら、窓からお客様が来てたのね。鴉の姿しているけど、誰かしら。知っている気配がするけど」
背中をさすられていたゲルトルートは、笑いをなんとか引っ込めると、重々しく言った。
「名前は言わないでおこう。マーガレッタ、この鴉はあの白鳥乙女の息子だよ」
エルザの母親マーガレッタはそれで察した。遠い異国で亡くなったとだけ聞いていたが、鴉となって帰ってくるとは。彼女は母から、母はその母から、綿々と続いてきた魔女の血脈に連なる者として、彼女は、ありのままを受け入れる。
異界は異界の法則が働く。白鳥が鴉になったのにはその法則が働いている。だが、わからないうちには、謎は謎のままでいい。
「さて。可愛い孫のことを話してもらう前に。わしの方でも整理しておくよ。あの亀裂から滲み出る霧の渦に飲み込まれそうになった時、わしを助けてくれただろう。夢から覚めた後、竜の城に向かうエルザとマルティンに話しておいたんだよ。霧の夢に囚われた時は鴉を思い出せとね。マルティンは聞いていなかったが。あれは、わしらのことを魔女だと思い込んでいる危ない奴らとしか思っていないからね」
祖母ゲルトルートと母親マーガレッタは顔を見合わせて、笑い合った。自分だけがまともだと思っているが、あの子は不思議なことがあっても、ありのまま受け入れてしまう。
「整理してくれて助かる。私はまだ人間として話すのに苦労している。簡潔に言う。私は異界から吹く霧の中でエルザと会った。エルザは私の真の名前を告げた。カーライン様の乳姉妹で侍女としか認識していなかったのだが、彼女も”垣根を渡る者”だったとは」
「あの子は自分が魔女だなんて思ってないよ。魔女の歴史、薬草の知識、伝承や異界についての知識、夢見と夢解きの方法は語って聞かせてたけどねぇ」
「そして、マルティンだが、彼も私の真実の姿を捉えた。そのあたりは個人的なことなので、省略するが。彼はとてもいい子だ。いや、いい男だ。危険を承知で竜の城に向かうとあなたの孫は決断した。二人が竜の城に入ることで、霧の夢は綻んだ。――今は二人とも眠っている」
ゲルトルートとマーガレッタの顔が強張った。
「あの子たちが決めたこととはいえ、流石に未熟な子どもには荷が重いぞ。この経験豊富な魔女ゲイトルートでも、あの霧に包まれた城に入れば、眠りの魔法に囚われるだろう。助け手があれば別だが」
「私が助け手になる。私は霧を吸うことができる。二人の側にいれば、霧の力を弱めることができる。エルザならば、夢を解ける。マルティンはありのままを見て、異変を感じ取るはず」
魔女ゲルトルートの白濁した目が炯々と光った。
「なるほど。霧を吸って、力を増したか。分霊の術で鴉を何匹放っているんだい? 気をつけるんだよ。器以上の魔力を吸い込んで、あんた自身が飲み込まれないようにな!」
「ああ、わかっている。全てを私が救うことはできない。だから、私が分霊している鴉は、カーライン様の元に一羽、エルザとマルティンに一羽、あなたのところに知らせるために一羽、そしてまだ霧の森で眠っているグスタフ殿の元に一羽だ」
マーガレッタは息を呑んだ。彼女にとって、グスタフは、古くからの友人なのだ。
鴉は緑の目で、心が乱れている様子のマーガレッタを凝視した。
「私は彼を起こすことができない。つついてみたのだが、眠りの魔法の方が強い。夢の解き手よ、力を貸して欲しい」
マーガレッタは胸のところで祈るように手を組んだ。薬指に鈍く光る鉄の指輪に口付けて、微笑む。
「これで三度目ね。眠りの魔法にかかったあの人を起こすのは。私がやるわ。鴉さんは、起きたあの人をここまで導いて頂戴」