霧の森05 騎士と魔女
マーガレッタは薬指に鈍く光る鉄の指輪を見つめた。
それは結婚指輪だった。守備隊に勤めている兵士マルクスと結婚したのは、エルザと同じぐらいの年の頃。そばかすは私に似ているけど、マルティンの顔立ちは亡くなった夫に似てきている。誰もいないのに見えない何かと話している、側から見たら近づきたくない女だったと思うのに、そういうところを含めて愛してくれた。美人でもないし、そばかすだらけの赤毛の魔女を可愛いよって。
最初から愛していたわけじゃなかった。私は別の人が好きだった。
好きな人がいると断ったら、マルクスはそれならそれでいいよ。ただ俺は君のことが好きだから。
幼なじみだったし、一緒にいるのが当たり前だった。兄と妹みたいだった。
兵士になった彼が戦場に行った後、私は自分の気持ちに気づいた。無事を毎日祈った。彼が私の元に戻ってきた時、永遠のルーンを彫った鉄の指輪を二つ、それぞれの薬指にはめて、私たちは結婚した。
鉄の指輪だけが返ってきた日。
ルーンに刻まれた褐色の跡。この血の色は私がどんなに涙を流したって消えない。
戦場から戻ってきた守備隊長のグスタフが、夫の形見だと渡してきた時の、胸を引き裂かれる痛み。
魔女だからといって、亡くなった人を蘇らせることはできないし。マルクスを貫いた槍の穂先から彼を守ることもできない。
夫は隊長のことを敬愛していた。隊長の背中を守るためにマルクスが命を落とした。
私の初恋の人を守って、妻の私を残して逝ってしまった。
一度目の異界の旅。領主様を異界から連れ戻す旅。少女だった私は母と一緒に騎士を助けた。鉄錆色の髪を短く刈っていて、まだ若いのに渋い顔をしていて、眉間に皺がよっていて、堅苦しい。礼儀正しくて、思いやりがあって私のことを守ってくれた。少女の私が恋に落ちたのも無理はない。
二度目の異界の旅。
私が仕えている奥方、ローザ様。小鳥のように可憐で、野薔薇のようにたくましい人。私の大切な親友。
そして、あの人は私が仕えている奥方様のことを命をかけて愛していた。その愛は敬愛する貴婦人に捧げるミンネであり、最初から報われる為に愛するわけではなかった。
ローザ様が愛していたのは、領主様のルートヴィッヒ。金の獅子のように美しく猛々しい少年は、馬上槍試合で見初めたローザ様に求婚した。その時の彼はまだ異界で白鳥乙女を愛してはいなかった。心があった。
ローザ様は愛しい人の心を取り戻す為に危険を承知で異界に赴いた。
あの人も再び、騎士として大切な主君の心を取り戻す為、ミンネを捧げる奥方を守る為、異界へと旅立った。
鉄の指輪をその時に渡したのだ。首にかけられるようにして指輪に紐を通して。
永遠の誓いが刻まれた鉄の指輪。
私が愛している男は戻ってこなかったけれど。マルクスが守ろうとした命は返ってきた。
どうかお願い。この世に繋ぎ止めて、地上に戻ってこられるように。
そして今回で三度目。
マーガレッタは森に入っていった。
雪が溶けた木々の梢はまだ葉も茂っていない。黄昏の日差しが差し込んでいた。
ここにはまだ眠りの霧は届いていない。
雪解けの土の湿った匂いを鼻腔に吸い込んだ。
マーガレッタの差し出した腕に、ずしりと重みがかかった。灰色混じりの翼をたたむ音がして、鴉が鳴いた。
「そう、今でも指輪を首にかけているのね。良かった。これでこの指輪が触媒になる」
そして、鉄の指輪に口付ける。
***
グスタフは、腕組みをして、霧を睨みつけていた。
この霧は幻を見せてくる。
黄金の髪は獅子のごとく、琥珀色の瞳は猛禽のごとく。黄金の炎が燃えるようだった。彼が剣を捧げた主君、ルートヴィヒ様。あの白鳥乙女と出会う前の17歳の少年だった頃の彼が、グスタフに向けて笑いかけてくる。
これは青春時代の、過ぎ去った記憶だ。
そう断じると、霧は今度は彼が迷い込むことになった異界の森の幻を見せてきた。
ルートヴィヒ様と叫んで、行方不明になった主君を探している。
霧は眠りに誘い、夢の中で目覚め、目覚めてもそれもまた夢、目覚めない夢に絡め取られる。
「グスタフ様!!」
痛みが走った。目を開けると、マーガレッタが重い剣をなんとか持ち上げて、彼の肩を叩いていた。そばかすの浮いた赤毛の少女は、彼が起きたのを見て、ホッとした顔で言った。
「やっぱり眠りの魔法に鉄は効くみたい。ほら、私がついてきて良かったでしょ」
では、これは一回目だな。
どうやって主君を助け出したのか、彼は思い出せない。
だが、戻ってきた主君は以前のルートヴィヒ様ではなかった。
剣を捧げた少年のあの熱い心は取り戻せていなかったのだ。
この幻影は、二回目も見せるつもりだろうな。
白い野薔薇の庭園で、初めて会った。
あかつき色の髪、青空の瞳。触れたら壊れるのではないかと思うほど華奢で、小鳥のように軽やかで、薔薇のように棘がある。
白薔薇の姫君ローザ様。
ルートヴィヒ様の花嫁となる少女に抱いた感情を、今でも名付けることができない。
この想いは、恋なのか愛なのか敬愛なのか。ただ、自分だけのものにしたいと願うものではなかった。
剣の誓いで結ばれた黄金の獅子の心を取り戻し、薔薇の乙女と末長く幸せにいてくれたら。それだけで良かったのだ。
だからこそ、ローザ様がルートヴィヒ様の心を取り戻す為に異界の森に向かうことを決意した日、彼は騎士として同行を願い出た。
そして異界の霧に包まれ、覚めない夢を彷徨う。
二度目でも彼は起きることができなかった。
役立たずもいいところだ。守るどころか、寝ているだけとは!
眠りの魔法の前では私は無力だ。
旅立つ前。
マーガレッタが差し出した鉄の指輪。
彼女はもう少女ではなく、二人の子どもを育てる未亡人だった。
「この鉄の指輪を肌身離さず持っていて。これはマルクスの指輪よ。あなたを死んで守った男の。私との永遠の誓いが刻まれた鉄の指輪。この指輪があなたを眠りから覚ますわ」
胸が炎で焼かれたように熱くなった。鉄が燃えている。
彼は、目覚めた。
だが、肝心の記憶がないのだった。
ルートヴィヒ様は心を取り戻せたのか?
ローザ様は?
白い霧しか見えない。
目を覚ましたと思ったが、まだ霧の中だった。
ギリッと奥歯をグスタフは噛み締める。
――血の味が口内に広がる。
「......現実なのか」
首にかけていた鉄の指輪を取り出す。それは火傷しそうなほど熱かった。
「この指輪に助けられたのはこれで二度目だな」
馬に乗ったまま眠っていたらしい。
どれほど眠っていたのか。彼の経験からすると、異界では時の流れが止まる。瞬きする間だと思っても、現実では一週間経っている可能性がある。
視線を感じた。
馬の頭に乗っている鴉と目があった。変わった目の色をしていた。緑眼だ。
濡れ羽色に灰色が混じっているのも珍しい。
「マーガレッタの使い魔か」
鴉は首を傾げて、ガーとだけ鳴いた。
魔女なら使い魔ぐらいいるだろうと聞いてみただけなのだが、返事をしたように見えた。試しに聞いてみる。
「使い魔なのだったら、鴉よ。この霧から抜け出すために案内できるか? できるなら三回カアと鳴け」
「カアカアカア」
鴉が三回鳴いたので、信じることにする。異界での旅はこれで三回目だ。そんな馬鹿な! ということでも受け入れる、しかない。
鴉は翼を広げて降りると、チョンチョンと地面を踏んで歩く。グスタフの方を振り返る。ついてこいってことか。
あたりを見渡した。彼は十人の守備隊員を連れてきていた。霧が出てきた時点で密集隊形を取った為、距離が近い。十人の黒い影が霧の中に浮かび上がった。皆、眠っている。
グスタフの軍馬も立ったまま眠っていた。馬の首を撫でた後、拍車を脇腹に強く当てる。鼻を大きく鳴らし、首を振るわせる。チラリとこちらを見ると、鼻息を吐き出した。それに応えるように並足で歩かせながら、剣を抜き、守備隊員の肩を叩いていく。一人一人、名前を大音声で呼びかける。
鴉も一緒になって、眠りこけていた兵士の頭にトンと飛び乗っていく。
「敵襲だ! 起きろ!!」
「痛っ!」「なっ!」「隊長!」「敵、どこ!?」「なんだ?」「鴉が、俺の髪ぃ」「いてええ!」「本当に目覚めたの、俺?」「腹減った」「!!」
「よし! みんな起きたな。信じられんと思うが、この霧が我々を眠らせていた。一刻なのか、一日なのか、七日間なのか、それはわからん。異界では時の流れが違う」
「はぁ、隊長。異界ってなんですか?」
「確か妖精のいる世界じゃなかった?」
「妖精とか眠りの霧とか、そんなの本当にあるのか?」
「俺は隊長を信じるぞ。腹が減って死にそうだ。俺の腹時計が少なくとも一日以上経っていると告げている!」
「相変わらず食い意地張ってるよな。危機感なさすぎ」
「私は隊長についていきます」
「......」
「おい、寝るなぁ!」
殴る音と殴り返す音。
グスタフは、隊員たちの顔を見回した。みんな黙った。
「私が異界に彷徨ったのはこれで三度目だ。二度生還を果たした私を信じろ」
「はっ!」十人の声がやっと揃った。
「密集隊形のまま、この鴉の後に続け!」
鴉は承知したと言わんばかりに一声鳴くと、飛び立った。
グスタフは馬首を鴉が飛び立った方に向けると、風を切って駆け出した。
真ん中にグスタフ、その周りを十騎が塊となって続く。
「眠らないように、歌え!」
グスタフ隊長の命令だ。
「やさしく美しい乙女よ、俺の心臓を受け取ってくれ」
グスタフの野太い声でまさかの恋歌。
「俺はいま悲惨の極にあるのだから。」
寝そうになっている隊員を鉄拳で起こす音が響く。
「君は俺の心の中にあり」
それぞれ、大事な女のことを思え! と隊長。
「俺は君をもう決して忘れはしない!」
男たちの大合唱。
そして、グスタフと愉快な部下たちはなんとか霧の森から脱出したのだった。
夜明けの燃える空の下、ライン河の両岸を結ぶ橋に赤毛の女性が鴉を肩に乗せて彼を待っていた。
「マーガレッタ。今度も君に助けられた」
「迷子の騎士様。三度目も無事生還できたわね」
彼女は昔と変わらないそばかすの浮いた笑顔で彼を見上げている。
守備隊の面々は興味津々で隊長と婦人を伺っていた。
グスタフはため息一つこぼすと。
「私はこの人と話すことがある。先に城に帰れ」
ニヤニヤしている隊員たちの顔を鉄拳制裁したいと思うが、拳を握るだけで我慢するグスタフだった。
そして。グスタフは、マーガレッタからドラッヘンフェルス城から霧が湧いていることを知ることになる。
――この緑眼の鴉の正体も。