剣の乙女12 子宮の闇を怖れる男
突撃は明朝だ。心残りがないようにしておけよ」
作戦会議が終わって本営の天幕から出たオスヴォルトは、ぼんやり待っていた従者の肩をどやしつけた。
痛いじゃないですか、という顔で彼を見上げると、疲れたように息をはきだす。
「突撃は明朝だ。心残りがないようにしておけよ」
作戦会議が終わって本営の天幕から出たオスヴォルトは、ぼんやり待っていた従者の肩をどやしつけた。
痛いじゃないですか、という顔で彼を見上げると、疲れたように息をはきだす。
「心残りは特にありませんねぇ。自分で言うのも何ですが、僕は従者の鏡ですから。いつでも戦えるよう準備は整えています」
「つまらんやつだな。別れを惜しむ女の一人もいないのか」
「残念ながら僕はその方面はとんとご無沙汰でして。オスヴォルト様こそどうなんですか」
「俺か。逢いたい娘っ子がいるよ」
彼は照れもみせず率直に言うと、まだ十代なのに若さを感じさせない従者の顔を見下ろし、にやりと笑う。
「明日も命があるかどうかわからん。たとえ袖にされても、気持ちはちゃんと伝えないとな!」
「はぁ、前向きですね」
「おまえは爺臭いぞ。たしかに軍隊は女っ気が少ないけどな。野郎どもを慰めてくれる“別嬪さん”がいるだろうが」
「彼女たちはみんなの別嬪さんですからねぇ。今頃、別れを惜しむ男たちが行列つくってますよ」
「ユリウスよ。そんなこと言っていたら、このさきもずっとご無沙汰だぞ」
オスヴォルトはやれやれと頭を振る。
みんなの別嬪さんとは、軍隊の賄いをする輜重隊の女たちのことだ。性欲を処理してくれる娼婦だけでなく、料理、洗濯、服の修繕、負傷者の介護など、戦場の男たちにとってなくてはならない女たち。
兵士たち相手に商売する輜重隊の天幕はどこも、酒を食事を女を求めにくるもの、武器防具の修理にくるもの、汚れ破れた服の洗濯、修繕をしにくるものであふれている。そこは兵士の生活の場だった。
酒盛りをし、博打を打ち、喧嘩をし、女を抱く。死と隣り合わせの恐怖を一時でも酒と女でまぎらせようと陽気に騒ぐ。その荒々しく野卑な空気に包まれるとき、彼は安らぎさえ感じる。
戦場で暮らす方が長かったせいかもしれない。このシチリア遠征の前には、十字軍に加わり、異教徒と戦った。前神聖ローマ帝国皇帝であった赤髭王ひきいるイタリア遠征、王位を狙う獅子公の反乱、あいつぐ戦乱を渡り歩いてきた。居城にほとんど腰を落ち着けたことがない。呪縛から逃れようと逃げ出したあの日から。あの女が死んだ今でも。
陰気で寒々とした塔の闇がこごった奥深く、紡ぎ車をまわす音がきこえる。
立ち入ることを禁じられた塔、開けてはいけない扉。
司祭が説く楽園追放の話も、乳母が物語るおとぎ話でも、どうして人は禁じられると破ってしまうのだろうか。
子どもだった彼も、禁じられた扉を開けてしまった。
女は糸を紡いでいた。彼女を不幸にした男を呪う歌を唄いながら。
信仰のために食を絶ち、神の国に昇ろうとした尼僧の木乃伊を思わせる、それが、ゆっくりとふりかえる。
落ちくぼんだ眼窩。燐が燃えるように狂気をはらんだ瞳。深淵の闇が彼をのみこむ。
乾涸らびた唇から血がにじんでいく。病的な白い褪せた肌に。萎れた花びらがひらいていく。
聞いてはいけない。
心を蝕んでいく、その呪いを。
出ていくんだ。逃げるんだ。早く!
だが、手遅れだ。彼は禁を破ったのだから。
永遠に呪われるだろう。
領地を手に入れるために強姦されて、婚姻を結ばされた女。踏みにじられた花は、息子をふたり産んだのち、冷たい石にとざされた暗闇に捨て置かれた。おのれに似ている病弱な息子を溺愛し、陵辱した男に生き写しの彼を呪いながら。紡ぎ車をまわす。かつて娘であったものが、母であるものが、老婆となったものが、糸を紡ぐ。
おかあさま、母上、そんなふうに呼んだことなど一度もない。あれは、蜘蛛女だ。宿命を織りあげる女神だ。この世ならざるものだから、愛されなくても当然なのだ。
十三歳で騎士見習いとして叔父に仕えるために城を出たとき、やっと彼は自由になったと思った。城に巣くう蜘蛛の毒液したたる糸にからめとられ、喰われてしまう前に逃げだせたのだと。
だが、本当にそうだったのか。今でも俺は囚われているのではないのか。
「ちなみに逢いたい娘というのは、あの気性の激しい牝獅子ですか」
ユリウスの声で、過去に潜っていた意識がひきもどされる。
「......牝獅子か、たしかにそんな感じのする娘だ」
「それにしても、本気なんですか。今まで生娘と素人娘には手をだしたことなかったのに」
オスヴォルトは頬をゆがめた。
「女を抱きたいだけなら、娼婦とするさ。彼女たちが欲しいのは愛じゃない、金だ。だから、こっちも気楽でいい」
「ってことは、本気なんですねぇ。どこまで本気なんだろうと思っていたんですが」
従者の口振りに彼は苦笑した。
「正直に言うとな。俺は女が、怖いんだよ。男をくわえこむあそこは天に昇る気持ちにさせるが、同時に深淵に呑みこまれてしまう気がして背筋が寒くなる。いつ死ぬかわからん戦場で戦っている方が怖くない。それに愛とか恋とか囁くより、剣でぶった切る方が、性に合っているしな」
目を丸くしている従者の顔をみて、肩をすくめた。
「だから、これが恋なのかよくわからん」
「あなたからまさか恋愛相談をうけるとは......」
オスヴォルトはもう聞いちゃいない。遠い目になって語りだす。
「彼女のそっけない声を聞くと訳もなく、俺はお花畑で蝶々と一緒にスキップしたくなるんだ。獅子のような瞳で睨まれると、風邪引いたみたいに熱がでて背筋がゾクゾクするしな。とにかく彼女がそばにいると、頭に花が咲き乱れ、雲雀が高らかに歌い、動悸息切れ眩暈をおこしてどうにかなっちまいそうだ。つい嫌がると知りつつ揶揄して案の定、馬鹿じゃないのと睨まれるのが、なんだか快感だしな。なぁ、これは恋の症状なのか? どう思う、ユリウス」
従者の肩をがしっとつかみ、真剣そうな目付きでのぞきこむ。
恋をするとひとは詩人になるというが、それにしてもロマンティックの欠片もないへっぽこな比喩に、ユリウスは苦しそうな顔をした。
「......それでどうして自覚ないんですか」
どっと歓声が沸く。
喧嘩だ。人の波が分かれて、その中心に光をはじくあかがねの髪、強い意志にきらめく琥珀の瞳の少女が猫科の獣のように躍りでる。風をまきおこし、顎にきまった強烈な一撃。仰向けに倒れていく男。
またここにひとり、撃沈したのだ。ちょっかいをかけて返り討ちにあった男たちの仲間入りを果たして。
やすらかに眠れ。オスヴォルトは、心の中で十字を切ると、気にくわない男は容赦なくひきさく牝獅子にむかって、怖れる風もなく歩きだす。
まったく、なぜこの娘だけが気になるのだろう。
涙にぬれた顔で、呆然と振りおろされる凶器を見上げていた。短い髪と軍装に身を包んでいても、匂いたつ雰囲気が少年ではありえない。戦場になぜ少女がいるのか。その姿を視界にとらえたときには、手にかけようとした敵兵を屠っていた。すれ違いざまの一瞬、目と目が合う。命の炎を燃やす瞳が彼をとらえた。あのときからか。
女はみな子宮で冥府の闇につながっている。この娘もあの女と同じ生き物だ。夜露にきらめく糸で絡めとって喰らう蜘蛛だ。深入りする前に逃げろ。
だが、彼は女神の水浴びをのぞいてしまった。
禁忌をおかした男の命は、古代の女神、月処女が握っている。握りつぶすも生かすも、美しく残酷な女神の心しだい。
美しい裸身をさらした乙女は、剣よりもするどく男の心臓を貫いた。
女は永遠に美しい処女のままではいられない。あの女と同じ醜い老婆になっても。
おまえはそれでもこの娘が欲しいのか?
そして、自ら炎に飛びこんでいく虫の気分になりながら、オスヴォルトはカーラインの前に立つ。
琥珀の瞳がまっすぐに男をとらえる。闇に燃える炎のごとく彼を焦がす。
その痛みに耐え、男は頬をゆがめる。
「一撃でのすとはさすがだな、カーライン。――どうだ、俺ともやりあってみないか?」
なんとか絞りだした告白に、だが彼女は目を見開き、呆れた表情で彼をみる。
「ああもう! 告白じゃなくて決闘申しこんでどうするんですか!?」
従者の仰天した声を聞き流して。カーラインに獰猛な肉食獣の微笑みをむけた。
「あんただけだよ、俺を熱くさせてくれる女は」