剣の乙女08 月の光
カーラインは、跳ね起きた。心臓が破裂しそうなほど脈打っている胸を押さえて、息を吸いこみながら鼓動が除々におさまってくるのを待つ。
洗ったはずの手にまだ血が絡みついている気がした。
男たちが裸になって川に飛びこび、綺麗さっぱり気持ちよさそうにしていたことを思いだして、眉をしかめた。自分は濡れた布で体をふくのが精一杯だったというのに。
ねばつくような感触が肌に残っている。血が肌の毛穴に染みこんだように。べたつく髪にも鼻孔を刺す血の臭い。吐き気がこみあげてくる。
洗わなければ。布なんかでは落ちない。清らかな水に浸かって、洗い流さなければ。血の穢れも悪夢の恐怖も。
今なら、川には誰もいないはず。
天幕の入り口に丸まって寝ている従者のマルティンを起こさないように気をつけながら外に出た。
蒼冷めた光が暗く沈んだ川にさしこみ、銀のさざ波がたっていく。
水の跳ねる音がして、したたる水滴が月光を弾き、ほのかに白く輝く裸身があられた。
銅を溶かしたようなまばゆい髪をかきあげ、首をそらす。繊細な翳りを落とす睫毛が震えて、まぶたがひらいていく。透明な美しさをたたえた瞳に月だけを映して。
満ちていく月の優しく慰めるような光に抱かれ、カーラインは体の奥にしみこんだ血が清められていく気がした。
だがそれは錯覚でしかない。人を殺めた罪の意識が消えることはないのだから。
こみあげてくる嗚咽をこらえたせいで、喉がひりついた。
視線を落とすと、水面におぼろに男の姿が映っていることに気づいた。
心臓が激しく跳ねた。今、襲われたら反撃できない。岸辺に服と剣が置いてある。そこまでたどりつく前に気づかれたことを相手に悟らせてはならない。
深く息を吸うと、ふたたび潜った。岸に跳びあがり、電光石火、剣をとると鞘を払った。
オスヴォルトは剣を突きつけられ、目をまるくした。
裸の乙女に剣を向けられたのは初めての体験だ。服より先に剣を取った少女に感心する。(そういえば、月の女神の水浴びしているところを覗いたせいで、鹿に変えられ猟犬に喰い殺された間抜けで哀れをさそう男の話があったな)
夜中に目が覚めて、汗を流そうと川にやってきたら、月の女神のごとき乙女が水浴びしているところに出くわしてしまったのだった。猟犬に変えられなくても、剣で切り刻まれそうだと思いつつ、だが彼は覗き見をしているとは思っていなかった。ただ茂みに隠れてこそこそと覗かないで、堂々と見ていただけである。
隠れてだろうが堂々とだろうが、少女にはどちらも許し難いことは一緒だろう。降参の印に手をあげる。
「いい眺めで惜しいが服を着たらどうだ? 俺はそのままでも構わんが」
「――後ろを向け」
少女は剣を突きつけたままで、低い声で命じる。
彼は黙って従った。
衣擦れの音がしたかと思うと、少女は腰までのたっぷりとしたリンネルのシャツをかぶっただけで、彼に鋭い一瞥を投げつけ、通り過ぎようとした。手を出したら、殺す。という殺気を漂わせて。
すれ違う瞬間、男が悪戯を思いついた少年のように笑った。そして、いきなりシャツを脱ぎ捨てたのだ。
とっさに柄を握る手に力がこもった。が、彼女に襲いかかるのではなく、男は川に飛びこんだ。水面から顔を出すと、水がしたたる前髪を無造作にかきあげて、笑ってみせた。
「これでおあいこだろう」
カーラインは、眉をひそめて男をまじまじと見た。断じて、鍛え抜かれた筋肉がしなやかな男の体に見惚れたわけではない。
男の裸を見て顔を赤らめるほどウブではないのだ。そんなのはこの遠征中にいやというほど見慣れてしまった。
なのにこの男は、絶対に勘違いしている。わたしがあなたをじろじろ見ているのは、呆れているだけよ。
「さっさとあがったら? 男の裸なんて見慣れてるわ」
冬の凍りついた川のように冷たく見下ろすと、男がニヤリと笑った。
「そいつは困った」と言いながら、全然困ったような口調ではない。
「見慣れているんだったら、あなたの裸を拝見した借りは返せないな」
耳から火が吹き出そうなほど顔が熱くなった。その一瞬よぎった羞恥を見透かしたように男はニヤニヤ笑っている。
「返せると思っていること自体、間違いね! 乙女の裸をのぞき見する奴は地獄行きよ!」
すると、ドラッヘンフェルスの領主は、肩を震わせて笑いだしたのだ。
彼女は全身から火を噴き出しそうな勢いで歩いていた。
悔しいことに、あまりにも腹が立ちすぎて反撃の言葉が出てこなかった。冷静でいられなくなったら、相手の思うつぼにはまるだけだ。
赤くなった時点で負けだった。